地方でそこそこの人気を博しながらも、上に行けないでいるバンドのボーカル・月子は、後ろ盾をしてもらっているライブハウスの社長からもっと売れ専の曲を作れと言われ、くさっていた。新曲のPVを作ろうとするも、予算も無いので、地元の高校の映研が賞をとったという話を聞きつけ、彼らに制作を依頼する。だが、その映研こそ、奇才の監督・恩田清治が所属している部活だった。彼の作品とその制作過程を目の当たりにし、壁にぶつかりもがいていた月子たちの心もぶすぶすと燻りだす……
ということで、小林有吾先生の新作『ショート・ピース』のレビューです。
奇妙な振る舞い、奇矯な言動。奇人変人を地で行く人間なれど、ひとたび見れば誰もが黙らざるを得ない作品を生み出す男、恩田清春。高校の映研で監督兼脚本を務める彼が、研ぎに研いで、良くも悪くも尖ったその感性で生み出す作品とその過程に、あたかも、途方もなく大きな質量に他の物体が引きつけられるように、他の人間も引き込まれていく。そんな大きな渦を描いているのが本作です。
壁に当たってもがき、目をかけてもらってるライブハウスの社長からは方針変更を迫られているバンド。
華やかな活躍をした過去を心の奥底に押し込め、普通の暮らしをしようとしている元有名子役。
親子のつながりを持とうとしなかった有名写真家の父親に反発するように、一人で働ける小説家を目指した少年。
自分の心を押し殺して現実を受け入れようとしている彼や彼女は、キヨハルの作品を見て、制作に関わって、取り繕わない自分の気持ち、目を背けていた本音をさらけだすことを受け容れるのです。
自分のやりたいことをやる。自分の気持ちを肯定する。背けていた感情に目を向ける。
ともすれば青臭いといわれそうな言葉ですが、本作はそれらの心の動きを、映像作品制作という、多くの人間がかかわる共同作業である創作行為と、それを中心となって指揮する一人のとんがった人間を通じて、ドラマチックに描き出しています。
たとえば、かつて有名子役だった少女、足立ひかり。彼女は幼少期に何本もの映画やドラマ、CMに出演しながらも伸び悩み、ついにはある映画監督に「君には何もない」と言われてしまいました。他の子なんかより自分の方が絶対うまい。そう強く思うも、落ち目の評価を覆すことができぬまま、彼女は引退しました。
それから6年後、ひかりはキヨハルのいる高校に転校してきます。周囲はかつての天才子役がやってきたと大騒ぎしますが、当の本人は騒がれることを望まず、過去の栄光を淡々と語り、普通に接してくれと話しました。栄光も所詮は過去の話。そう思ってきた彼女ですが、ふとした拍子に映研とかかわりを持ち、部員から作品に出演してくれないかと勧誘される中、当の監督であるキヨハルから「必要ない」とすげなく言われたことで、心の奥底に封じ込めてきた感情を引きずり出されました。彼曰く、「あんたには、あんたというものが何もない。」その言葉は、かつてプロの監督から言われた言葉の記憶と絡み合い、普段彼女が意識すらせずにしている演技がかった振る舞いを剥ぎ取り、絶望と恐怖に抉られた彼女の素顔をさらけだしたのです。
キヨハルの言葉の真意を質すため、映研の作品に出演させてもらうよう頼んだひかり。彼女の演技は、他の部員や出演している演劇部員が大はしゃぎするくらいに「うまい」ものでしたが、当の本人だけは浮かぬ顔。自分にだけはわかる自分の演技の至らなさを自覚し、人の輪から離れ俯いていました。いや、それに気づいていたのはもう一人。ひかりと二人、モニターチェックをする監督のキヨハルにより、彼女の演技が失速した瞬間は的確に指摘され、以降も彼女の演技や内心の推移を余さず説明されていきます。それにより、かつての監督と、そしてキヨハルの「何もない」の言葉の真意を悟り、とうとう彼女は、その言葉に向き合わず逃げ出した自分の弱さを自覚したのです。
ここまで、演技の仮面に覆われたひかりの日常の姿と、その彼女が目を逸らし続けてきた自身の過去と弱さを、キヨハルというフィルターを通すことで対比的に描き出してきて、ついには絶望に崩れそうになった彼女が露わになるのですが、その露わになった彼女こそ、キヨハルの求めていた、誰かのコピーを脱ぎ捨てた、一人の役者としての足立ひかりだったのです。裸の彼女に言葉を投げかけ、もう一度立ち上がらせるキヨハルと、自分の根っこのところにある気持ちに気づくひかりの姿こそ、この話のクライマックスなのですが、そのシーンは実に爽やかで、そして胸が熱くなるものです。
上にも書いたように、人間の根っこにある気持ちへの強い肯定、第1話のセリフを借りるなら「あんたは素晴らしい」と、飾らず、衒わず、素直に誰かを(あるいは自分を)祝福することが、この作品には強いテーマとして存在しています。それは第5話での、上手くはあっても面白くはないカメラワークを見ての、「映画が俺の、想像の域を出ない」と言ったキヨハルの言葉にも、一見無関係のようで通じることだと思えます。
それを考え出すとさらに長くなるので詳しくは後日の別稿として、ざっくり要点だけを言えば、彼の「想像の域を出」る作品を生み出すために、作品に関わる人間たちは、理屈や技巧、知識を越えた先にある、否、呑みこんだ先にある、否否、呑み込んだ大元にある「自分」というものを出す必要があります。それは、呑みこんだ当人以外には、外に現れるまで決して知れないもの。それどころか、当人すら外に現れて初めて知れるもの。当然、キヨハルにもわからないもの。だから、「想像の域を出」る作品のためには、作品に関わる人間が己を肯定しなければいけない。自分の本心を認めなければいけない。自分自身を祝福しなければいけない。自分は自分でいいのだと。そこには、とても素朴な人間賛歌がある。
とまれ、奇人監督を中心とした高校生たちによる映画制作に溢れる、自己を肯定するドラマには、読んでいて前を向きたくなる強さと明るさがあります。発売が昨年の11月だったのに読んだのが先月末で、発売すぐに読んでいれば俺マンに滑り込んでいただろうに、申し訳ない……
まずは第1話を読んで、その熱さと爽やかさを味わってください。
ショート・ピース 1/小林有吾
あと、女の子がかわいいの、いいよね……
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