さて、『スペシャル』の最終巻が発売されたわけですが。
3巻の途中くらいからきな臭さはたちこめだしていましたが、最終巻の4巻ではもうきな臭さで充満。噎せかえりそうなくらいきな臭くて、危うい空気で満ち満ちていました。狙われる伊賀。守ろうとする大石家。暗躍する、葉野の同居人(?)(父親の恋人?)(なにもわからない)である美倉。目的のためには拉致も人殺しも辞さず。まさかこの作品で暴力と血の臭いがするとは思っていませんでしたよ。ハンマーで人の頭を潰す音とか、死ぬ間際に投げつけられる罵詈とか、それまでの作品世界に圧倒的にそぐわないがゆえに、際立った違和感が読んでて消化不良を起こしそうでした。うぷ。
そして、最終話の最終ページは、あまりにも唐突な破滅の示唆。不気味なサイレンが鳴り響いた直後に伊賀と葉野が見上げた先には、一体何があったのか。3巻第40話で何の説明もなく展開されたシェルター避難訓練の話は、あまりにも説明がないので当たり前のように受けれいていましたが、まさかそこにで鳴り響いていたサイレンが、最終話のサイレンの布石になっていたとは。シェルターへの避難訓練は、ただの形式的なものではなく、実際的なものであり、もともとそういう世界観だったわけです。たしかに、現実に地震や火災の避難訓練はしても、シェルター避難の訓練はしないもんなあ。
そんな終末的終局を迎えながら、作品にはあまりにも多くの謎が残されています。
伊賀のヘルメットの下は明かされたもののその意味は不明瞭で、葉野と一緒に暮らしていた美倉の目的や背後にあるものはわからず、大石家がもつ隠然たる権力は示されてもそれが何によるものかはわかりません。山中に刺さっている槍は言わずもがな、それが林立しているという「放場(はなちば)」についても、全く説明がないのです。
これを投げっぱなしととるか否かは人によるでしょうが、私が感じたのは、不条理のカリカチュアでした。
漫画であれ小説であれ映画であれ、作品中で謎が提示されればたいていの場合、最終的には見ている人間に中身が開示されるものです。作中の登場人物には疑問が残っても、作品世界を俯瞰して見ることのできる読者・視聴者には、個々の謎が関連しあってパズルを解くように、そこではどんな物語が語られていたのかがわかるようになっているものです。
でも、本作ではそれがない。読者は作中の人物と同じレベルで、作中の謎に困惑します。いえ、伊賀の秘密や槍など、むしろ作中の一部の人物の方が事情を把握していることも多いでしょう。読者の理解は、なんでもない女子高生である葉野と同レベルです。
葉野は終盤で、自分の知らない内によくわからない状況に巻き込まれ、生命の危機すら感じ、なんとか脱出できても友人とは永遠の別離をにおわされ、挙句の果てには空から迫る破滅を目の当たりにする。不条理の極みです。そして読者は、それとほぼ同じレベルの理解状況に叩きこまれる。そしてそのまま終わり。実に不条理です。
現実を生きる私たちも実際に、知らない内によくわからない状況に陥ることはありえます。それにしたってこれほどじゃない。そんなことは思いますが、本当にそうでしょうか。それはきっと、そう思う私たちが単に幸運なだけ。世界を見渡せば、いや、国内を見渡したって、自分にはどうしようもない内にどうしようもないことになっている人は必ずいます。歴史を紐解けば、なんならwikipediaを見るだけでも、日々のニュースを見るだけでも、そんな例はいくらでも出てきます。
作中の人物に不条理を味わわせ、その不条理に読み手を同化させ、最終的には何の救いも解決もなく同じ地平に突き落としたまま終劇。まるで、お前の人生もこんなもんだぞと突き付けるように。
私の趣味で言えば、作品の謎はすべて知りたいものです。不条理は条理に解きほぐしてほしいのです。懇切丁寧に説明まではされずとも、それを推理できる程度の情報は出してほしいのです。でも、それらは許されないまま終わりました。胃の中に残った飲み込んだままの異物感は、消化できそうな見込みはありません。
でも、この作品に限ってはそれもいいのかなと思うのはなぜなんでしょうね。
独特の言語センスによる空気なのか。コメディ路線から気づかぬうちに連れ去られていた不気味への地続き感なのか。不条理の中でもがいているキャラクターたちへの同一感なのか。
後味は決して良くありませんが、その良くなさは強い記憶になってしばらく残りそうです。
いやホントにね、もうちょっと秘密が明かされたらね、よかったんだけどね…
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