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漫画の話です。

『ハコヅメ 別章アンボックス』カナの欲した正義とマジョリティの話

 7割コメディ3割シリアスくらいの按分で作品が構成されてる『ハコヅメ』。にもかかわらず、コメディ部をほとんどなくしてシリアスに極ブリしたのが『ハコヅメ 別章アンボックス』。
 著者コメントでも、

『アンボックス』の題材は殺人事件で、楽しいことは何も出てこないので、目にしたくない方が飛ばしやすいようにタイトルを変えました。
(アンボックス 帯より)

と謳うシリアスぶりです。

 そのシリアスさゆえに、面白いとは思っても、眼光紙背に徹するような熟読がなかなかできなかったのですが(心が痛くて……)、今般覚悟を決めて読んだところ、やっぱりおもしれえなあと泣きながら唸った次第。
 で、改めて読んだ中で思ったことをいくつか書いていこうと思います。
 今回はタイトルの通り、正義とマジョリティについて。

なぜ彼女は警察官になりたがったのか

 『アンボックス』で正義とマジョリティと言えば、本作の主人公を張っているカナが、幼少期の辛い記憶ゆえに欲したものでした。

多数の人が振りかざした「正義」から追われるような環境で育った私は
多数派の「正義」側の人間になってみたくて警察官になりました
(p16)

 20年以上前に発生した岡島災害は、源の実父が死亡した事件であり、それは本編での別の物語の大きなキーになっていますが、源の実父が死んだ原因となった老婆、すなわち生家から離れたくないがために避難を拒否し続けた「くそババア」が、カナの曾祖母であるということが初めて明かされました。

当時…妊娠中の妻を残して殉職した若い警察官に同情しない人はいなかったそうです
小さな田舎での出来事です 「なぜ高齢の母親を避難させなかったのか」…と祖父を中心に私たち家族は村八分に遭い
祖父が経営していた建設会社は数年であっという間に傾き 一家は散り散りになりました
(p15)

 「妊娠中の妻を残して殉職した若い警察官に同情し」た人々がみんなして、「正義」という名の村八分で追い詰めてきた過去。
 それがカナに「多数派の「正義」側の人間になってみた」いという将来を希求させました。

警察官は本当に正義か、マジョリティか

 警察学校の訓練から脱落しそうになりながらも、なんとか希望通りに警察官となったカナ。奉職初期はハンデとなった小柄な体格も、潜入くノ一捜査官なることで逆に長所とし、適材適所の有能さを発揮していました。
 しかし、本作での女性美容師行方不明事件でカナは、マジョリティを欲して、正義を欲してなったはずの警察官なのに、世間からも警察内部からも「正義」の目を向けられることになってしまいました。既に警察も認知していたDV事案だったにもかかわらず、事件が発生してしまったことは、「なぜ女性を守れなかったんだ」という「正義」の炎を燃え上がらせずにはいられなかったのです。
 カナの曾祖母が死んだとき、世間は殉職した警察の側につき、正義の目で、同じ被害者であるはずのカナの曾祖母、そしてその家族たちを睨みつけました。そのときカナは痛感したはずです。警察なら正義の側になれると。世間を守る側になることで、守っている世間と同じマジョリティになれるはずだと。
 しかしそうではなかったのです。警察は、被害者からの通報を受けて、できる範囲での対応をしていたにもかかわらず、事件が起こってしまえば、被害者が生まれてしまえば、「認識していたのに事件を防げなかった」と、無能怠惰を糾弾する正義の矢面に立たされるのです。
 これは、警察が常に「正義」の側にあるわけではないということを、端的に示しています。

正義はいつ生まれるのか 悪の後に掲げられる正義

 岡島災害とアンボックスでの事件を並べて、「正義」がどこにあるかを考えてみると、世間(マジョリティ)の側にあることが分かります。少なくとも、カナはそう感じていました。殉職した源の実父に同情した世間は、その死を引き起こしたカナの曾祖母を責め、一方で、DV事案の果てに死亡が強く疑われる形で行方不明になった女性を哀れに思った世間は、それを防げなかった警察を責めました。
 なにかよくないこと、責めてもいいこと、攻撃してもいいことを見つけた世間は、それをみんなで叩くことで、「正義」の側に立ちます。いわば、「悪」のカウンターとしての「正義」であり、「悪」と対立するものとしての「正義」なのです。「悪」のないところでも「正義」でございという顔をしているわけではありません。
 これは別に、世間が(あるいはそれを構成する個人が)常日頃から正しいことをしているわけではない、ということは意味しません。
 嘘をつかない。
 物を盗まない。
 人を殺さない。etc...
 社会が秩序を保てるよう、人間関係を損なわぬよう、その他もろもろ、意識的であれ無意識であれ、人はなるべく(その人なりに)正しいふるまいをしようとしていますが、それをいちいち口に出したりはしません(正義の御旗を掲げません)。それをしないのは、社会秩序のため、人間関係のため等々、当然のことだと考えているからです。
 もちろん人は、様々な比較衡量をしたうえでその正しさを無視したり、突発的な激情にかられて破棄することがありますが、そういうものが露見したときに、世間はそれを「悪」と叩き、「悪」を叩くもの、立場としての「正義」や「正しさ」が浮かび上がってくるのです。正義の御旗は、悪の事後に存在し始めます。

悪を叩く理由 マジョリティが選ぶ正義

 人は、世間はしばしば、被害者を見つけるとそれに同情し、加害者を叩きます。そのとき加害者が叩かれるのは、被害者を生んだ「悪」だからという理由があるからですが、これは少し捻じれれば、理由を見つければそれがなんであれ叩いていい、という危険な態度に転化します。
 実際『アンボックス』内で、被害者であるるみも、水商売をしていたという理由でネット上の中傷被害に遭っています。「ヤリマンが死んだだけ」。「女の浮気が原因だろう」。水商売をしていたということを理由にして、るみを叩かれるべきもの、叩いてもいいもの、すなわち「悪」としているのです。
 それどころか、るみの家族ですら「被害者面して気持ち悪い」という中傷に遭っています。これの理由は特に明示されていませんが、るみの家族だから、つまり「悪」の身内だから、ということなのでしょう。それが、中傷する人間にとっての理由です。
 その理由が真に誰かを叩くに値するものなのか(そもそも、第三者が叩くことを是とする理由は存在するのか)ということの検証が個人の内省でなされることはめったになく、理由があると思えば人は容易に正義の御旗を振りかざします。

 神ならぬ人の身、森羅万象すべてを把握することはできませんから、個人が認識できる事象は、どうしても一面的にならざるを得ません。ある被害者が存在することを知ったことが事象の一面なら、その被害者が水商売をしていたことを知ることも事象の一面です。その被害者が加害者とは縁を切ろうとしていたことも一面だし、妹に対し優しかったというのも一面です。
 事象の種々多様な面のどれを知り、どれを知らないかで、人はその事象を悪と呼んだり呼ばなかったり(叩く理由にしたりしなかったり)します。見えていない部分がどれだけあるのか想像しきることはできないから、見えていない部分を勘定に入れては、人は判断を下すことはできません。自分に見えている部分、明らかになっている部分でもって、なんらかの判断を下す必要があります。
 これは個人の私的な判断に限るものではなく、公的な裁判でも同様です。裁判官は、裁判の場で明らかにされている証拠だけを基にして、判断(判決)を下さなくてはならず、そこ以外から生じる予断をもってはいけないのです(少なくとも建前は)。

 この意味で、人の正義(=なにを悪とするかの判断)は、一面的、断片的にならざるを得ません。「世間は後出しジャンケンで 詳しい事情も知らないまま自分の正義を振りかざす」のです。
 また、前述の、るみが水商売をしていたということを叩いていい理由と評価する人間もいればしない人間もいるように、得ている情報は同じでも、そこから判断した結果が異なることは起こりえます。人は仲間を求めるものですから、自分と近い判断をするもの同士で集まり、判断が異なるクラスタが複数生じ、それらの中のマジョリティが、「世間」としてもっとも幅を利かせる意見となるのでしょう。

システムとしての警察と、社会と個人の間で乖離する正義

 さて、世間と正義について縷々述べてきましたが、警察と正義についてはどうなのでしょう。
 警察学校時代のカナの教官・横井は、「便利な警察官に心身を投げうち仕事をさせるための脅し文句」が警察に向けられる「正義」という言葉の大半だと言いました。この脅し文句が誰から向けられてくるのか。おそらくそれは、警察が守るべき市民からであり、ともに市民を守るべき警察からなのでしょう。いずれにせよ、働く当人が掲げると言うよりは、当人が周囲から押し付けられるものだと言えます。

 しかし、それは警察という組織の特性上、むしろ正しいのかもしれません。
 警察官の職務は「個人の生命、身体及び財産の保護、犯罪の予防、公安の維持並びに他の法令の執行等」(警察官職務執行法 第一条)と規定されていますが、これらの執行のために、ときとして対象者の人権を制限する権限を与えられています。
 警察官個々人には心がありますから、他の一般市民が感じるのと同様に、事件に同情したり、あるいは憤りを覚えたりしますが、その私的な感情に任せて、誰かの権利を制限することがあってはありません。そうならないよう、法令によって警察官による権限の行使は規制されていますし、上記引用法の第一条2項に「必要な最小の限度において用いるべきものであつて、いやしくもその濫用にわたるようなことがあつてはならない」と訓示的な縛りが設けられています。

 公務員である警察は、社会秩序維持のためのシステムです。その運用は、時にお役所仕事と揶揄されるように、やはりシステマチックに、上意下達的になされます。社会秩序は達成されるべきことであり、それについて一般市民も異論はないでしょうが、しかし、そのためになされる行動が、必ずしも市井の個人の肌感覚としての素朴な「正義」と一致するわけではありません。
 本作の事件も、警察が認知していたDV事案の延長線上に発生してしまいましたが、DV事案に対して警察は、通報に対する出動、臨場、説諭をしており、事件の直前にも被害者を加害者から物理的に引き離す等の対応をしていました。
 対応をしてもなお、現に事件が発生してしまったことから、対応が甘かった、もっとできることがあった、対応していた警察官に刑事罰を等の世間の非難は起こり、それにカナはやられてしまいましたが、しかし、市民の求める「もっとできること」には、職務執行法に規定されている「必要な最小の限度」という非常に大きな壁があります。
 加害者も、当然ですが、害を加える前はただの一般市民です。ただの一般市民を危なそうだから、何かしそうだからという理由で逮捕勾留等をしていたのが、戦前戦中の日本であり、それを反省しての警察官職務執行法の「必要な最小の限度」なのです(もちろん、現代日本で不当違法な逮捕勾留がゼロであると言えるわけではありませんが)。
 公権力の暴走は時として、私人の犯罪以上に社会秩序を脅かすものであり、それを防ぐために、警察をはじめとする公的なシステムには、法令等による様々な軛が科されています。それゆえの「お役所仕事」であり、市民の肌感覚の「正義」に馴染まない振る舞いも、社会秩序の維持を別の次元から見ているがゆえになります。
 警察の「正義」とは、個々の事件の対処はもちろん、それをする際の警察自身の在り方も含めた社会秩序を目的とするものであり、「悪」に対する素朴な反応として生まれた「正義」でもって警察が動くことは、必ずしも社会のためにはならないのです。

カナが選んだ道、選ぶべきではなかったかもしれない道

 最後に話をカナに戻せば、彼女は正義の側にいたかったのなら、マジョリティの側にいたかったのなら、警察に入るべきではなかったということなのでしょう。彼女を脅かした正義やマジョリティは、必ずしも警察の立場と一致するものではなかったからです。
 彼女がなりたがったのは多数派で、「正義」をふりかざせる者。ですが、それができる人間とは、つまり彼女や彼女の家族を追い詰めたもの。それと同じ穴の狢にならずに、正義とマジョリティの側につくことの折衷案が警察だったのでしょうが、結局それは失敗だったということでした。
 そして、事件後に彼女は警察を去りました。その理由は「警察官でいることに耐えられな」いから。
 警察官でいることで彼女は何から耐えていたのか。それについてはまた稿を改める必要があるでしょう。

 ということで、本日はこの辺で。



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