おかしみを生み出すズレの話 ボケとツッコミ編2

前回に引き続き。
おかしみを生み出すズレの話 ボケとツッコミ編1 - ポンコツ山田.com
前回の記事の引きで、前回取り扱ったボケとツッコミの関係を「逸脱修正型」と名付け、それとは違うものを「逸脱発見型」としました。今回は、そちらについて。

逸脱発見型とは

まず、逸脱発見型を抽象的に表せば
ある文脈内において逸脱のない言動・事象に、別の文脈による解釈を当てはめることで、ズレを強制的に生み出すもの
と言えます。
つまり、ある文脈の中で、表面上は何も問題ないもの、ずれていないものに対して、ツッコミが、文脈とは異なる視点や解釈を導入することで、それがずれているようにも捉えられるようにする、ということです。もともと文脈内にズレは存在せず、ツッコミが「それはこう捉えるとズレになるのでは」と指摘することで、事後的にそこにボケが発見されるのです。
逸脱修正型においては、ツッコむ者は、元の文脈とそこから逸脱したボケの間に解釈の経路をつなぎますが、逸脱発見型においては、文脈に問題なく属していて、一見なんのズレもない言動や事象に、別の文脈に通じる経路を発見・付与することで、その言動・事象をボケと認識できるようにします。
この段階でもうわかるように、ここで言っているボケは、一般的な意味の、すなわち逸脱修正型でいう意味合いがボケとは異なっています。ここで述べているボケでは、ボケた人間は原則的にそれを意図しておらず、事後的にボケとされたもので、おかしみを生み出すことを狙ってはいません。あくまで、「これは別の解釈をできるのでは?」と思ったツッコミによる指摘が成功して初めて、そこにおかしみが生まれるのです。

逸脱発見型のおかしみの具体例

日常的な例でいえば、路上で目にした建物が窓やドアのデザインのせいで偶然キン肉ハウスのように見えたり、雑誌で目にした文章に意図せぬダブルミーニングを発見したり、というところでしょうか。
逸脱修正型に比べこのタイプは、普段の生活の中でツッコむ者がふとした瞬間に気づくものであり、ボケも意図してそれを行っていないので、自分一人で面白がったり、たまたま近くにいた人と面白がる、ということが多いです。ですので、芸人のネタという形で見られるものではありません。直接的な形では、トーク番組などの中で参加者が偶発的にツッコむケースが散見されるくらいでしょう。
ですが、たとえばモノマネは、マネされる対象が普段身を置いている文脈では見過ごされている言動を、別の文脈(モノマネを披露する場)で再現することでおかしみを生じさせているものなので、この逸脱発見型の一種だと言えるでしょう。
また、あるあるネタも同様に、日常の中でよく見かけるけど当たり前のものとして見過ごしている言動をピックアップし、「気づいていないけど皆よくやっていること」として別の場で指摘するものなので、やはりこのタイプの一種と言えそうです。

逸脱を発見できる人

このタイプのおかしみを生じさせられる人間(ツッコめる人間)、よく言えば、思考の瞬発力が高く、思考の回転方向を即座に変化させられるような人です。とても利発そうな人ですね。
これを悪く言うと、目の前のことに集中できず、すぐに思考が横滑りしてしまう人です。ダメそうな人ですね。
同じ物事でも捉え方ひとつでいかようにも表現できることがよくわかります。

逸脱の発見は、本当に発見なのか

ところで、笑いには攻撃性があるとはしばしば言われることですが、この逸脱発見型の関係性は、笑われた人間への攻撃を誘発しやすいものです。
たとえば、なんらかの理由で面白いとされる人、あるいは単純に発言力が大きい人が、ある人やモノやコトの特にズレのない言動に対して、いかにもそれがずれている風に指摘すると(すなわち、逸脱発見的にツッコむと)、問題ないはずの言動なのにずれているとされ、周りの人間から笑われることが起こりえます。簡単に言えば、「いじり」ですね(嫌いな言葉ですが)。
このとき当該言動が、実際に他の解釈によって捉えられる否かはあまり重要でなく、「そういうことを言える人」によって指摘される方が、笑いを起こすことにおいてよほど大事だったりします。
ですから、逸脱が発見されるのではなく、逸脱を押し付けられる、あるいは捏造される、ということもあります。落ち着いて考えれば、べつに何もうまい解釈ができていないのだから(ずれていないものを、別の解釈によればズレとなるとして適切に指摘できていないのだから)、笑う道理はないのですが、空気のようなもので笑うことを強制されてしまう感じ。いやですね。
笑いは、笑われるものを劣位に置く行為ですから、声の大きい人間によって「ずれてる」と指摘されることは、された人の意思とは無関係に、関係性の中で劣位に置かれることになりますので、その状況が常態化することで、いりじは容易にいじめの温床へと転化します。笑い自体は、コミュニケーションを円滑にするためにも有意なものですが、それが特定の人間の犠牲の上でのみ成り立つとしたら、まっとうな関係性とは呼べません。


と、なぜか子供のころの苦い記憶が思い出されたかのような終盤になってしまいましたが、とりあえずこれで、おかしみについて考えていたことをある程度まとめ切りました。
もちろんおかしみについてはまだまだたくさん考えられることはあるのですが(天丼ネタや、ダチョウ倶楽部のように、予期されているのに、予期されているからこそ笑ってしまうものなど)、それは思いついたらまたいずれ。



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