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漫画の話です。

『王様の仕立て屋』人間の弱さと続くことの価値の話

今月新刊の発売された『王様の仕立て屋 サルトリア・ナポレターナ』。

11巻は今までに比べてカジュアルな服装が多く、普段着にスーツは着ないけれどあんまりラフすぎる格好もなあと思っている諸兄への助けとなるものでした。モノトーンに差し色ってかっこいいですよね。
さて、今巻そんな服飾以外で興味深かったのは、何かが続くこと、血筋や伝統が存続することに対する大河原先生のスタンスです。以前もこの記事で「伝統」について書きましたが、それだけにとどまらず、広く人やその営みは、それが自分で終わらず後世まで続くことそのものがまず重要なのではないかという考えが、やはり大河原先生にはあるように思います。
今巻は、大戦中にムッソリーニ率いるファシスト党に苦しめられるも耐え忍び、一族没落を防ぐのみならずイタリア北部の一大財閥として成長させ、半世紀以上の長きにわたり大黒柱として一族を支えてきた、御年90歳にしてなお意気軒昂、ジャンパオロ・パルツァーギ老を中心とした話でした。
ファシスト党のいわゆる黒シャツ隊の面々に苦しめられた過去を持つご老体は、黒い服に対して強いアレルギーを持っており、一族の者がそれを着ることにヒステリックな拒否反応を起こします。けれど、一族の会社を飛び出してフリーのルポライターとして働く、ご老体の曾孫の一人であるチェレスティーノ氏はまさにその黒い服を好んで着るため、仕事上で色々と嫌がらせを受けるのです。主人公の織部悠がチェレスティーノ氏に服を仕立てる中で、パルツァーギ老のアレルギーの根っこが明らかにされるのですが、それは、戦中に黒シャツ隊から苦しめられたのみならず、会社を存続させるため、時流に乗っていた彼らと積極的に交流を図っていた過去もあったからだというのです。
ファシスト党やドイツのナチスの勢いがうなぎのぼりだった時の同時代人たちにとってみれば、国民を統合し、諸外国に対し勇ましく立ち向かうヒーローたちに映ったものですが、戦争が終わった後に歴史を振り返れば、彼らは世紀の極悪人。彼らに憧れていたり、便宜を図ったり、といったことはおいそれと口にできるものではありません。その封じ込めたい記憶のために、パルツァーギ老は黒い服に対して過剰に敵意を燃やしていたのです。
老の口から絞り出すように語られたそれを聞いた後、悠はこう言いました。

人間は半日経てば腹が減り 一分と息を止めていられない生き物です。
天動説を信じなければ異端審問にかけるぞと言われて突っ張り切れる人間は そうそういるもんじゃござんせんよ
何があろうとも ご隠居様が繋いだ瞬間があってこそ 本日 玄孫さんが生まれてきたのです
王様の仕立て屋 サルトリア・ナポリターナ 11巻 p163)

これと同様なことは、実はだいぶ前、無印の『王様の仕立て屋』でも言われていました。

しかし 未知の国で思いもよらない食文化に触れる度 生きるということの切なさを感じずにはいられません
人間の赤ちゃんは生物の中では最も未熟な状態で生まれて来ます
魚は生まれた瞬間から泳ぎ出し 子馬は自ら立ち上がりますが 人間の赤ちゃんは泣くことしかできません
また 人間は朝にどんなに詰め込んでも夕方になれば腹が減る 燃費の悪い生物です
ナポレオンの時代シーザーの時代 記録にはなくとも私と同じ顔をした先祖が確実に存在していて その先祖からほんの一度でも生命の連鎖が切れたなら 今私はここに存在してはいないのです
(中略)
激動の人類史を生き延びる為に 私の先祖が必ずしも清廉であったとは思っていません
どんな善人も腹は減る これが人間の悲しさです
王様の仕立て屋 11巻 p58,59)

生物学者として、世界のあちこちを旅する男性の発言です。祖父の形見だという万年筆のオノトを愛用する彼は、それを示してこんなことも言います。

激動の時代を祖父と共に生き抜いた相棒です
家族に食べさせる一皿のスープの為に ファシスト提灯記事を書かざるを得なかった事もあったとか
(同 p61)

人間は弱い。弱いから、信念を貫いて生きることが誰しもできるわけではないし、生きるためには手を汚すこともありうる。でも、生きなければ、後世にたすきを渡すことができない。
人間の弱さを認めた上で、それでも生きなければいけない、存続しなければいけないという声が聞こえてくるようです。

屈辱でも何でも妥協できるところはして 守るべきところを守り続ける判断は間違っちゃいねえさ
たとえ一個でも種を残せたら森を作る可能性はゼロじゃねえ
王様の仕立て屋 26巻 p46)

とは、作中の服飾評論家ボンピエリ氏のセリフ。

男とは家族の現在のみならず未来をも背負っているからです たとえ戦争で男が全滅しても 女子供さえ無事なら未来は残せるのです
替えの利かない立場にいながら一時の感情でその立場をかなぐり捨てたら 子々孫々の未来をも奪いかねない 男は断腸の思いで未来を選ぶのです
(同 p112)

とは、ペッツオーリ社の幹部フォンタナ氏のセリフ。
伝統とは火の後の灰を崇めることではなく、その火を絶やさぬことである、なんて言葉も、本作ではありませんがどこかで読んだ憶えがあります。
上遠野浩平先生の小説『殺竜事件』では、人類より遥かに強大な存在である竜が、未来ある人間の赤子の命を助けるために、己の命を引き換えにしています。
未来はその不確実性ゆえに、良くなるかもしれないし悪くなるかもしれない。それはわからない。でも、現在においてその流れが絶たれるならば、良いも悪いもそもそも評価ができない。何かを評価をするためには、それを評価をする人とされるもの自体が残っていなければならない。歴史の評価に堪えるためには、歴史の読者が必要なのです。
このような考え方に異論もあるでしょうが、それは作中でも何度か言及されているとおり(ベリーニ伯など)。ですが、異論があるという点こそが、あらゆる考え方に価値を与えます。異論があるからこそ、よりブラッシュアップされる考え方が生まれるのですから。異論反論の存在しない考えは、具体性のない机上の空論です。
長く連載が続くと、色々なことが浮かび上がってきて、そういうのを読み解くのもまた楽しいものですね。



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