一話あたりが短いような気がするも実は20pあって、そりゃあけっこうなペースで出版されるよなと思う『名探偵マーニー』。
- 作者: 木々津克久
- 出版社/メーカー: 秋田書店
- 発売日: 2014/04/08
- メディア: コミック
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file45「チアリーディング」で、マーニーはチアリーディング部内のいざこざを解決するために部長の猿頭から調査を依頼されたのですが、その一環というか何というかで、チアの演舞の一つである“タワー”の最上段に上らされ、そこから落ちる、というのを強制されました。
この動画の冒頭で、舞台中央で行われているものです(作中では、タワーは4段で構成されていたため、動画よりももう1段高いですが)。
当然そんなの素人が満足に出来るものではなく、おっかなびっくりへっぴり腰でマーニーはそこに登り(登らされ)、覚悟を決める間もなく足場を崩されて落下するも、さすがに周囲は練習を積んだ現役チア部員、危なげなく彼女を受け止めました。
その時にマーニーが感じたこと。それは愛。
本当に見えたんだよ…
空中に放り出された瞬間 世界を包む「愛」が見えた
恐ろしいことに 猿頭晶子の言うことは間違ってはいないんだ…
(5巻 p190)
ここでマーニーが触れている「猿頭晶子の言うこと」とは、マーニーをタワーへ登らせる直前に言い放った
芸術であり 宗教でもある
神の世界をかいま見る 開放と恍惚 恐怖と愛 全てがあるのだ
(5巻 p186)
です。
さすがにこれらの言葉は大仰であると感じざるを得ません。ですが、タワーから落下し、受け止められたマーニーが「愛」を見た、というのは、実はわからなくはないのです。
といっても別に、私にタワーから落下した経験があるわけではありません。ですが、このマーニーの経験をもっと広く捉えたときの話、つまり、自分の生命が他の人間によって支えられていると実感する、という感覚の話であれば、ないわけではありません。
それがなにかというと、ダイアログ・イン・ザ・ダーク というイベントです。詳しくはリンク先を参照してもらいたいのですが、簡単に言えば、鼻をつままれてもわからないような本気の暗闇を作った屋内で、疑似的に作られた草原や森、砂浜などを歩いたり、古民家でくつろいだり、バーでドリンクを飲んだりと、視覚を完全に遮断することで、それ以外の五感をフル活用して様々なものを味わう、というものです。
この状況、いわば視覚障碍者の立場になってみるようなもので、実際、イベントでは視覚障碍者が使う杖をレクチャーを受けた上で使用しますし、またイベントのアテンド(案内人)は現実の視覚障碍者です。一切視覚が効かない中での案内役ですから、そりゃあ適任ですよね。
さて、一切目が見えない状況というのを実体験してみると、普段の私たちの生活とは、見ず知らずの人間による見ず知らずの人間への誠実さと、それに対する信頼で成り立っているのだなと思わずにはいられませんでした。
どういうことかと言えば、まずは視力ゼロというところから想像はスタートするのですが、街には歩行者用点字ブロックがありますよね。あれは道なりに作られていて、交差点などではそこで一旦止まるべきことがわかるように作られています。そう作られているからこそ、目が見えなくとも安全に道を歩けるわけです。
それは当然と言えばもちろん当然のことなのですが、簡単に当然と考えられるのは、目で見てそれがそう作られていることを確認できるからです。自分で確認できるから、そりゃあそう作られている、そうじゃないと危なくてしょうがない、と他人事のように易々と言える。でもそれは、いってしまえば自分に関係がないから。点字ブロックがなくても自分は安全に道を歩けるから。
もし目が見えなければどうか。
点字ブロックが安全に作られているのかどうか、見えないのだから自分自身で確かめようがありません。他の人に聞いたところで、その人が嘘をついているかもしれない。本当に安全なのか、究極的なところで保証がない。それを本当に必要とする人にこそそれが本当に安全なのかどうか保障ができない、というのも皮肉というかなんというかですが、とにかく、それを疑ってしまったら街を歩きようがないんですよね。
だから、目が見えなければ、それが安全であると前提しなければならない。確かめられないものを、確かなものとして受け入れなければならない。他人が作ったものを信頼しなければいけない。
他人のなしたことに対する無条件の信頼。これを愛と呼ばずして何と呼ぶのか。そんなことを、イベントを体験して思ったわけです。
もちろんあり得ないことですけども、たとえばイベント内で、開催者側がなんらかの悪意で参加者に害をなすようなギミックを仕掛けておくことはできるわけです。もしそれをすれば、開催者側への猛烈な不利益が生じることは火を見るより明らかですが、原理的には、できる。けれど私たちは、それを疑っていたらイベントを楽しむことはできない。人道的な理由であれ経済的な理由であれ、開催者側はそんなことをしないと信じるからこそ、心からイベントに没入できるのです。
で、視覚障碍者は日常的にそういうことを信じているのだな、と考えたわけですよ。
とはいえ、それはもちろん視覚障碍者に限りません。健常者だろうがなんだろうが、神ならぬ人の身、世の中のすべてのことを知ることなんて不可能です。日常の中で、必ず自分の知りえない箇所が存在しています。であれば、他人に対する信頼が無ければ安心して生きていくことはできないのです。
目の前でしゃべっている相手がいきなりナイフを持ち出して刺すことはない。乗っている車にブレーキが壊れるような仕掛けがされていない。突然オフィスの天井は落ちてこないし床も抜けない。そういう、当たり前のことに対する当たり前の信頼は実は、確かめようのないことについて確かだと信じるしかないものなのです。
ですから、たとえばアグリフーズの農薬混入事件のような、食べ物に毒は入っていないという当たり前の信頼が崩される出来事は、日常を大きく揺るがすのです。
ここで話はマーニーに戻りますが、彼女は、タワーから落下するという非常に危険な演技は、落下した自分を受け止めてくれる他人がいて初めてできるものであり、そしてそれをするには他人は自分を受け止めてくれると心から信頼しなければいけないのだと気づいたのでしょう。生死のかかった瞬間だから、その強烈さもひとしお。「世界を包む「愛」」すら見えたのです。
とまあそんなことを、file45を読んで思いました。
ちなみに、記事中のダイアログ・イン・ザ・ダークはマジでおすすめです。生理的に真っ暗闇がダメって人は無理ですけど、そうでないのならば、初めはおっかなびっくりでも、慣れれば視界の一切効かない世界と鋭敏になるそれ以外の感覚に、ワクワクすること請け合いです。私も久しぶりにまた行きたい。
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