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漫画の話です。

作業中のBGMの話

漫画のコミックスを読むと、作者の近況などが描かれていることがある。それで時々見かけるのは、作業中はラジオを聴いている、というやつだ。ぱっと思い出せるのは河合克敏先生と安西信行先生なのだが、たぶん他にもいるんじゃないかと思う。
どうなのだろう、自分は絵を描かないからわからないのだが、作業中に他人の話、それも一方的にされる話を聞くというのは、むしろ作業の邪魔にならないのだろうか。
私は、ブログに限らず真面目に文章を書いているときは、基本的に音楽を流しっぱなしにしているのだが、ラジオを聞く事はできない。どうしても耳がラジオの話の内容にいってしまい、文を書くことに集中できないのだ。
ラジオは聴覚のみ、つまり言語を直接受信するメディアであって、直接言語を出力している「書く」という作業と相性が悪いと思う。自分が書いている言葉のリズムと、自分が聞いている言葉のリズムが違うので、両方が両方ともごっちゃになってしまうか、さもなければどちらかが完全に意識から消えてしまう。おまけにラジオパーソナリティとリスナーの関係性は、情報の送受信において完全に一方的なものであり、リスナーは常にラジオパーソナリティの後追いにならざるを得ない。講演などの場合は聴衆と講演者が同じ空間にいるので、聴衆の反応を講演者は直接、即時的に知ることができるが、空間的に隔たれてしまっているラジオではそうはいかないのだ。ま、そのある意味でのおいてけぼり感がラジオの魅力であることは事実だが。


音楽の場合は歌詞(言葉)以外にリズムやメロディという要素があるおかげで、言語野よりもむしろそっち(どこかは知らないけど)が活性化されている気がする。言語とは違う場所に「リズム」や「メロディ」が流れ込んでくるので、そこから刺激を受けて筆が進むということもままある(絶対音感の持ち主である友人などは、メロディが音階名として聞こえてしまうので、つまり言語野でも刺激を受けてしまうので、音楽があると逆に集中できないと言うが)。


「書く」と「描く」で両方とも手を使う作業ではあるけれど、そのときに摂取しても平気な情報の種類は違うのだろうか。言語情報の出力と視覚情報の出力では、脳の使う場所もまるで違うのだろうか。出力する情報と入力する情報が似ているものだと、処理に支障をきたしやすいのだろうか。
そういえばテレビっ子の友人は、勉強する時にもテレビをつけていたが、その音量はごく小さく(あるいは無音に)されていた。私は高校以来テレビをとんと見なくなったので、実際にそういう状況に自分の身を置くことは無かったが、それでも無音のテレビと一緒なら私も勉強に集中することはできると思う。ここでいう勉強はほぼ100%座学的、教科書的、学校的な勉強で、実学的、実際的な勉強ではないということはおそらく重要だろう。本を読むことが中心になる、すなわち文字を追うことが中心になる勉強だからこそ、視覚情報の入力は障害になりづらくとも、言語情報の入力は危ういのだ。
けれど、確か西山優里子先生の単行本には、仕事中はテレビを無音で点けっぱなしにしてある、という記述があったように思うのだが、そうすると、視覚情報が垂れ流されていても視覚情報の出力にさして影響は無いのか、という気もしてくる。


絵を描くときは、別に喋ってても、テレビをチラ見してても、ラジオを聞いていても支障がないものなのか。
まあ作業しながらのテレビはそもそもチラ見にならざるを得ないわけで(テレビ画面を見ながら絵を描けるビックリ人間でもなければ)、意図的に情報入力を遮断することが極めて難しいラジオとは話が違うのかもしれないし、もしくはそのツテで、作業BGMとしてのラジオも意識がふっと緩んだ時に耳に何か情報が入っていて欲しい、程度のものなのかもしれないけど。でも、言葉はよっぽど集中していないと、すぐにそちらに意識が向いちゃうものだと思うんだけどね。ファミレスとかでも、ふと隣の席の客の会話が気になりだすときがあるでしょう。


あるいは、なんだかんだ言っておいてこういう感覚が自分だけのものであるという可能性も否めないのだが、はてさてどうなんでしょうね。絵を描く人間の話を聞いてみたいものなのだわ。








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