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漫画の話です。

『アリスと蔵六』から考える、枠線を超えるフキダシの効能の話

 さて今日は、前回、といっても半月ほど前の話になってしまいましたが、レビューした『アリスと蔵六』から、フキダシの使い方についてちょいと考えてみたいと思います。

 たいていの場合、フキダシはコマの枠線によって区切られます。

アリスと蔵六 1巻 p146)
 こんな具合ですね。
 枠線は、連綿と描かれる物語を一つの絵図として区切る線ですから、フキダシが枠線に区切られるということは、フキダシ、すなわちそこに書かれているセリフもその絵図に属しているということになります。
けれど、時として枠線を超えるフキダシも存在しますが、多くの場合それは、そのコマおよびセリフを特に際立たせたい時に使われるようです。

(同巻 p42)
 頑固爺による怒鳴り声をより強く表現するために、フキダシが枠線を越えています。
 でも、そういうのでもない超え方もあるわけで、そういうのをいくつか。
 
(同巻 p15)
 これは、セリフ自体は静かなもので、格別セリフを目立たせる必要はないようです。では、なぜこれが枠線を越えて隣のコマにまで進出しているかといえば、フキダシがまたがっているコマ群が同じ時間軸に属していることを示すためなのではないか、と思うのです。
 『よつばと!』の会話に関する記事で、

一コマでのある状況の切り取り方というのは、時間軸上のある一点のみの全景を描いているのではなく、幅のある二点間の内、状況内の各対象(キャラクター)における任意の時間を切り取って、それを、ある意味で無理矢理ひとつのコマの中で描いているのだといえます。
(中略)
一つのコマの中にキャラクター固有の時間が複数ある。

 ということを書きました。これは、見方を変えると、コマが変わればそこで時間軸がずれるのだと言えます。コマがそれぞれに時間軸を切り取っている以上、異なるコマでは切り取った時間軸も異なるわけですから。二つのコマがあった場合、原則的に一つ目のコマは二つ目のコマより前の時間を描いている、ということです。
 ですから、あるセリフが発されているコマより後のコマにいるキャラクターは、今まさにそのセリフを聞いているのではなく、そのセリフを聞いた後の様子を描かれているのだということになります。

ハックス! 4巻 p186)
 この画像で言えば、左のコマのキャラクターは右のコマのセリフを聞いている真っ最中ではなく、聞き終わってからの様子であるってことです。
 つまり、もしあるセリフを聞いている真っ最中のキャラクターを描こうと思えば、そのセリフと同じコマ内に描かねばならず、それには大きな構図的な制約が生じます。キャラクターの並び次第で同じコマ内に収めることは難しくなるし、収めても不自然になりかねない。
 ですが、上のp15の例では、フキダシが左のコマにかかることで、左のコマでもそのセリフが発されているかのようになり、コマが変わってもセリフとキャラクターが同じ時間軸上にいるように表現できるのです。左のコマの紗名は、セリフを聞き終わった紗名ではなく、セリフを聞いている最中の紗名だということですね。

アリスと蔵六 1巻 p24)
 これも同様ですね。このテクニックをうまく利用することで、構図に無理のないコマ運びができそうです。
 さてもう一例はこちら。

(同巻 p25)
 このコマに描かれている絵は、紗名と蔵六が乗っている車を上方から見ているものです。前後の文脈と口調からセリフの発話者は紗名であると判断できますが、コマそのものには紗名は描かれていません。このコマでは、フキダシが枠線を超えることで、セリフが絵から乖離している印象を与えます。絵とフキダシが同次元にあるのではなく、フキダシが絵より浮き上がって見える感じです。
 このコマは、それまで紗名と蔵六、二人の車内での会話が続く中で挟まれたものです。車内で座ったままの会話という単調になりかねないシーンで、このようなコマを入れることで変化をつけています。で、そんな変化球コマの変化球っぷりを際立たせるための、この枠線を超えるフキダシです。フキダシと絵の次元がずれることで、絵(発話者の描かれていない絵)とセリフに直接的な結びつきが無くなり、読み手は現に進行している会話を聞き(読み)ながら、会話をしている二人がいる車を上から見る、という、なんというか非常にテレビ的・映画的な感覚を味わえるのです。
 漫画は、絵も本来音声であるセリフもいっしょくたに視覚的に把握するものですから、映像(視覚)と音声(聴覚)を別々の器官から把握できるテレビなどとはその表現方法がおのずから異なってくるわけです。そこらへんは今後もうちょっと詰めて考えたいところですが、今はざっくりと、漫画は視覚表現(絵)と聴覚表現(セリフや音)の直接的な結びつきが強いと言えるのだと思います。
 けれどこのような表現をとることで、一時的にせよ、絵とセリフの直接的な結びつきを切り離すことを可能にしました。む。けっこうすごいことのような気がしてきたぞ。

 他にもいろいろ考えられるものもあるだろうけど、今日はここまでですたい。



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