運命の話
日本橋ヨヲコ先生の作品を通じて流れている考え方の一つに、「物事に取り組む態度・理由がポジティブであるほど称賛される」というものがある。
「はじめて
楽しいと思ったんだ 勉強」
「‥そうか」
「な… 何でだろ わかんないけど」
「簡単だよ お前はただあきらめて前向きになっただけさ」
(プラスチック解体高校 2巻 p175)
生まれつき目が悪いから その分 なんでもできるようにがんばったよ
特にピアノは母がやってたから 喜んでもらいたくて必死でね
だから それだけは誰にも負けない自信があったんだ
一人の転校生が来るまでは
(中略)
でも そいつのピアノはすごかった
見栄と恨み節で身につけた技術のオレの演奏とは全く違って―
あたたかかったんだ
君の絵は そいつと同じにおいがするよ 誰かのために描く君の絵を
オレは見たい
(極東学園天国 3巻 148〜151)
マンガをマンガ以外の目的で使うやつに用はない。
(G戦場ヘヴンズドア 3巻 p92)
自分が好きだからそれをやる、あるい誰かの役に立つためにそれをやる。そのような行為は称賛され、そうでないもの、特に、誰かを見返すためだとか、恨みつらみを晴らすためだとか、復讐するだとかのネガティブな目的による行為に邁進するものは、不幸な目に遭うと相場が決まっている。それはいっそ、日本橋ヨヲコ作品内での運命と言ってもいい。蔵田三成。城戸信長。長谷川哲男。彼らは皆、ネガティブな目的でそれぞれの行為に励んでいたために、壁にぶち当たり、追い詰められた。そして、その窮地を契機として態度がポジティブなものに反転している。
さあ、それを踏まえて現在連載中の『少女ファイト』はどうだろう。
主人公・練がバレーをしている理由は、姉の生前は、大好きな姉から自分を引き離すバレーの間に割って入るため。死後は、姉との死別の悲しみを忘れるため。どちらも、ポジティブさで指向していない。ゆえに、彼女はバレーをやっていて楽しくなかった。幸せな目に遭っていなかった。だが、黒曜谷高校に入学し、学をはじめとする面々に出会うことで、次第にバレーをやる自分を肯定できるようになり、バレーそのものに純粋に取り組んでいくようになる。
いいんだ
このままいっていいんだ
私 バレーが好きでいいんだ
(少女ファイト 4巻 p176〜178)
学は、自分が作るマンガのネタ探しのためにバレーを始めた。
厚子は、居心地の悪い家を出るためにプロを目指している。
志乃は、地元大阪での悪評から逃げるために東京の黒曜谷まで越境し、そいつらを見返してやろうとしている。
ルミは、コンプレックスの対象である母親に唯一勝てるものとしてバレーをしている。
一年の中では唯一ナオだけが、バレーに対してネガティブな目的を見せていない(あくまで、見せていないだけだが)。
この意味で、『少女ファイト』は、主要キャラクターのバレーに対するネガティブな目標を、ポジティブに反転させる物語と言える。(まだ)ネガティブさを見せないナオが、(まだ)まともに心理を掘り下げてもらっていないというのも、皮肉な話ではあるが、当然のことなのかもしれない。
このような、ネガティブな目的で臨むバレーについては、ルミがこう漏らしている。
でもホントはさ バレーって……
誰かに勝つためにやってたってキリがないよね……
(6巻 p99)
誰かに勝つため。バレーが対戦スポーツであることを考えれば、さして問題のある態度とは思えないが、にもかかわらずその態度についてはネガティブな描写をしている。もちろん、単純に勝利を求めることを否定しているのではないのは承知の上だが、それすらも包含しかねない、広い言葉だ。
ネガティブな目的で戦うバレーが幸福をもたらさないことは、現役の彼女らだけではなく、その先輩である監督の陣内、コーチの由良木(姉)らも味わっている。練の姉・真理が死んだ翌日の春高バレー決勝。それに優勝したにもかかわらず、彼女らは「ぴくりとも笑わ」ず、嬉しそうな様子を一切見せない。それがただの悲しみではなく、「弔い合戦」のような凄絶なものとなったのは、対戦校である朱雀高校の「部員がいらんこと口走った」ために、陣内らの心に恨みを晴らす感情が湧き起こったと考えるのが自然だ。遺恨を持ち込んだバレーは、優勝したところでカタルシスをもたらさない。
見方を変えれば、彼女らの多くは、自分の過去を振り切るためにバレーをしているとも言える。日本橋ヨヲコ作品の運命がもっとも峻厳に言い表されているのは『G戦場』の引用部だが、それに則って言えば、彼女らは皆、バレー以外の目的でバレーをやっていた。だから、彼女らは壁に直面し、傷ついた上でそれを乗り越えることがカタルシスたり得た。
7,8巻の話
さて、6巻までは、二年生はメンタルの弱い一年を支える役割を負ってきた。ネガティブな彼女らを反転させるために、メンターとなっていた。しかし、7,8巻で風向きが変わる。両巻では、犬神鏡子と鎌倉沙羅、さらに男子バレー部の千石雲海、三國兄弟も交えて、家にまつわるネガティブな話が展開されている。メンターとしてふるまっていた彼女らも、なんのことはない、ネガティブな目的に縛られていたのだ。
正直なところ、7巻8巻と、ストーリーとしてすっきりするものではなかった。なぜか。結局、家のごたごたについては何も解決していないからだ。
鏡子はサラのために朱雀高校(=槌屋)に勝とうとし、サラは鏡子の傍にいるためにバレーをする。一見、誰かのためにというポジティブなものであるように思えるが、それはユカや由良木が言うとおり、「極端すぎる」し、「やっぱへん」だ。第三者に好感を催すポジティブなものとは言えない。
7,8巻では、それまでの志乃やルミのエピソードのようなカタルシスがない。志乃にしろルミにしろ、彼女らの問題は、彼女らの考え方、主観的な内心に因るものだった。物事の捉え方さえ変われば、環境そのものが変わらなくとも、状況は好転する。だから、1巻という短い中でも一つの解決を見て、カタルシスをもたらした。だが、鏡子やサラの場合は、問題が家に起因している。閥族とでもいうのか、当人だけでは済まない思惑が家単位で絡んでいる。主観だけでは問題が解決せず、家をどうにかしなければいけない。
『少女ファイト』は単行本単位でストーリーを組み立ている。それぞれの巻でメインとなるキャラクター。各単行本の最終話に挿入されるミチルor学視点のまとめ。タイトルの関連性。それらを考えれば明白だ。今までの単行本でも、各巻ごとにきちんと話が一段落し、カタルシスが訪れるようにしている。起こった問題を解決し、物事の認識を変え、キャラクターの目的をポジティブな形に反転させている。だから、7巻8巻でもそうしたかった。一冊の内で解決したかった。でも、していない。家の問題は、まるで片付いていない。fight or flight。家に対して、闘争か逃走か。鏡子たちはその態度さえまだ揺蕩っているのだから、問題の解決は遠い。バレーをバレー以外の目的ですることが、いまだに続いているのだ。それでも、1巻分をカタルシスで終わらせるという今までの流れに沿うためには、ここで解決した空気を出さなければいけない。だから、それっぽくした。解決した空気を装った。主人公・練の活躍という形で。*1
できないものをできると言い張ると、そこには無理が生じる。家の問題という核心をを置き去りにしたまま、単行本一冊分でなんとかそれなりの解決を見せようとしたために、キャラクター周辺の説明はくどいのに足早になり、でも肝心なところは迂回して、主観の変化だけで解決したように見せた。7,8巻で感じた、鏡子ら周辺の心理推移についていけず置き去りにされた印象と納得のいかなさは、そこらへんに由来するのだと思う。家の問題を丁寧に説明せずに、キャラクターの心理だけを描く。問題の本質が、前提がわからないのに、その上に成り立っている心理を説明されても、理解はいまいち届かない。
さすがに、これから先の展開でフォローは行われるだろう。具体的な解決の糸口も現れるに違いない。それでも、8巻の段階であのような空気を出してしまったのは、読んでいてすっきりしなかった。カタルシスっぽい描写が登場してしまったことこそが、フラストレーションの一因となっている。
その点を考えると、登場以来、家族関係がじわじわと描かれている唯隆子の方が、彼女を巡る問題がはっきりしている。彼女もまた、ネガティブな目的でバレーに取り組んでいる者だ。彼女にもきっと不幸が訪れるだろうし、あるいは現在進行形で不幸だと言えるのかもしれない。練との再会、学との出会いを機に、彼女の内心が変化していることはうかがえる。だが彼女もまた、鏡子ほどではないが、家の問題をどうにかしなければいけない人間だ。今後、どうそれが顕在化してくるだろうか。期待は、している。
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*1:更に付け足せば、8巻での練の「活躍」はなんとも納得がいかない。試合中にああいう行為をすることが、そもそもバレーにとって不純であろうし、鏡子の集中を切るための手段としても効力があるようには思えない。作中で実際に効力があろうとも、それに納得できるだけの文脈・背景がなければ、ただの愚行だ。再び練が「狂犬」の称号を授かる日も遠くない。5巻では志乃にもぶつけてるし。