非常に共感出来る記事でした
感性に頼る天才派よりも
理論を構築する理論派のほうが
最終的には最強の座に座るのではないか
と個人的に思っています情報収集→分析が第一段階
分析→データ整理で第2段階
問題解決思考まで出来て第3段階
感性に頼れない人は、頼れる人にすごいコンプレックスがあると思うんですよ。だから、それに追いつくために理論を構築しなければ、という感覚に襲われて、最終的に感性のみを頼りにしていた人間を追い越せることはあると思います。
でも、その理論も習熟してくると身体的に染みこんで、いつしか感覚になるのだろうと思います。その意味で、「すげえ」と思える人ってのは「感覚を理屈だてて説明できる人」なのかなって気もしますね。今日の記事にも関連することですが。
理屈を自分で構築できる人は、新たな問題(既存の理屈で太刀打ちできない問題)に出遭った時に、またそれに対応する理屈を考え出せるから、伸び白が大きいと思います。感性のみだと、壁にぶつかったときにどうすればいいかがわからなくて、そこで初めて頭を使うのかもしれません。
まあそんな段階すらもひょいと飛び越えてしまうような天才肌も、世の中いるのかもしれませんけど。
絵の練習の方法論から、記事を続けて楽しく読ませてもらっています。
でも、今回の一番最後の一文で、ちょっと引っかかりを感じました。「〜若さに対抗するには」
とは、若い時の自分を「対抗」する相手だと捉えていらっしゃると言う事でしょうか?
私は最近、ようやく「若さを失った」という後ろ向きな見方から自分が解放され、
今の歳を楽しむ、もしくは、以前より良くなったことへ視線が向くようになり、
要は自己愛・自己評価が高まって、心の底から幸せを感じられるようになりました。
ですから今回のお話で、途中までは、そうそう!歳を取って俯瞰的に物事が見えるようになって、幸せだよ〜等、うなずいていて読んでいたのですが、
最後の一文「若さに対抗するには」、で、アレ「対抗」と言う感覚でとらえていらっしゃるんだ…と、
驚きました。
私は若い頃から「おっさんくさい」と言われていて、大学生の時分には開き直って見た目につりあうように早く歳をとりたいと思っていたほどなので、若さに未練はないし、歳をとることにも抵抗はありません。身体が疲れやすくなっているのはがっかりですがw
まあそれはともかく、「若さ」というワーディングは、単に歳をとっていないことではなく、理屈を考えるまでもなく身体的に感覚を身につけることの出来た「何かに励んだ幼少期」を意味としています。
今日の記事でも触れている「身体的な感覚」は、幼少期に身につけるかさもなくば長いこと年月を積み重ねて得るしかないので、いい歳こいてから何かを始めたばっかりの人間(というか私)としては、この「身体的な感覚」を持っている人間に羨望を向けざるを得ないのです。
誰と競うでもない趣味とはいえ、やる以上は上達したいですからね。「身体的な感覚」を持った人間に追いつきたい、そいつが持っている感覚を自分も得たいという気持ちから、「対抗」という言葉を使ったのです。たぶん。
というか、今回の拍手コメントで、自分自身なんでこの言葉を使ったのかがしばらく気になっていて、それが昨日のバンドの練習を通して形になった、その結果今日の記事が出来上がった、って感じです。思考の示唆を与えてくださって感謝いたしします。