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漫画の話です。

人の形は何のため 「よき」舞いを求めて踊る『ワールド イズ ダンシング』の話

今を時めく猿楽集団・観世座の座頭の息子として生まれた鬼夜叉。しかし彼には芸のよさがわからぬ。人の形は踊るための形などではないのではないか。そんな思いを捨てきれぬ。しかしある日、彼が偶然目にして白拍子の舞い。そこにはたしかに「よさ」があった。今まで感じたことのない衝撃を忘れえぬ鬼夜叉は、己の身体と舞いに、その身を投じていく。後の世に世阿弥として名を遺す少年の姿がそこにはあった……

ということで、三原和人先生の新作『ワールド イズ ダンシング』のレビューです。
もう二十年以上も前、甲本ヒロトは歌いました。

鳥は飛べる形 空を飛べる形 僕らは空を飛べない形 ダラダラ歩く形
(バームクーヘン/THE HIGH-LOWS

人は鳥のように飛べません。魚のように泳げません。馬のように走れません。
ならば、この身体は何のためにあるのか。
少年鬼夜叉は、そんなことばかり考えていました。

鳥は飛ぶための形
では人の形は何のため?
例えばそれは歩くための形?
だとするならその形は馬でよい 馬は走るための形
(中略)
人の身体は舞うためのものでもあるまい
舞いで生きるは芸人くらいのもの 少数派ではないか ならば……
舞いとは人にとって不自然なものではないか?
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(1巻 p1~10)

こんな根源的なことを、まさに舞いをしている真っ最中に考えてしまう。観世座の座頭の息子という、生まれながらにして舞うことを義務付けられるような家に生まれてしまったばっかりに。
彼は舞いの喜びを知りません。楽しみが分かりません。
観世座に所属している多くの人間は、たとえば、観阿弥の舞いに惚れ他の座からわざわざ客員として出向してきている十二五郎康次のように、自ら舞いに楽しみや喜びを見出しているのですが、物心つく前にはもう舞いを仕込まれだしていた鬼夜叉は、主体的な意思などなしに、否応なく舞いの世界に放り込まれてしまっていたのです。
生まれたときからそこにあるもの。
なんとなくそうしているもの。
私たちが普段、ただ歩くことやしゃべることに特段の感動を見出さないのは、それができて当たり前の行動だから。ひょっとすればできたその時は自分自身感動に満ち溢れたのかもしれませんが、それはもう物心つく前のこと。その感動はとうに忘れてしまっています。
おそらく鬼夜叉にとって、舞いはそういうもの。だから、舞いに感動がない。舞台で踊っても、心ここにあらずで「舞いは人間にとって不自然なものなのでは?」なんて考えてしまう。
しかし、彼はある日、衝撃的なものに出会いました。
それは、名も知らぬ一人の白拍子の舞い。
あばら家でただ一人呻吟し、洗練された様子もまるで見えぬ、「まるで酔っ払い」のような踊り。
枯れた声。やけくそに聞こえる節回し。ふらついた足元。
普通に考えればよいわけがない。よいわけがないのに、この身体を貫いた「よい」という感覚は疑いようもなく確かなもの。
生まれて初めて得た「よい」という感覚に鬼夜叉は、自分も彼女と同じように、誰かを「よい」と思わせることができるのではないかと思うようになったのです。

こうして始まる、「よい」を見つける探究の日々。
しかし、それは並大抵の道ではありません。鬼夜叉が食らったような、身を貫くほどの「よさ」は、非常に根源的なものであり、それゆえに言語による説明からはひどく遠いものです。事実、その衝撃を受けた時の鬼夜叉は、言葉を失い、この世のものとは思えぬ風景まで幻視していました。
「よさ」は根源的になればなるほど理屈を失います。同時に、どうすれば「よく」なるのかの説明や指示はできても、なぜそれが「よい」のかの説明はできません。
あともう1センチ腕を高く上げると「よい」。
あともう半歩足を前に出すと「よい」。
あともう1/4拍子早く動き出せば「よい」。
じゃあなぜそうすると「よい」の?
それには答えられません。そうるのが理に適っているから、というのは作中で示される一つの理由ですが、じゃあなぜ理に適うと「よい」の?という問いには、そうした方が「よい」から、というトートロジーで答えざるを得ないのです。
だから鬼夜叉は、ひたすら「よさ」を味わおうとします。時には常識からも外れながら、あらゆるところから「よさ」を見つけて、その経験を自らに集積させていく。
舞いとは、リズム(拍子)でもって身体を動かし、他者によさを伝えるもの。セリフや音楽がついたりもしますが、最終的にはその身一つで表せるもの。
文化も言葉も何もかも違う究極の他者として宇宙人を想定し、それに届くような舞いを目指していたのは、バレエ漫画『昴』のプリシラ・ロバーツでしたが、人が人という身(体)で表現するものとして、舞いというものはひょっとして、もっとも根源的な情動を伴うものなのかもしれません。なぜならそこには、人の感覚を誘引するリズムがあり、動作を喚起する身振りがあり、そしてそれがただ身一つで行えるから。

わたしたちは普段舞うことはそうそうないし、日常の動作を意識することもありません。しかし、いざそれをひたすらに意識して、突き詰めていくと、一歩も踏み出せなくなるような深淵さと、しゃぶってしゃぶってしゃぶりつくしてもなお味を失わぬ奥行がある。そんなことを、この作品を読んでいると感じます。
舞いを「よく」するための合理の動きと、人が舞わずにはいられない強烈な情動。相反するようなその二つを突き詰めた先にある、たった一個のこの身体。理と情が共存する奇跡の動き。鬼夜叉が見つけるその「よい」世界を、私も一緒に見たいのです。
第一話はこちら。
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