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漫画の話です。

『まどろみと生活以外のぜんぶ』rcaの描く、境界が融け合う安らぎと寂しさとエモさの話

 今日は珍しく、というかこのブログで初めてだと思いますが、成年向け作品についてのお話ですので、あんまり生々しい話はしませんが、18歳未満のお子様は回れ右してね。

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『違国日記』47.5話 無音の世界の秘密の話

 先日新刊の発売されたヤマシタトモコ先生の『違国日記』。

 新刊を読んで一番印象に残ったのが、ストーリーではなく、47.5話冒頭の表現。えみりが喫茶店ノイズキャンセリングイヤホンをしながら勉強をしていたところに、しょうこから声をかけられ、イヤホンを外すシーンです。
 イヤホンによりシャットアウトされていた外界の音が、イヤホンを外したことで聞こえてくる。それが、読んでいてまるで我がことのように感じられたのです。
 後日、ヤマシタ先生自身が、そのシーンをかなり意識して描いたことをうかがわせるツイートをしていました。
 まんまとその思惑にはまったわけですが、さて、読んでいても音がシャットアウトされていたかのように感じられるこのシーンには、いったいどのような秘密が隠れているのでしょうか。

 まずは当該のシーンを改めて見てみましょう。




(10巻 p73~76)
 これを見てまず気づくのは、当然ですが、イヤホンが外されるまでの間、音を示す文字表現がないことです。窓にあたる雨も、ノートの上を走るペンも、店内のざわめきも、そこにあるはずの音が一切書かれていません。
 もちろん、書かれていてしかるべき音が書かれないことはしばしばあります。たとえば同じ10巻の47話で、朝が演奏をしているシーンでも、演奏しているバンド、観覧しているオーディエンス、撮影中のスマホと、音があっておかしくない場面でも、何の擬音も台詞も書かれていませんが、不思議とそのシーンでは無音の印象は強くありません。言ってしまえば、単にそういうシーン、というもので、無音であること(擬音等が書かれていないこと)に特段の強い意味はなさそうに感じられます。

 翻って、47.5話で無音性を意識させるのは、つまり擬音等が書かれていないことに強い意味を感じさせるのは、しょうこに話しかけられたえみりがイヤホンを外すと、フェードインするように台詞が始まっている点です。
 「――――んでんの?」というしょうこの台詞とともに、店内のざわめき(「ガヤガヤ」という擬音)や、ちょっとした物音(画像にはありませんが、椅子を引いたのであろう「ガタン」という音がページ下部にあります)が書かれ始めるのです。
 途中から聞こえ始めた、すなわちそれまでは音が聞こえない状態であったことが印象的になるようにフェードインで始まったしょうこの台詞により、読み手は遡及的に、それまでが無音であったことを強く意識するのです。

 それ以外の点も挙げるとすれば、被写体に寄り、かつ視点がバラバラであるカメラアングルが連続している、ということも言えるでしょうか。
 雨に濡れる窓、えみりの横顔、(これは遠景の)店外からのカメラ、手元(ペンケース)のアップ、うつむくえみりの顔、(さらに寄った)雨に濡れる窓、えみりの肩に触れるしょうこの手、えみりの目、(えみりの視点から)見上げるしょうこ、イヤホンを外す手、とアップのパッチワークになっていたカメラの視点が、音の復活と一緒に引きの視点を得て、コマ間に流れが生まれだします。
 それまでのそれぞれのコマの連続性は薄く、えみりがしょうこを待つひと時の瞬間瞬間を脈絡なく切り取ったかのようです。そう、切り取っているのが瞬間だからこそ、そこに音がないのです。
 コマに脈絡(連続性)がないと、コマ間で時間が流れているように感じず、それぞれのコマが独立した一瞬であるかのように思えます。
 そして、音とは空気の振動です。フィルムに写った光を焼き付けた写真とは違い、音が鳴っている時間を無限遠まで縮めて切り出す、すなわち独立した一瞬としてコマを描くと、コマの中には空気が振動をできるだけの時間が存在せず、それゆえ音は鳴りません。鳴っているように感じません。
 このモンタージュ的技法も、漫画の中から音を消し去っている一因でしょう。

 まとめれば、モンタージュ的に連続性のない(そして現に擬音等のない)コマを描くことで、読み手に無意識の裡に音の存在を捨象させ、イヤホンを外した瞬間からフェードインしてきた台詞や擬音が書かれることで、そのときになって初めて読み手はそれまでの無音を強く自覚する、という仕組みになっているのです。

 とまあそんな仮説ですが、作者の意図どおりの受け取り方をしちゃうと、すがすがしい笑顔で「してやられたぜ!」って言っちゃいますね。
 ところで新刊で一番好きな台詞は、47.5話のしょうこの「もっといっぱい約束して」です。よろしくお願いします。

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クメイとミコチ11巻の感想を読ませていただきました!服を買う・着るキャラクター達の細かい表情まで見ておられて感嘆致しました。改めて読み返すとそれぞれ本当に楽しそうに選んでいますね。その楽しみ方がまたそれぞれ個性があって!初見時よりもじっくりと物語を堪能出来ました。
新たな視点で読むきっかけをくださり、ありがとうございます! byあるんす

>あるんす さん
 キャラクターたちの楽しそうな感じ、生きていることを肯定している感じ、読めば読むほど物語の世界に入り込める感じ、『ハクメイとミコチ』、いいですよね……
 

『好きな子がめがねを忘れた』光に消えそうな二人と光に祝福される二人の話

 『好きめが』最新刊を読んで口から大量の砂糖を吐瀉した山田です。こんにちは。

 ここ数巻はあまりの糖度の高さに青春の過剰摂取を心配していましたが、最新刊でついにその頂点に辿りつきました。
 小村君……三重ちゃん……おめでとう…………

 頂点の頂点たる95話は、つかみも好きなんですよね。
 「私はどくずです」。
 たぶん三重ちゃん語録で一番汚い言葉。それが告白回の最初のセリフ。つかんでくるぜ。
 で、そのあと、眼鏡をかけてない三重ちゃんの手を小村君が自然にとって、登校する二人。……まだ付き合ってなかったの? そりゃ東くんもいぶかる。
 そして、放課後になってついにその時に至る二人。「ちゃんと俺の顔を見てもらい」たいからと、三重ちゃんから預かっていためがねを、手ずから彼女の顔にかける小村君。これ、実質指輪の交換では? 
 ところで、けっこうフェチズムが強いと思うんですよね、他人の顔にめがねをかけさせるって。眼鏡の掛け心地って日常の快適度に直結しますし、もしレンズを触られ指紋がつけられればどんな温厚な人でもブチギレるというのはめがねあるあるですが、それを他人に任せるというのは、これ、実質セ●クスでは?某平●耕太先生や某小●寺浩二先生あたりはどう思うのでしょう。
 そんな与太はともかく、しっかりとお互いの目を見て、顔を見て、お互いの気持ちを声に出して確認し合おうとする二人。
 放課後の誰もいない秋の教室というのもあって、薄暗い教室と、外からの夕日の光が、二人の顔の上にささやかなコントラストを作り、それがどこか不安定さを生んでいます。もちろんいい意味です。自分の気持ちだって、きっとそうに違いない相手の気持ちだって、実際に言葉にしなければ自分で信じることはできない。だから、自分で言葉にして、言葉にしたものを相手から聞かされて、そこで初めて確かなものと信じられる。
 その言葉を交わし合った後に二人の顔から影が去り光に明るく照らされているのは、確かめることができた安心と安堵と嬉しさと、そのほか世界中の幸福を一身に受けられた証なのかな、と。

 私の漫画史で最高の告白シーンは、『子供はわかってあげない』のサクタとモジ君だったのですが、小村君と三重ちゃんもそれに匹敵するものとなりました。

 『子供はわかってあげない』の告白が、夏の屋上、汗と涙と緊張ゆえの笑いにまみれた、ポカリスエットのような青春の甘酸っぱさだとすれば、『好きめが』は、やさしくやさしく砂糖をぶちこみ、口の中でホロホロと崩れるマカロンのようなお菓子の甘さ。
 どちらも、いい大人になったって「こんな記憶を抱いて死にたかった……!」と思ってしまうとても素敵な告白シーンです。
 おめでとう…おめでとう……

 さて、10巻の頂点はもちろん95話での告白シーンなわけですが、それ以外にもいいなと思うシーンがいくつもありました。
 たとえば89話(10巻1話目)の、早起きした二人が早朝に登校するシーン。誰もいない通学路を歩く二人は、朝の白々した光に包まれ、まるで「世界に二人だけみたい」。目を眩ませる秋の早朝の太陽は、世界を白い光に染め上げ、存在の輪郭を淡く薄めていました。
 光に溶け込むようにして歩く二人の姿は、美しくもあり、儚くもあり、この気持ちを声に出したらすべてが消えてしまうんじゃないかと不安がる小村君の、そして三重ちゃんの思いにも似て、もう少しこのままでとつい思ってしまう小村君の気持ちもわかってしまうようです。
 ところでこのシーンで思い出したのは、市川春子先生の短編『25時のバカンス』(同名の短編集に収録)のラストでした。

「普通」の人間の枠から少しはみ出てしまった弟とだいぶはみ出てしまった姉、その二人が二人、昇る朝日(あるいは沈む夕日)をバックに、強い逆光に消えるようになりながら、冗談めいた、告白めいた言葉を交わす、愛しさともおかしさとも恐ろしさともつかない曰く言い難いラストシーン。このシーンの印象が蘇ってきたからこそ、『好きめが』のこのシーンでも、美しさと、儚さと、そして消えてしまいそうな不安を抱いたのかもしれません。
 その複雑な印象が、とてもいいんだ……

 他にも、イケメン東君に恋の相談をされる小村君の想像力豊かさゆえの気持ち悪さ、いいですよね。まあ小村君は三重ちゃんのことを思ってるときはたいていちょっと気持ち悪いんですけど、中学生男子なんて多かれ少なかれ気持ち悪い生き物ですから。
 あと、東くんもこれ、「隣のお姉さんが好き」なんですよね。

マンガクロスのあっちとは関係性というか二人の属性が違いますけど、男の子が女の子に相手にされないという点では同じで、でもあっちのほうは心愛さんが気にするようになってきて、はたしてイケメン東くんはすっぽん小村君の相談で朝姉に意識してもらえるようになるのか。

 他に細かいところだと、91話の二人の私服(裏表紙の格好)で、三重ちゃんは細いストラップのポーチをコートの上から斜め掛けてしている(しかもストラップが肩に掛かっている部分はコートの大きな襟で隠れてる)けど、太いベルトのバッグの小村君はブルゾンの下に掛けているところは、服のラインを壊さないようこだわってるのかな、と感じました。
 小村君みたくベルトの太いバッグを薄手のアウターの上から掛けると、肩に触れてる部分で生地がよれたり、バッグがアウターを押さえちゃうので、シルエットが崩れやすいんですよね。数年前から、小さいバッグをアウターの下で掛けるのを見るようになりました。三重ちゃんの場合は、ポーチが小さいこと、コートの生地が厚手に見えること、ストラップが細いため肩にあたる部分でも生地がよれづらいことなどから、コートの上から掛けてもシルエットの乱れは出づらいんですけど。
 ファッションに自信のない(自称)小村君がわかってててそれをやってるのか、あるいは他の人がやっているのを真似ているというテイなのか、それとも作者が無意識のうちにそう描いているのか、確証はありませんが、なんとなく一番最後のがありそうかな、という気がします。

 あと、93話で久しぶりに出ましたね、三重ちゃんのウォーリアー語彙。「さては謀ったでしょ」。なかなか中学生は言えないぜ。

 とまあ10巻読んで感じたことを縷々述べてみました。
 なんとアニメ化も決まった『好きめが』。三重ちゃん目の悪さ(視界)の表現はアニメでやったら面白いだろうなと常々思っていましたので、これはとても朗報。観たいぜ。
 無事両想いを確認できた二人ですが、以降ではどんなお話になるのでしょうか。とてもきれいにいったんまとまったので、今後はある意味での後日談になりそうですが、そもそも拙者後日談大好き侍なのでそれは大いにウェルカム。後日談という言い方が適切でなくとも、物語としてもまだまだ見たい!
 楽しみです。

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『ハクメイとミコチ』好きなモノを好きと言い、身にまとうことの嬉しさ楽しさの話

 年に一度、毎年1月のお楽しみといえば、そう、『ハクメイとミコチ』の新刊発売。

 巻を重ねるごとに、登場人物やエピソードも重なっていって、面白さも重層的になっていく本作。たとえば最新刊では、10巻に登場した甲羅木組へハクメイが加入したエピソードから始まりますが、彼女が甲羅木組として家の修繕をする流れの中でも、加入まではせずとも顔を出して縁を作っていた石貫會の面々に手伝いを頼んでいました。物語の重なりを感じさせますね。

 さて、本作では、大工のハクメイ、料理人のミコチを筆頭に、何かを作ったり、その身や技術で生計を立てているキャラクターが多く登場します。機械のほとんどない世界なので、当然と言えば当然なのですが、そんな世界だけあってか、モノに対する視線がとても優しく、愛用しているものを修繕などして長く使おうとしたり、他人が作り出した逸品に強い敬意を払ったりしています。
 11巻で言えば、前述の、作られた当時の意図を汲んで修繕しようとする甲羅木組がそうですし、すでに故人となった製作者の想いがこもったぐい呑みの話もあります。

 で、そんな多くのモノに関するエピソード群で、私が特に好きなのが、古着屋のトレモが登場するなのです。
 それは、私自身が服が好きというのも大きいのですが、彼の登場するエピソードでは、手に取った服をキャラクターたちが、時に少し恥ずかしがりながらも、素直な心持でそれらを気に入り、実に嬉しそうに、楽しそうに袖を通しているのです。その屈託のない姿に、読んでいるだけでニコニコしてしまいます。
 11巻ではトレモ自身が主役となり、店を訪れる客に、彼らによく似合う、気に入るに違いない服を紹介していき、実際彼や彼女は、着飾ることに慣れていようといまいと、お気に入りの一着を選び、洋々と買っていくのです。トカゲの旋毛丸にサングラスを紹介し、セールストークを展開しようとしますが、旋毛丸の言った言葉は「おだてる前に 値段を言え」です。普段はけんかっ早い彼も、いや、彼だからこそ、気に入ったものは四の五の言わず手に入れたいのでしょう。
 旋毛丸とトレモが初めて出会った8巻のエピソードでは、トレモが選んだ服ではないですが、自分で見つけたトカゲ用のコートを、同行人を尻目に早々と購入しようとしています。
 気に入ったものは、手に入れたい。だって、そうすると気分がいいから。

 また、トレモが初登場する3巻のエピソードでは、ハクメイ・ミコチと一緒に偶然彼の店に立ち寄ったイワシが、「寡作の針姫」と名高いブランド「ナイトスネイル」の服をトレモから勧められました。思った以上にお高いそのお値段に怯むイワシでしたが、トレモの言った「まるで体に吸い付いたようだぜ 服がアンタを選んだのさ」の殺し文句に、値切りはしつつも、結局購入しました。
 「アイツ商売上手だな」なんてぶつくさ言っていたイワシでしたが、以降、休日の外出では好んでそれを着ており、上記の旋毛丸がコートを買ったエピソードに彼もいたのですが、結局何も買わなかったイワシに対して友人が「よかったのか?」と尋ねると、「俺はたまにしか服着ねえからな こいつを着る機会が減っちまうだろ 気に入ってんだよ これ」と、まさに今着ているナイトスネイルの服を嬉しそうに示すのです。
 気に入ったものは、多く身に付けたい。だって、そうすると気分がいいから。

 現実では、着飾る、ファッショに凝るということにどこか気恥ずかしさがつきまといます。実際、道行く誰かが自分の服装を注視するものでもないですが、どこか自分の心の奥の方から、「そんな格好つけるんじゃないよ」「自意識過剰かよ」「それホントに似合ってると思ってる?」などと卑屈な自意識が、大なり小なり声をかけてくるのです。
 でも、『ハクメイとミコチ』に登場する彼や彼女のように、自分が直感的に気に入ったものに、素直に「気に入った!」と表明し、それを身に付けるだけで気分がウキウキする。そんな屈託のない欲望の肯定は、きっと人生を華やかなものにしてくれます。

でもお洒落する理由って 単に取り繕うだけじゃないっすから
人によるんすけどね たとえば
ビシッと決めて気分を高揚させたり 作り手の意図を慈しんだり 自分自身と他人や文化とを繋いだり 内面の変化を生むきっかけになったりね ただただモテたい!とかさ
(11巻 p156,157)

 このトレモのセリフのように、お洒落する、気に入ったものを身にまとうことは、人生を豊かにするのです。

 以前、池辺葵先生の『ブランチライン』を読んだ際にも、似たようなことを書きました。
yamada10-07.hateblo.jp

自分の好きなものに衒いのない月子の姿はとても軽やかで、他人の目とか今後の不安とか、そういう余計なものを脱ぎ捨てたかのような素朴な美しさを感じさせます。

『ブランチライン』欲望の素直な肯定と身軽で気軽な姿の話 - ポンコツ山田.com

『ブランチライン』に限らず、池辺葵先生の作品を読むと、自分の欲望に素直になっていいんだなと思えます。自分の欲しいものを手に入れたら素直に喜んでいい。自分のしたいことをできたら素朴に嬉しがっていい。ともすると、別にどこにもない世間の目なんてやつを気にして湧き上がる感情を抑えようとしてしまったりすることもありますが、そんなことしないでいいんだ、自然に喜びに身を任せればいいんだと思えるのです。そうする姿は、月子のようにとっても身軽。

『ブランチライン』欲望の素直な肯定と身軽で気軽な姿の話 - ポンコツ山田.com

 『ブランチライン』では、服に限らず、他人に贈る愛にまで話を広げて、何かをしたい欲望、何かを欲しがる欲望を、素直に、素朴に、屈託なく認めていいんだ、ということを書いていました。両手じゃ抱えきれなく、ドキドキするような、家から遠く離れてもなんとかやっていけるような、そんな欲。もしくは夢。

 『ハクメイとミコチ』は先にちらっと書いたように、文明程度で言えばあまり高くない、まだまだ手作業メインの世界。ほとんどのキャラクターの日々は仕事に忙殺されています。でも、だからこそ、たまの休みは心の洗濯、羽を大きく伸ばすために、お気に入りの場所に行ったり、お気に入りの物を食べたり、お気に入りのものを身に付けたりしているのです。
 そのメリハリというか、オンオフというか、何が正しいかは知らなくても何が楽しいかは知っているような、そんな生活。それをそっくりまねることはできませんが、何が好きか、楽しいかは忘れないような生活はしていきたいなと、本作を読むと思わされますね。

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『ぼっち・ざ・ろっく』下手な演奏を下手に演奏できるアニメの説得力の話

 今更ながら、ABEMAで『ぼっち・ざ・ろっく』のアニメを見てます。
bocchi.rocks
 現時点で9話まで鑑賞。原作を2巻まで読んでからのことなので、ストーリーはすべて承知なんですが、漫画とアニメの表現の違いから生じる印象を色々感じてます。
 その中でも一番大きいのは、やはり演奏シーン。
 漫画からは当然音が聴こえませんので、その点で実際の音を鳴らせるアニメはとても有利。それが(9話時点で)一番うまくいったなと感じたのは8話でのライブシーンです。

 結束バンドの初ライブ1曲目は、台風により観客が少ないことによるモチベーションの悪化もあってか、4人とも集中力が低く、まったくノれてませんでしたが、原作ではそれは、こう表現されていました。

(1巻 p124)
 「ドラムもたついてる」や「息が合ってない」というのは所詮言葉だけであり、そもそも普段の彼女たちの演奏レベルも言葉以上のものを実感できてないのですから、いくら言葉で演奏の具合の説明をしても、彼女らの演奏のノれてなさは説得力をもちえません。
 でもアニメでは、現実に音を鳴らせます。それも、絶妙に聴いてて不安になる音を。
 たしかにぼっちの言うとおり、ドラムはもたついているし、ベースとうまくかみ合わないし、ボーカルの声も飛んでいません。ちゃんと「聴いてられない」演奏になってます。そりゃあファン1号2号も不安な顔になる。
 アニメでは、下手くそな演奏をちゃんと下手くそに演奏することで、結束バンドの不安定さに、はっきりとした説得力が生まれているのです。

 で、これがうまく効いているのは、5話のオーディションでの演奏は、ちゃんと「聴ける」ものだったということです。アマチュア女子高生バンドの初めての人前での演奏がちゃんと「聴ける」ものだったことに、私は、「なるほど、アマチュアの演奏も『聴ける』ものとして構成するのね」と思いました。いくらぼっちがネットで好評を博するギタリストだったとしても、それだけでバンド全体が「聴ける」ものになるというのは考え難いものです。なので、アニメはそういうスタンスで作るのだと。
 でも、それはフリだった。
 オーディションで「聴ける」演奏をしていたからこそ、初ライブでの「勢いが完全になくなってる」演奏が説得力を持って成立するのです。
 たしかに彼女らは、モチベーションも集中力も欠いている。初ライブがこれでは、経験者の虹夏やリョウはともかく、ぼっちと喜多はバンドをいやになってしまうのではないか。
 そう、きちんと視聴者を不安がらせられるのです。
 実際、あのレベルの演奏は、ライブハウスで爆音で聴けば違和感を意識しないくらいにはなるかもしれませんが、それでも「なんかノれないな」という思いはついて回り、オーディエンスが少なく熱狂度が低い状況ではなおのこと感じるでしょう。それが、アニメでの画面越しの演奏となれば、ノれない感じ、いつか止まってしまうんじゃないかという不安はいっそう強く感じてしまいます。

 で、そんな1曲目の不安定さこそ、2曲目冒頭のぼっちの暴走が光ります。

(1巻 p125)
 このシーンも原作では、ぼっちが意を決して空気を変えようとし、それがバンドの皆にも伝染して無事ノリが復活した、ということはわかりますが、それはわかるというだけで、説得力という点ではあまり強くありません。「そういう風に描いてあるからそういうシーンなんだろうな」という、想像というか、主体的な思考が生まれてしまい、ぼっちが場の空気を変えたことが感覚的にわかるわけではありません。
 ですがアニメは、1曲目のチグハグなバンド演奏とは違い、一人でキレのある演奏をするぼっちのギターは、たしかにその場の空気を変えるものであり(もちろんギターの音以外の演出もありますが)、それに引っ張られた2曲目が、1曲目と格段に違う演奏となったことは、文字どおり、聴いてわかる演出となっていました。ドラムのパターンも安定しているし、ベースやギターとのキメも合ってるんですよね。
 視聴者はそれを、考えてわかるのではなく、聴いて感覚的にわかることができるのです。百聞は一聴に如かずとでもいいますか。
 理屈に先んじる理解。それが説得力です。

 現に音を出せることで、しかも実は大変に難しい、わざと下手くそに演奏をすることで、ライブシーンの緊張感と絶望感、そこから一転するカタルシスを巧みに描いたのは、やはりアニメの強みだなと思います。
 丁寧につくられるバンドアニメはいいぜ……
 あと廣井きくり、えっちだぜ……

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オタク愛は拳で語らえ!腐女子JK除霊師『限界煩悩活劇オサム』の話

 ギャルJK・春山カイカは悩んでいた。自分のアパートに出る怨霊があまりにも荒ぶるため、なみいる除霊師たちが軒並みしっぽを巻いて逃げているからだ。藁をもすがる思いで見つけたのは、同じ学校に通うJK除霊師・乾オサムだった。しかし、彼女いわく、自分が除霊できるのは一部の特殊な霊だけだという。それでもカイカから状況を聞くうちに、どうやら自分が対処できる類の怨霊だと判断し、カイカのアパートへ向かうが、怨霊と対峙した瞬間オサムは、それから発された呪いの言葉に、血反吐を吐くほど精神を削られた。果たしてオサムは怨霊を祓うことができるのか……

 ということで、ゲタバ子先生の『限界煩悩活劇オサム』のレビューです。
 上記の1話あらすじだけ読めばホラーバトル物と思えるかもしれませんが、ところがどっこい、ホラーの皮をかぶった、否、まったくかぶりきれていないオタク(腐女子)オカルトコメディです。
 なにしろオサムが除霊できる一部の特殊な霊とは、腐女子が怨霊になったもの。オタク心を拗らせて現世に執着している腐女子怨霊を、自身もズブズブの腐女子であるオサムが、時にオタク愛を語り合い、時にカプ観の相違で拳をぶつけあい、時に協力して非オタを沼に引きずり込むことで怨霊の負の感情を浄化するという、パワフルでソウルフルなスタイルなのです。

(1巻 p35)
 これは除霊中のパワフルでソウルフルな笑顔。逆カプをさげすむあたり、主人公とは思えないばっちさですね。
 このように、オタクを拗らせた熱いぶつかり合いの除霊が面白さの一つで、基本的にオサムも怨霊と同じオタクであり同じ穴の狢、オタクゆえの肩身の狭さに心通じ合うこともあり、オタクゆえの絶対に譲れない価値観(カプ観)でバチボコに殴り合うこともあり、ドタバタと除霊に励むのですが、オサムも怨霊もどちらも根底にあるのはオタク愛。
 怨霊はその愛ゆえに現世に残り、オサムはその愛ゆえに、現世に残ってしまっている怨霊の話を聞かずにはいられない。だって彼女は除霊師だから。オタクを拗らせている怨霊の気持ちをわかってしまうから。彼女が聞かなければ、怨霊の相はもうどこにも届かないから。
 あれ…そう考えると実はいい話なのか……?

(1巻 p26)
 いい話っぽさを感じさせる1コマ。なお3p後にカプ観の相違で血反吐を吐きます。

 とまあ、拗らせたばっちいオタク心と、その根底に流れる作品への愛が、奇跡のようなマリアージュを見せ、9割のコメディと1割のちょっとだけいい話として奇跡の成立を見せています。
 ドタバタコメディとして漫画の作り方とても巧みで、会話やコマのテンポが良く、ぐいぐい読めてしまうんですよね。
 キャラの関係性としても、たとえばバチクソオタクのオサムと、オタクに優しい非実在ギャルのカイカという関係による、オタク愛にあふれた熱さとそういうのがよくわからない困惑による凸凹の緩急あるキャッチボールもあれば、バチクソオタクのオサムとバチクソオタクの怨霊という関係という、オタク愛同士の凸凸の火の玉ストレート投げ合いもあり、そこらへんの塩梅がいいんです。
 対立も対比も、きっちり関係性を作ることで、会話やアクションにメリハリがつくんだなと感じ入る次第。
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 こいつはいいコメディ。

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