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漫画の話です。

おかしみを生み出すズレについての話

笑いについて、過去から現代にいたるまで多くの知の巨人たちがさまざまな論考を残しており、もちろんその大半、どころか1%も読めてはいないだろうけど、その寡聞の中で私は、河合隼雄氏の、何かを対象化し、対象の中に見出したズレを楽しむ、というもの*1が、私の考えに近いのかなと思います。
同氏は、ホッブズやパニョルの「自分が対象に対して「突然の優越」を感じるときに笑いが生じる」という考えを踏まえた上で、「筆者としては「優越感」と言ってしまうのは少し限定が強すぎる感じもする」として、「優越とまでゆかなくても、対象の中に見出した「ズレ」の感じを楽しむ」ものが笑いであると主張しています。
念のため付言しておくと、より正確には、行動である「笑い」ではなく、多くの場合で「笑い」を発生させる元となる「おかしみ」という情動についてではありますが、「おかしみ」を生み出す「ズレ」について、私なりにまとめてみます。

ズレとは

まず、ズレという以上、ずれる前に存在したそもそもの何かがあるわけですが、それが何かというと、日常であったり、世間であったり、想定であったり、常識であったり、文脈であったり、そういうものですが、それらをまとめれば、「ある人が無意識のうちに、無自覚のうちに当たり前と思っていること」です。
ある人の主観の中で、当たり前に思っている状況の中で、それから逸脱することが起こる。それがズレです。思いもよらなかったことが思いもよらなかったところで起こる(存在する)から、おかしみが生まれるのです。
別の言い方をすれば、「(本当は)○○のはずなのに××」という認知が起こると、おかしみが生まれるともできます。
日常の例でいえば、学校の授業中にクラスメートのお腹が鳴るとか、道を歩いていたら前の人が滑って尻もちをつくとか。
前者は、みな真面目に授業を受けるべきときのはずなのに、勉強への集中という状況から外れる、腹ペコを意味する腹の虫の鳴き声が聞こえる。
後者は、通常の歩行をすべきはずの場所なのに、めったに見られない振る舞いが起こる。
いずれにせよ、「○○ではこうあるはず(べき)」という思い込み、当たり前と思っていることから逸脱した出来事が発生することで、おかしみを覚えます。

おかしみを消すもの1

ここで一つ付け加えるべきことは、そのズレが発生したとき、観測者には一定程度の余裕が必要である、という点です。観測者が過度の緊張状態にあったり、危険が迫っていたりすれば、おかしみを感じられる余裕はありません。
上の例でいえば、授業を受けている人間に近々重大なテストが待っていれば、腹の虫に笑うより、授業の邪魔をするなと怒るかもしれません。前を歩く人が突然包丁を振り回して叫びだせば、その行動がどれだけめったに見られない振る舞いであろうと、おかしみどころではなく、恐怖が湧きおこります。
ズレにおかしみを覚えるには、余裕がなければいけないのです。

おかしみを消すもの2

また、そのズレが一定程度を越えて大きい場合にも、おかしみを覚えることはできません。
ズレからおかしみが生まれるのは、観測者の思い込みという土台が十分に強固な状況だからで、そこから適度に外れるたものが出るから面白がれるのですが、もしこれがあまりにも大きなズレであれば、観測者の土台を根底から揺るがしてしまい、安定した精神活動を保つことができません。
たとえばツッコミの少ないシュール系のコント。最初はげらげら笑いながら見ることができていても、それがシュールの色を薄めぬまま進んでいくと、次第に笑いを通り越してうすら恐ろしくなったことはないでしょうか。クラスメートや友人がふざけている様子を、初めのうちは面白がっていたのに、それが長時間続くと、不気味に思えたことはないでしょうか。
自分の常識や日常(つまり思い込み)が安定しているからこそ、誰かや何かの思いもよらない振る舞いを、非常識なもの、非日常なものと面白がれるわけで、その思いもよらない振る舞いが延々と続き、あたかもその振る舞いこそが普通であるかのような思いが兆してしまうと途端に、自分の安定していたはずの常識や日常が不安定なものに感じられてしまうのです。
今まで自分が正常な側で異常なものを笑っていたはずなのに、ひょっとしたら自分こそが異常の側なのではないか。そう思えてしまったら、もう笑うことはできません(ちなみに、ズレた状況が続いても、自身の安定に脅威を感じない場合には、単純にそのズレに飽きが出てしまい、別の意味でおかしみを感じなくなります)。

個々人に拠るズレ

さて、「○○なのに××」の、「○○」にしろ「××」にしろ、それらの解釈は常にだれからも同一というわけではありません。「○○」が、観測者にとっての日常であったり、世間であったり、想定であったり、常識であったり、文脈であったりするわけですが、上述したように、それはどこまでいっても思い込み。もう少し穏当な言い方をすれば、主観でしかありません。もちろん「○○」に対する間主観的な一致は、日常のほとんどのシーンで見られますが、それはあくまで、すぐには問題が発生しない程度の一致に過ぎず、細大余すところなく完璧な一致ということはあり得ません。
個々人には知識や経験に差がありますから、同じモノやコトを観測しても、それそのものに対する、及びそれの周縁に付随する意味情報も少しずつ異なってきます。少し前にネットで見かけたイラストで、同じリンゴを見ても、「赤い」や「甘酸っぱい」としか思わない人もいれば、「Apple music」「椎名林檎」「青森県」「白雪姫」など、より多くの連想を働かせる人もいる、というものがありましたが、そんな具合です。
ですから、同じある状況に出くわしても、何らおかしくない普通の状況だと思う人もいれば、そこにズレを見出す人もいます。一般的には、ある状況やモノ・コトから、複数の解釈を導き出せる人の方が、おかしみを感じやすいと言えるでしょう。解釈に幅(選択肢)があれば、ズレを生じさせる解釈を見つけ出せる可能性が高まるからです。
たとえば『へうげもの』で、古田織部が和睦を進める羽柴の使者として徳川の歓待を受けるシーンがあります(4巻 第三十六席)。織部を連れた使者として宴席に同席した織田長益は、武辺者の徳川方よりも、数寄者の羽柴方に価値観を同じくしていたため、野暮な徳川方の歓待の仕方を苦々しく見ていたところ、織部は、途中までは長益同様、否、それどころか怒りさえ感じていたのですが、途中で腹を抱えた笑いに転じました。
彼は徳川方の振る舞いを「ただ阿呆になって騒いでおるのが滑稽なのではなく……余裕をひけらかさんと命懸けでひょうげているのがおかしいのだ」と分析します。そして「この笑いの質は斜めに見ずばわからぬもの」と内心でつぶやいていますが、「斜めに見る」とは、通常とは異なる解釈をするということです。つまり織部は、その場に負の感情を抱いていた、同じ羽柴方の長益とは異なる解釈を得たことで、おかしみを生じさせたのです。

笑いの攻撃性

ところで、笑いには攻撃性があるということはしばしば指摘されますが、それを、ズレがおかしみを生じるという観点からまとめてみます。
上述のように、観測者の思い込みからズレた事象を認知することでおかしみは生まれますが、それは、何かがあるべき状態から逸脱すると捉える、ということです。
あるべき状態。つまりは、正しい状態。正常な状態。そこから逸脱したということは、ズレたものは、正しくない状態、異常な状態に陥ったということです。
そして、当然、何かが異常な状態に陥ったと判断する側、すなわち観測者(=おかしみを感じる者)は、構造的に、正常な側にいることになります。少なくとも主観的には。
他者を異常と疎外し、自身を正常の側へ置くことは、自身を有利なポジションに置くことであり、おかしみを感じた対象を相対的に不利なポジションへ置くことになります。
つまり、何かを笑う(おかしみを覚える)ということは、正常な自身を優位に立たせ対象を異常と低める精神活動であり、その意味で、本質的に攻撃的であると言えるでしょう。ですから私は、冒頭で述べたホッブズやパニョルの「優越感」という意見も、おかしみの一側面を表しているものであると考えます。


とりあえずこんなところで。

*1:対話する生と死(1992)「笑いの心理」

『BLUE GIANT SUPREME』辿り着いた極点とゼロからの探求の話

続編の『BLUE GIANT EXPLORER』とともに、満を持して発売された『BLUE GIANT SUPREME』の最終巻。あまりにも最の高だったので、雑に感想を書こうと思います。

冒頭は、10巻から続く、成功を収めたロックフェスの後の、各メンバーの様子ブルーノ編。ヨーロッパドサ回りの後半から、大の成長ぶりにに自身との差を感じてきた他のメンバーが、一つの大きな山を越えた後に何を思うか。
抜きんでた大に追いつこうと焦るあまり、自分がどうありたいかを忘れかけていたけど、それを思い出したラファ。
家族からの期待やクラシックの過去というしがらみに区切りをつけられたハンナ。
大にも負けないはずの自分の成長を見せたかったブルーノ。
リーダーである大のレベルアップは三人とも認めるところですが、それに対してどう反応するか、自分はどうあるべきなのか、どうありたいのか、三者三様の姿が描かれ、バンドとしてではなく、個のプレイヤーとしての成長を感じさせるエピソードでした。
バンドがレベルアップするためには、個がレベルアップしなければいけない。それを考えても、NUNBER FIVEの今後のさらなる成長を思わせるエピソード群でしたが、当のリーダーである大は、現状に不満を感じていました。
いえ、不満というと正しくないのかもしれません。ライブの客足は好調。CDの売り上げは好調。バンドは登り調子。若手ジャズプレイヤーとしては誰もがうらやむような順風満帆の状況ではあるのですが、それでも大が抱いてしまったのは「解散したい」という思い。なぜか。それは、常に新しい音に触れていたいから。ラファやハンナやブルーノのプレイが好きという以上に、自分のプレーが好きだから。
この自分勝手さ。傲慢さ。残酷さ。
メンバーより自分の音楽が好きだなんていうあまりにもセルフィッシュなことを言いきる大の姿に、しびれます。
でも、それと同じくらいしびれるのは、メンバーたちが大の言葉に同意するところです。三人が三人とも、バンドの解散には不満だけど、それでも大のプレーが好きだということには同意する。大にはそうであってほしいと言う。
一つのものを同じステージで作り上げる仲間であり、同時に、自分こそという思いで切磋琢磨するライバル同士。とても美しい関係がここにあります。
そして、最大の山であるノースシージャズフェスティバル。
解散を賭けたステージに至るまでに、文字通り殴り合うような練習を重ねてきましたが、彼らはそのステージ上で、今までにないシンクロ感をもってプレーしました。出だしのほんのワンフレーズから、それぞれがそれぞれの具合を主張し、推し量り、そして通じ合う。
新しいリフに反応して次のリフを想像する。そのリフの勢いに吹きたいテンポを感じ取る。アドリブのボルテージが上がりきったところでソロを阿吽の呼吸で受け渡す。ソロが渡されるごとにボルテージは上がり、一瞬先は常に一瞬後を越えようとする。
何も言わずとも、一曲目が激しいソロからだったから、二曲目は静謐に始める。フレーズを展開させるリフを全員が了解する。倍速にしたそうなので倍速にする。横ノリのフレーズになりそうなので横ノリを付ける。
まるで言葉で会話しあっているかのように、否、テレパシーで通じ合っているかのように、お互いがお互いのプレーを、何をしたいかを、理解する。いわゆるゾーンに入ったような感覚。
NUMBER FIVEの面々がこの境地に至れたのは、本番での集中力もさることながら、そこに至るまでの長いライブ回りと、本番直前のお互いの我をぶつけあった練習が必要だったはずです。
ここではこう吹きたい。
ここではこう叩いてほしい。
合いの手はこう入れてほしい。
ソロにはこうつなげてほしい。
言葉どころか手も出るような激しい練習で、メンバーたちはそれぞれの希望を身体にしみこませているのです。それがあったから、この奇跡のようなステージが生まれたのです。プレーが素晴らしければ素晴らしいほど、終わりが切々と近づいてくる、アンビバレントなステージが。
まだこのバンドでやっていたい。
まだこのバンドで成長できるはずだ。
解散なんかしたくない。
そんな他のメンバーの思いをもちろん大は感じ取り、それでもなお彼は吹き上げます。「俺は行くんだ」と。
やっぱり、とてもわがまま。でも、そんなわがままな音こそが、自分なんだと。
メンバーの高揚に観客も巻き込まれ、会場全体が一つに融け合い、知らないうちに涙が流れるそのステージには、読んでるこちらの涙もこぼれるに十分な感動がありました。
そして、ノースシーを終え最終話。Dai Miyamoto NUMBER FIVEとして最後のライブとなるオスロ。有終の美を飾る演奏。大が抜けても続くことになったNUMBER FIVE。高台から望む開けた北極圏の地。大からの、ヨーロッパでのすべてに感謝を捧げるメンバー紹介。
最後の最後のメンバー紹介もいいんですけど、私はその直前の、五人で見た光景のシーンが好きなんですよね。単身ヨーロッパに乗り込んだ大が、一人で演奏し、ハンナに出会い、ラファに出会い、ブルーノに出会い、NUMBER FIVEとなり、四人でお互いを高め合い、バンドとしてどんどん強く、鋭く、研ぎ澄まされていった先で、解散というバンドの結末にたどり着いたところが、開けた地だというのが、アメリカに旅立つ大を象徴するようで、とてもいい。まさに、"supreme"の先に続くのが"explorer"なんですよね。極点の先で、またゼロから一人で新しいものを探し出すのです。
EXPLORER』1巻は、『SUPREME』の1巻とは違い、すでに一定の力量と海外慣れを身に着けた大の新たなスタートですから、後者ほどの緊張感まではないのですが、それでも新たな地で大がどんな新しいものを見つけるのか、期待させてくれる滑り出しです。無印で登場した雪祈の再登場フラグもたちましたし、それも楽しみです。
はよ。2巻はよ。


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『水は海に向かって流れる』「いい子」の直達の怒りと大人への成長の話

前回の記事の最後で予告したくせに少し間が空いてしまいましたが、今回も『水は海に向かって流れる』の話です。前回一か月近くも前じゃん。
ともかく、予告どおりに今回は直達のお話。榊との出会いを通じて、子供のままでいようとする呪いを解いた直達の話です。

「いい子」の直達

高校進学を機に始めたルームシェア先で、自分の父がW不倫をしていた過去を知り、その不倫相手の娘と一つ屋根の下で暮らす羽目になった直達。思春期の少年にはあまりにも刺激の強い事態ですが、直達は、同じ家でルームシェアをしている母方の叔父のニゲミチを慮り、実家の両親を慮り、なにより不倫相手の娘である榊を慮り、特に騒ぎ立てることをせずそのまま暮らし続けることをひとまず選びました。

……この人は 俺が知ることを 望んじゃいないのか……
だったらもう深追いするのやめよう…
(1巻 p85)

このように、直達は何か問題が持ち上がったときに、波風を立てないことを選ぶ人間でした。別の見方をすればそれは、「わがままを言わない」こと。あるいは「聞き分けがいい」こと。それはつまり、「いい子」でいること。作中でいろいろな表現がされていますが、これが当初の彼の基本スタンスです。
それは一見大人びたようにも見えるものですが、実のところ、彼が幼少期の頃にかけられた(あるいは自らにかけた)呪いの表れなのです。
榊が直達の父の不倫相手の娘だとどちらがニゲミチに伝えるかということについて、直達と榊が問答をしているとき、直達の脳裏にはこんな言葉がよぎりました。

わがままを言ったら捨てられる…
捨てられる って 誰に?
(1巻 p189)

突如浮かんだ「捨てられる」という言葉。その不意打ちに自分でも驚いていると、連鎖的にあるシーンが思い出されました。それは、直達の父がまだ5歳の直達の頭をそっと撫で、困ったように笑いかけるところ。このシーンがいつのことなのか、おそらくは直達父が不倫で家を出る直前でしょう。まさにそのときの直達が何を考えていたかは描かれていませんが、15歳の直達の脳裏によぎったそれに結びついていることは想像に難くありません。
幼い直達が、自分がわがままを言ったから父に捨てられたと考えたのか、それともわがままを言わなければ父が帰ってくると考えたのか、それはわかりませんが、いずれにせよ、父の出奔は直達に、わがままを言ってはいけないという強い呪縛をもたらしたのです。
わがままを言わない子とは、端的に言えば「いい子」。それが直達です。

「いい子」からの脱却

そんな直達が、たとえわがままを言うことになろうとも、いい子じゃなくなろうとも、他人に向かって一歩踏み出したのは、榊に向かってでした。

〈わがまますら言えない子供のままじゃ〉
俺は
そーゆうのやです!
〈目の前のこの人が背負うモノを半分持つことも出来ない〉
(1巻 p190)

そもそも、直達の榊へのファーストインプレッションは、ポトラッチ丼にたぶらかされて禁断の恋に落ちかけるというものでした。もっともそれが「禁断」であったのは、ニゲミチの恋人だと勘違いしていたからですが、その印象が消える前に、榊が自分の父の不倫相手の娘だという事実を知り、ときめきを塗りつぶすような重たい何か、榊や泉谷妹言うところの罪悪感を背負う羽目になりました。
自分が直達の父親の不倫相手の娘だということを榊は直達に知ってほしくなく、直達は、その事実と知ってほしくないという榊の思い、両方を知っている。前回のブログで書いたように、榊は直達を、かつての自分がそうしてほしかったかのように、彼を庇護すべき子供として扱おうとするのですが、そんな榊の思惑は、いい子であろうとする直達と合致するものでした。
だから彼は、「深追いするのやめよう」としたし、言いたいことがあったも「言ってどーするんだ… どーなることでもないのに」と諦めたりしていました。
でも、直達はそれをやめようとした。わがままを言おうとした。いい子じゃなくなろうとした。子供じゃなくなろうとした。
その具体的な行動として、ニゲミチに、自分と榊の関係性を告白することで、こんがらがってる事態をどうにかしようと思ったのですが、そんな思い付きでなにがどうなるわけもなく、結局自分の無知と無力さを思い知るだけでした。

…後悔してるの?
いい子でいる方を選んでたら こんな無力さを味わわずに済んだのにって思ってる?
(2巻 p19,20)

けれど、たとえ自分自身に恥じ入る羽目になろうとも、直達が子供でいないことを選び取ろうとしたことは大きな一歩です。
そのあとも直達は、恋人を「いらない」と言った榊の事情に踏み込もうと、当時のことを教授から聞こうとしたり、榊本人から聞いてみたり、ついには自分も恋愛しないと謎の宣言をしたり。
宣言を聞いて思わず激高した榊は、「直達くんには関係ない」と突き放す態度をとりました。それまでの直達ならば、そう言われればそれ以上動かなかったはずです(それまでの直達なら、そもそもそんなこと言わなかったでしょうが)。ですが、彼は頑固に宣言を取り消さなかった。「自分にできることをしようと思って」と、榊にかかわることをやめなかった。
この、他人へ関わろうとする態度こそが、子供の殻を破ろうとしている直達の大きな変化なのだと思います。望まぬ他人への干渉は、相手の不興を容易に買うものであり、それはわがままを言わないいい子には到底できないことです。

怒れない直達の「怒り」

そして、殻を破るもう一つの象徴は、怒りです。
まだ榊へ一歩踏み出す前に直達は、こんな風に悩んでいました。

今さら母さんが怒ってるワケないし
榊さんは俺がこの件に関わることを望んでないし
俺がグレればおじさんが何回か死ぬし
手も足も口も出せない… 俺はこのままヘラヘラと知らないふりして生きていくのか?
怒ったりできればいいのに!!
(1巻 p103)

そう。直達は怒ることができませんでした。それがもっと小さいころからそうなのかはわかりませんが、きっとそのきっかけは、幼少期の父との別れ。つまり、いい子でいなきゃいけない呪い。いい子はわがままを言わない。いい子は怒らない。だっていい子は手がかからないから。手がかからなければ、きっと嫌われないから。
ですが、怒らないというのは端的に不自然なことです。怒るべきときに怒らないのはとても不自然。
わがままを言わないことで、怒らないことで子供のままでいた直達は、自分でも気づかぬ間にその不自然さを拗らせていました。

それ言われて俺
怒れなかった
誰に対しても
そのおばちゃんになら 怒れるかもしれない 怒っていいと思う
〈あー 俺 ずっと怒りたかったんだな…〉
(2巻 p145,146)

思わず涙するほどに、彼の中で起これないストレスは大きなものになっていました。
引用中の「それ」とは、榊の「何もなかったことにして今まで通り暮らしたい」という発言ですが、その発言は、ニゲミチと三人で中華を食べた夜にも榊が言った言葉でした。
直達の父が家にやってきた一件でぎすぎすしていた榊とニゲミチの関係を修復すべく行われた会食ですが、「何もなかったことにして今まで通り暮らしたい」という榊の発言は、勇気を出して彼女に関わろうとした直達にとって明確な拒絶でした。子供であることをやめようとした矢先に言われた「何もなかったことにして」。榊にそのつもりはないでしょうが、まるで自分の決心を踏みにじるかのような発言に、本来なら直達は怒ってしかるべきでした。でも、直達は怒らなかった。怒れなかった。だって彼は、怒らないことを選んでいたから。

すいませ…
怒らないのを選んだのは自分なのに
(2巻 p147)

上で書いたように、直達にとって、怒らないことは子供(いい子)でいることと同義です。だから、大人になるためにも、彼は怒りたかったのです。

大人になる直達

でも、結局彼は、榊の母に会っても怒ることはできませんでした。

あの時… あのオバチャンの物語に付き合ってやる義理はないと思っちゃって
怒るのが面倒になったんです
いつもそうやって自分の感情からも相手の感情からも逃げて…
他人のためにエネルギーを使ってやれない
(3巻 p25)

そんな自分を「冷たい人間」と直達は評します。
怒れなかった彼は、子供の呪いを解くことに失敗したのでしょうか。
いえ、彼はすでに、怒りたい気持ちを榊に吐露した夜に、こんなことを思っていました。

何にもどうにもならないとわかっていても
知ってほしかった 怒りたかったこと
誰かが知っていてくれるだけできっと 生きていけるんだろう
(2巻 p147,149)

奇しくもこの感情は、母に会いに行った夜に榊が思ったこととリンクするものですが、怒りたい自分を知ってくれた=大人になりたい自分を知ってくれたことは、自分が生きていてもいいと思えるほどに心へ響くものだったようです。
それを榊に知ってもらえたから直達は、彼女が怒っていることは自分がずっとおぼえていると、約束したのでしょう。たとえ怒ることができなくても、未来に向けて他人のことをずっとおぼえていると誓えるほどに、他人に関わろうと思える。それくらい、直達は大人になれました。
そして、ついには榊への恋心を自覚し、彼女に告白。それから一年経ってもお互い頭が冷えていなかったので、ついに二人は恋人関係になるのですが、その直前の会話が、直達の変化を端的に表していていいなと思いました。

「…私は 直達くんが誰かと普通に幸せになってくれるなら それもいいと思ってるよ」
「……そうやって さもイイコトを言ってやってる体で俺をつきはなすの やめてほしいなって思ってますよ 俺は」
(3巻 p152)

榊が自分を突き放そうとしているのを理解していても、それにのらない、つまり聞き分けよくなく相手の言葉を拒む直達。出会った当初は、「子供は知らない方がいいんじゃないの」と彼女に言われれば、おとなしく引き下がっていたのに。これが成長……

以上、直達が子供から大人へと成長する姿を、「いい子」と「怒り」をキーワードに読み返してみました。
特に「怒り」については、あらためて榊のものと比較しても面白そうですがまあまあまあまあそれはそれとして。
とにかく最高に最高な最の高の作品だったので、田島列島先生にはまた新作を期待している所存でございます。



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『水は海に向かって流れる』榊の怒りと幸せのなり方の話

先ごろ最終巻が発売された、『水は海に向かって流れる』。

16歳の少年と26歳のお姉さんの、一つ屋根の下の複雑な関係もこれに終幕。軽妙な中にもさわやかさを忘れない、最高の終わりでした。2020年の完結ですが、20年代のマストバイに間違いないですね。
さて、前作の『子供はわかってあげない』もそうでしたが、田島列島先生の作品は細かい心理描写を説明的な言葉に任せずに、(漫画的な意味で*1)自然なセリフで登場人物たちの心の動きを巧みに活写していました。
しかし、その説明の少なさゆえに、読んでて登場人物たちの内面が十分わかった気にはなってるけど、じゃあ具体的に言葉にしてよといわれるとちょっと困る、そんな巧みさでもあります(まるで現実の人間みたいですね)。
主役の一人である26歳のOLこと榊さんの内面もまたとても複雑なのですが、それを言葉にすることの難しさは、端的に言えば「彼女は怒りたかったのかどうか」という疑問にあると思うのです。

母を怒りたい? 許したい?

2巻まで読んだ方ならおわかりのとおり、彼女は、自分を捨てた母に対してずっと怒ることをしていませんでした。正確に言えば、怒っている気持に蓋をし続けていました。目を逸らし続けていました。

…怒ってどうするの
怒ってもどうしょもないことばっかりじゃないの
(1巻 p43)

このセリフは、直達から自分らの親の関係(すなわち、榊の母と直達の父が不倫したこと)について知っているかのようなことを言われ、ドキッとしたものの、そうではないことを問われていたことに気づいて、かすかに安堵しながら吐いたものです。直接的には、直達からの、猫を見つけたことを言わなかったのを怒っているか、との問いに対する答えですが、その裏には上記の、両親の不倫についての答えが含意されていることも読み取れます。
わざわざこんなことを口にするのは、「怒ってもどうしょもない」けど怒りたいことがあるからに他なりません。それを自分に言い聞かせ、怒りに蓋をするためにも、彼女はそう口にしているのです。
このように、表面的には、本人の自覚的には、榊は母親について怒ってはいませんでした。しかし、3巻でその母を目の前にして、榊はこう言いました。

怒ってもどうしょもないことばっかりだけど
怒らないのは許しているのと同じよ
(3巻 p13,14)

はて、怒らないようにしていた榊は、母親を許そうとしていたのでしょうか。
彼女が母に対して、許しとは程遠い感情を抱いていたのは明白で、たとえば不倫の相手である直達の父と会った時の振る舞いや、そこから生じたニゲミチとのぎくしゃくも、母を許しているのであれば、少なくとも許そうとしているのであれば起こらないものだったはずです。
母を怒ってもどうしょもないと思っていたけれど、怒らないのは許してるのと同じ。じゃあ榊は母を許していたのかと言えば、そんなことはない様子。
さて、この榊の発言の齟齬は、どのように解釈すればよいのでしょう。

もう会わないから怒らない 消したい「母を好きだった自分」

私はこれを、榊が母と別れてからずっと自分に言い聞かせていた心構えから、対面したときの心構えの変化と解釈しました。
別の言い方をすれば、もう会うことはないと思っていたからこそとっていた心構えと、にもかかわらず会ってしまったときの心の在り方の違いです。
これを説明するには、母と別れる前の榊は、母のことが大好きだったという前提が重要になります。榊自身の口から、母のことが大好きだと直接言ったことはありませんが、それを思わせるセリフや、直達らがそう察する描写は随所にあります。

私が
直達くんみたいないい子だったら……
あの時 あんなヒドイこと言わなかったら
戻ってきたのかもしれなかった
(2巻 p107,108)

純粋ってなんて非生産的なんだろう
この人はお母さんが大好きだったんだ
なのに もう 怒ることでしか繋がれない
(3巻 p15)

でも千紗はかわいそうだなって思った…
お母さんのこと大好きだったのに
連れてってもらえなくて 俺なんかと二人きりにされて
(3巻 p20)

このように、榊が母のことを大好きだったことがはっきりとうかがわれます。
でも、そんな母は、突然理由も言わずに榊のもとを去っていった。それが起こって三日間ほどは、榊はそのことを受け止めることができませんでしたが、それでもなんとか日常に戻ろうとました。
それからしばらくして、出ていった母から呼び出しを受けました。きっと何かわけがあったはず。きっと戻ってきてくれるはず。そんな期待を抱いて母に会いに行った榊ですが、そこで聞かされたのは、別の男を好きになったから家族を捨てたという事実。実の親のW不倫という、多感な高校生にはあまりにも衝撃的な告白。母曰く、「お母さんは千紗のことがきらいで出ていったんじゃない」ということを、顔を見て伝えたかったゆえに設けられた会合ですが、それが榊の救いになるかと言えばそんなことはなく、むしろ彼女の神経を逆撫でし、

出てったらきらいと同じよ
ウンコみたいなキレイごと言ってんな この色キチ
(2巻 p86)

というTOP OF THE BARIZOGONを投げつけられる結果に終わりました。
このTOP OF THE BARIZOGONが榊にとってのポイントオブノーリターンであり、以降、今まで好きだった母親への感情がすべてひっくり返りました。大好きだったから大嫌い。かわいさ余って憎さ百倍の言葉どおりです。
母を嫌う感情の苛烈さは、榊を縛りつける呪いのごとく。
たとえば、「色キチ」な母のことなんか理解したくないから、「千紗も好きな人ができたらわかる」という母の言葉を、「私 一生恋愛しないから」と切って捨て、10年後まで延々と彼女の心をからめとっています(「榊さんて彼氏とかいるんですか?」「いらない」という直達との会話はその証左です)。
また、母への怒りが、かつて彼女を好きだった自分を消し去りたいと思うほどに苛烈だから、「怒ってた自分をいなかったことにし」、このマインドセットが、「怒ってもどうしょもないことばっかり」という心構えにつながりました。
そう、榊が母と別れてからずっと自分に言い聞かせていた心構えであり、もう会うことはないと思っていたからこそとっていた心構えです。

会ってしまったから怒るしかない 動き出す榊の時計

こうして榊は、「怒ってた自分をいなかったことにし」ました。でも、怒りが消えてなくなったわけではありません。だから言うなれば、母を怒った時からずっと、榊はいないまま。母に怒った16歳のその時から、今に至るまで。いるのは、母を怒る前の、子供の榊。
榊父の旧友である教授が榊について言った、「千紗ちゃんはいつまで16歳でいるつもり?」や「千紗ちゃんの止まっていた時計」という言葉は、そんな彼女の状況を指しています。
余談になりますが、榊が当初、直達を事態から遠ざけようとしていたのは、まさに彼女の心が16歳で止まっていたからでしょう。

あの子はいい子だよ …大体
子供には関係ないじゃない
(1巻 p57,58)

子供は知らない方がいいこともあるんじゃないの
(1巻 p85)

「あ でも直達くんから言ってくれるってさ」
「ああ!? コドモに何させてんの…」
(1巻 p183)

奇しくも直達は16歳。かつて榊が母から捨てられたときと同じ歳です。
あのときの自分は、こんな事態に直面して、大きな傷を負った。あのときの自分は、そんな目に遭いたくなかった。誰かに守ってほしかった。
そう榊は思ったから、かつての自分を助けたかった代償行為として、直達を守ろうとして、自分たちの親に関する不快な話から遠ざけたんじゃないかなと考えます。
閑話休題
榊の止まった時計は、母の不倫相手の息子である直達が現れたことで、周囲の歯車ごと軋み始めました。いくつもの歯車が少しずつ動いていったことで、ついに母親に会いに行くことにした榊。直達と二人、母と対面しました。
そしてこの時点で、これまでの榊の心構えの、「会うことはない」という前提が崩れました。崩れたからには、「怒ってた自分をなかったことにし」たままではいられません。「怒ってもどうしょもないことばっかり」なんて言ってられません。言い訳めいた母の言葉をこれ以上聞きたくなくなった直達が退出を促すも、「怒らないのは許してるのと同じよ」と、自分が今まさに怒っていることを表に出すのです。
そんな榊を見て直達は、「怒ることでしか繋がれない」と内心にこぼしました。これは、それまでの状況の裏返しで、すなわち、今までは繋がっていなかったから怒ることもできなかったけど、繋がった、現に対面してしまったからには、怒ることしかできないのです。
榊は今まで、母に怒っていた自分をずっといなかったことにしていましたし、それは、怒りの対象である母ももういないものとしていたことと同義です。でも、今目の前に母がいる。じゃあもう、怒るしかない。母と別れた時に止まった榊の時計が、母と再会したことで再び動き出したのなら、その針は、母に対して怒っているところから動き出すしかないからです。
子供の自分が怒っていた母が目の前にいる。怒る対象が目の前にいる。なのに怒りを放棄するのは「許すこと」にほかならないし、それはできないこと。
そんな心構えの変化が、対面したときの心構えの変化であり、もう会うことはないと思っていたにもかかわらず会ってしまったときの心の在り方なのです。
これが、一見矛盾するような榊の心の在り方に対する、私の解釈です。
ですから、「彼女は怒りたかったのかどうか」という問いには、「もう会うこともないと思っているときには怒るつもりはなかったが、いざ会ったからには怒るしかなかった」という答えになります。

怒ると負けよ 罪・悪・感

さて、そんな彼女の怒りに対するスタンスを確認したうえで、もう少し話を続けましょう。
母との対面で怒りが最高潮に達するその瞬間に、母の義理の娘が家に帰ってきたことで、なし崩しのうちに榊たちは退出せざるを得ませんでした。
近くの海で、感情の高ぶりを抑えられないまま、涙をこぼして榊は言います。

怒るつもりはなかった
私が怒ったら 負けだってわかってたのに…
(3巻 p23)

さて、ここで榊が言う「負け」とは何のことでしょう。不倫して出ていった母との再会に、勝ちも負けもありません。にもかかわらず、榊は「怒ったら負け」と考えていたのです。
これはきっと、三人で対面しているときに直達が言った言葉がカギになります。

帰りましょう
怒って暴れ回ったところで このオバチャンの罪悪感が軽くなるだけじゃないですか
(3巻 p13)

この「オバチャンの罪悪感が軽くなる」ことが、榊にとっての負けになってしまうことだったのだと思うのです。
直達がこれを言ったのは、直前の榊と母のやり取りで、こうやって榊に怒りをぶつけられることを望んでいるかのような言葉を母が吐いたからです。
16歳の榊に言ったように、母は好き好んで榊を捨てたわけではなかった。榊を捨てたことに(そしてあんな、TOP OF THE BARIZOGONをぶつけられるほど娘を怒らせたことに)少なからず以上の後悔をしていた。そしてきっと、榊自身もそれを察していた。だって、母のことが好きだったから。母が自分を好きだったことも知っていたから。だから榊は、怒りをぶつけられれば母は、実の娘からの怒りという罰を受けることで、罪悪感を減じるであろうことも想像できていたと思うのです。
かつて榊は母を好きだった。これは重要な事実なので何度でも言いますが、それ以上に重要な事実は、榊はそんな母に裏切られて、愛情以上の憎悪を抱いたのです。
好きだったけど、それ以上に嫌い。そんな人間の罪悪感を軽くなんてしてやりたくなかった。
だから、「怒ったら負け」だったのです。でも、それ以上に、こうして面と向かってしまったからには、「怒らないのは許してるのと同じ」だったのです。
とても根深く心がこじれています。

過去の肯定 未来の約束 時計の針は今進む

母を許せなかった榊は、母を理解したくないために恋愛をしないと宣言し、母の罪の意識を軽くしたくないために母を怒ろうとせず、そしてなにより、母の罪をなくさないために幸せになろうとしませんでした。16歳の、母に捨てられた不幸な子供でい続けることが、その罪を犯した母に十字架を背負わせ続ける最良の手段だと(おそらくは無意識に)考えたのです。
自分が幸せになることは、母への怒りを忘れること。少なくとも、それにとらわれなくなること。でも、そうしたら母の罪はなくなってしまう。母を怒っていた自分がいなくなってしまう。つまりは、母を好きだった自分が。
母が大好きだったからそれ以上に母を嫌いになったけど、母を嫌いになったけどそれでもまだそれを生むきっかけとなった好きは残ってる。
好きと嫌いは差し引きできるものではありません。90の好きと100の嫌いで、10の嫌いが残るわけではなく、あくまで90の好きと100の嫌い、両方が存在したうえで100の嫌いなのです。
母への怒りを忘れることは、自分が幸せになることは、母を免罪することであり、同時に母を好きだった自分も忘れること。100の嫌いと一緒に90の好きも手放すこと。榊はそう思い込み、幸せになろうとしてきませんでした。
でも、直達が言ってくれました。

榊さんが幸せになることで それが榊さんのお母さんの免罪符になるわけじゃないし
ずっとお母さんのことを怒ってた自分がいなかったことにされたりはしないです
俺がずっとおぼえておくので
榊さんが怒ってたことは ずっと俺がおぼえておくので大丈夫です
(3巻 p61,62)

榊は母への怒りを忘れていい。母を嫌いになったことを忘れていい。それで母を好きだったことはなくならない。なぜなら、自分がおぼえておくから。だから、榊は幸せになっていい。
私には、直達がこう言ったように思えました。
この直達の言葉に、榊は海でのものとはまた違う涙を流します。

ずっと 怒ってた自分をいなかったことにしてたのは私自身だったのに
こんな気持ちになるなんて思ってもみなかった
見つけてもらえてうれしい
(3巻 p64,65)

榊がずっと押し殺して目を逸らしてきた、母を嫌い、母を好きだった気持ち。それを見つけてくれた。それがあっていいと言ってくれた。認めてくれた。そのことが、涙が出るほどうれしかった。
「好きな人ができたらわかる」という母の言葉を榊は雑音と言い、それは一生消えないのかもと自嘲交じりに独白しますが、「雑音とともに生きてやる」と決意します。

右手に雑音 左手に約束
もう どこへもいけないような気分は おしまい
(3巻 p66)

雑音とは、過去に母から投げつけられた言葉。
約束とは、ずっとおぼえているといってくれた直達の未来への誓い。
過去と未来。両方を手にしたことで、母と別れたあの時にずっと縛りつけられ、どこへも行けなかった榊は、新しい一歩を踏み出せるようになったのです。

最高のハッピーエンドだな

こうして、榊の過去の清算はひとまず済み、彼女は子供から抜け出せるようになりました。
そしてさらに一年。お互いの思いの変わっていなかったことを確かめた榊と直達は、「最高の人生にしようぜ」と誓い合い、二人で幸せを作っていくことを決意しました。榊の裡でどこにもいけずに渦巻いていた水は、ここで外に海に向かって流れ始めたのです……。
最高のハッピーエンドだな。
こうして、母への愛情と怒りにとらわれていた榊の心が、未来に向けて流れだすまでを読み解いてみました。
先にも書いたように、説明的なセリフほとんどなしに、ここまで繊細に揺れ動く心理を描写することに、うっとりしてしまいます。
さて次回は、もう一人の主人公である直達について読み解いてみたいと思います。どうぞよしなに。



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*1:現実世界では不自然かもしれないけれど、物語の中で語られる分にはひっかからずに読める、ということです。

『葬送のフリーレン』旅でフリーレンが知るもの、気づくものの話

先日発売された1巻を読んで以来、評価うなぎのぼり中の『葬送のフリーレン』。

レビューは前回の記事で書きましたが(魔王を倒しても世界は続く 自分と仲間を知りなおす旅『葬送のフリーレン』の話 - ポンコツ山田.com)、そこで書ききれなかったことについて。

後日談の始まり

本物語は、主人公フリーレンの仲間であったヒンメルが寿命で亡くなったことから駆動しだします。彼の死に際して、「自分は彼のことを何も知らなかった」とフリーレンが涙を落としたことで、旅の目的である魔法収集に、人間を知ることも加わったのです。
「私はもっと人間を知ろうと思う。」
さて、そんな新たな目的ですが、具体的にはどういうことなのでしょう。生物的特徴を知るのか。平均寿命を知るのか。心的性向を知るのか。美しい面を知るのか。醜い面を知るのか。
いろいろ言えるでしょうが、私はそれは、人の思いはつながっていくことを知る、ということだと思います。ここでいう人とは、種族としての人間ではなく、コミュニケーションの取れる人型の存在、という意味ですが、本作では至るところにそう思わせる描写があるのです。

フリーレンとはどんな女か

そもそも主人公のフリーレンは、作中で非常な長命とされているエルフであり、比喩や言葉の綾でなく既に1000年以上生きていて、まだまだ生き続けることが示唆されていますが、その長命ゆえに、他の種族と時間感覚が大きく違います。10年にもわたる魔王討伐の旅も、彼女にしてみれば「短い間」。半世紀に一度の流星群での再会も、一週間後の約束とさして変わらない。人間スケールでの時間が及ぼす影響に思いが至らないのです。
10年が「短い間」の彼女にとってみれば、ほとんどすべての人との付き合いは、袖すりあう程度のものと言えるでしょう。普通の人間が、たまたますれ違った人や電車で隣り合った人に影響をまず受けないように、彼女にとって出会う人から受ける影響は意識するのが難しい、というより、彼女自身に限らず誰かが誰かに影響を与えるという事実を実感することが難しいのです。フリーレンの、自他の感情の機微への興味のなさは、そういうところから由来すると考えられます。だから、人が人に影響を与える、誰かの思いが別の誰かにつながっていく、ということは、彼女にとってピンとこないものでした。
でも、ヒンメルの死をきっかけに人を知ることを決意したフリーレン。世界中を旅する中で人と出会い、表面上は、20年経っても変わってないように見えますが、実は変わっていたのか、それともハイターの養女であるフェルンと出会ってから変わったのか、彼女の眼には、人の思いがつながっている景色が確かに映るようになりました。

つながる人の思い 仲間たちの間にあるもの

たとえばそのフェルンですが、彼女がハイターに育てられるきっかけとなったのは、「勇者ヒンメルならそうしたから」。もともとは、フリーレンからも「進んで人助けするような質じゃあるまいし」と言われるようなハイター。でも、そんな彼が、今まさに死のうとしているフェルンを見て、こう声を掛けました。

もうずいぶん前になりますか、古くからの友人を亡くしましてね。
私とは違ってひたすらにまっすぐで、困っている人を決して見捨てないような人でした。
(中略)
ある時、ふと気が付いてしまいまして。
私がこのまま死んだら、彼から学んだ勇気や意志や友情や、
大切な思い出までこの世から無くなってしまうのではないかと。
(1巻 p61~63)

フリーレンは「ヒンメルじゃあるまいし」とハイターに軽口をたたきましたが、まさに、彼を思ってハイターはフェルンを助けたのです。
そして助けられたフェルンもまた同じ。若くして一流の魔法使いとなった彼女も、身に着けた魔法について、口では「一人で生きていける力さえあればなんでもよかった」と言っていますが、そこには、自分を救ってくれたハイターが教えてくれた、という嬉しい体験が大きく影響しています。「魔法使いでも何でもいい。一人で生きていく術を身に着けることが」「最大の恩返し」なのだとしても、 それが魔法使いであった理由は、ハイターとの思い出なのです。
また、後の旅でアイゼンがフリーレンを彼女の師匠フランメが残したものへと導こうとしたのも、彼が生前のハイターとやり取りをし、フリーレンの手助けをしたいと相談していたからです。
さらに、フランメの残した遺跡で待っていたものは、1000年後のフリーレンが必要とするだろうとフランメが案じ、残していた研究です。
このように、彼女があらためて仲間とかかわる中で、人の思いが時間や場所を越えて通じているところを、彼女は目の当たりにしているのです。

つながる人の思い 土地に残されていたもの

また、直接仲間が見せたもの以外にも、彼女が旅の途中でたまたま立ち寄った場所で、めぐりめぐって仲間の思いに触れることもあります。
たとえば、かつて強敵クヴァールを封印した土地で。そろそろクヴァールの封印が解ける頃と立ち寄った彼女は、80年の封印の間に格段に向上した現代の魔法でもって、かつての強敵を難なく倒しましたが、そこで、生前のヒンメルが老体をおして毎年のように村へ立ち寄っていたことを知りました。そして「封印が解けるころにはやってくる」と、フリーレンを信じる言葉を残していたことも。村人がヒンメルを信じていたように、ヒンメルがフリーレンを信じていたことも。
たとえば、海からの日の出を見る新年祭を執り行う村で。ヒンメルらと旅をしていたときにも新年祭の時期に立ち寄った村ですが、惰眠を愛するフリーレンは当然のように夜明けに起きていられず、ご来光を見ることはしませんでした。自分が行っても楽しめないと言うフリーレンに、ヒンメルは「いいや楽しめるね」「君はそういう奴だからだ」と言いました。それから80年近く。あのときのヒンメルの真意を確かめようと、フェルン頼りで無理やり起き、なんとかかんとかフリーレンは日の出の海岸でご来光を拝みました。そこで目にしたのは、悪い意味で予想通りの「確かに綺麗だけど早起きしてまで見るものじゃない」くらいのもの。肩透かしを食い、二度寝をしようと宿に帰りかけますが、連れのフェルンはご来光に目を奪われています。そして、その顔を見て初めてフリーレンも、笑みを浮かべるのでした。「フェルンが笑っていたから」「少し楽しそう」だったのです。ヒンメルの真意はこれであり、フリーレンは、日の出そのものが楽しくはなくても、連れが楽しんでいるところを見れば楽しくなれる、そういう人間(エルフ)だということだったのです。彼女は80年越しに、それに気づいたのでした。

つながる人の思い もうつながっていたもの

で、そのフリーレン自身に、仲間たちからつながっている思いがあったのか。実はこれが、すでにあったのです。
たとえば、死が目前に迫ったハイターに対し、フェルンのためにも、フェルンにきちんと別れを告げ、たくさんの思い出を作るよう諭しました。これは、ハイターが勇者ヒンメルならそうしたようにとフェルンを救ったように、フリーレンも彼のことを思い出したからです。
たとえば、ヒンメルの銅像の周りに植えようとした蒼月草。これはヒンメルの故郷の花ですが、かつての旅の途中で彼は、この花を「いつか見せてあげたい」とフリーレンに言っていました。それを思い出したから彼女は、彼のかつての願いをかなえてあげたいと、もう絶滅して久しいと言われていた蒼月草を探したのです。
そしてなにより、彼女が趣味として世界中を回っている魔法収集。それが趣味になる前は、「もっと無気力にだらだらと生きていた」のですが、「私の集めた魔法を褒めてくれた馬鹿がいた」、それだけの理由で彼女は、世界中を回るようになりました。その馬鹿とはもちろんヒンメル。彼の言葉が、思いがあったから、フリーレンには趣味という人生の潤いができたのです。
前出の新年祭の件でも、フリーレンは、仲間が楽しんでいるところを見ると楽しくなる質だと述べましたが、この件でも、ヒンメルらが彼女の魔法に楽しそうな様子を見せたから、彼女自身も楽しくなったのでしょう。それこそ、世界中を旅する原動力となるほどに。


このように、フリーレンの旅の目的である「人の思いはつながっていくことを知ること」ですが、それは外にしかないものでなく、幸せの青い鳥よろしく、すでに彼女自身にもつながっているものなのです。ですから、言ってみれば、旅の目的は「知ること」でもあり、同時に「気づくこと」でもあります。ヒンメルのことを何も知らないと涙した彼女ですが、何も知らないわけではありません。何を知っているか気づいていないだけなのです。
1巻の終りで、かつての旅で倒した魔王の本拠地へ行くことになったフリーレンたち。彼女がそこで知ることは、気づくことはいったい何なのでしょう。
すげえ楽しみ。



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魔王を倒しても世界は続く 自分と仲間を知りなおす旅『葬送のフリーレン』の話

勇者ヒンメルらは10年の旅の末に魔王を倒し、世界に平和がもたらされた。祝祭の日の夜、パーティー4人で50年に一度の流星群を見て、魔法使いで長命のエルフ・フリーレンは、また皆で50年後に見ようとこともなげに言う。そして50年。世界中を放浪していたフリーレンが戻ってくれば、順当に年を重ねたかつての仲間たちがいた。50年ぶりの流星を見て、ヒンメルは天寿をまっとうし、その葬儀でフリーレンは涙する。ヒンメルが死んだことにではなく、死んだヒンメルのことを何も知らなかったことに。そして彼女はまた旅に出る。もっと人間を知るために……

ということで、原作山田鐘人先生、作画アベツカサ先生の『葬送のフリーレン』のレビューです。
存在を全く知らなかった作品なのですが、単行本発売に合わせて作画のアベ先生がTwitterでアップした1話2話をたまたま目にし、「これはすごい作品だ」と勇んで単行本を購入、1巻を通読。期待をいささかも裏切らない、素晴らしい作品でした。
物語は、世界が救われたところから始まります。魔王討伐から帰る勇者一行の凱旋。人間の勇者ヒンメルと僧侶ハイター、ドワーフで戦士のアイゼン、そしてエルフで魔法使いのフリーレン。魔王が倒され、世界にもたらされた平和。ハッピーエンドの後日談が、この作品のスタートです。
世界が平和になっても、いや、平和になったからこそ、人々は日常に戻ります。それは、魔王を倒した勇者たちも例外ではありません。功労として褒賞や位階をもらいつつ、それを踏まえて日々を生きていきます。仲間が王都や郷里に居を構える中、フリーレンは、世界中を旅して趣味の魔法収集をすることにしました。50年後に再び訪れる半世紀流星をまた皆で見ようと約束して。
50年。それは人間にしてみれば遥か彼方の話です。作中で明言はされていませんが、魔王討伐時におそらく20代のどこかであろうヒンメルとハイターにとっては、今までの半生をもう二回繰り返して追いつくかどうかという年月。自分が生きているかどうかも定かではありません。しかし、長命なエルフ特有の考え方なのか、まるで一週間後の約束をするようにフリーレンは、50年後にまた会おうと言うのです。
半世紀が過ぎ、約束通り戻ってくれば、そこにいたのはすっかり老いぼれたヒンメル。背は曲がり、頭は禿げ上がり、杖にすがって立っているかつての勇者です。同じく人間のハイターも順当に年を取り、もともとひげ面だったドワーフのアイゼンは、ぱっと見ではわからぬものの、マントの下の腕の筋肉は衰え細くなっています。変わらぬのはフリーレンばかりなり。
かつて王城での祝祭の日に見た流星群、もっときれいな場所で見せてあげると50年前に約束したフリーレンは、仲間たちの加齢を考えていませんでした。流星見物の穴場まで一週間の行程、かつての勇者ご一行であれば鼻歌交じりのピクニックかもしれませんが、その身に老いを刻んだ彼らであれば、それなりに覚悟と準備のいる旅だったでしょう。変わらぬのはフリーレンばかりなり。
道中ではかつての旅路を偲び、人生を振り返るように思いをはせる仲間たち。フリーレンの言葉通りの、満天の流星群を万感の思いで仰ぎ見たヒンメルは、今生の思い出と焼き付けたか、王都に帰りしばらくして、不帰の旅に出ました。
仲間のみならず、多くの民衆が勇者の死を惜しむ中、フリーレンもまた、涙を流します。けれどその涙は、別れを悲しむ涙ではありませんでした。

…だって私、この人の事何も知らないし…
たった10年 一緒に旅しただけだし…
…人間の寿命は短いってわかっていたのに…
…なんでもっと知ろうと思わなかったんだろう…
(1巻 p33,34)

旅を共にした仲間なのに、彼のことを全然知らない。その事実こそが、彼女に涙を流させたのです。
もっと知りたかった。もっと知るべきだった。
ヒンメルの葬儀を終え、彼女はまた旅に出ます。魔法収集と、今度は、人間を知ることも目的として。


とまあ、これが第1話の流れです。長命ゆえに時間の感覚が人間と異なるエルフ。旅を終えた彼女が、仲間と死に別れることで初めて気づいた、他人に対する己の無関心さ。それを悔いた彼女が、人を、なかんずくかつての仲間を知る(知りなおす)旅なのですが、同時に、彼女が自分自身のことを知る旅でもあります。
旅の伴には、ハイターがかつて助けた孤児の少女・フェルン。彼女は普通の人間です。つまり、普通に年を取る人間です。本作では、フリーレンの時間間隔に合わせてか、一話の後に平気で一年単位の時間が進みますが、それにつれて成長期のフェルンもぐんぐん成長していきます。そして変わらぬフリーレン。もうこれだけで、またフリーレンは置いていかれることがわかってしまうんですよね。かつての仲間たちと同じように、そう遠くない未来(フリーレン主観)においてフェルンからも。
もとより定命の定め、出会いの裏の別れは必定ですが、フリーレンはその形が常に一方的なのです。
そんな儚さを隠さず、さりとて前面に押し出さず、穏やかに、暖かに、爽やかに、フリーレンの旅は描かれていくのです。それはまさに、彼女がヒンメルたちと救った世界だからこそであり、ハッピーエンドの後日談だからこそできる旅なのですが、この悠然とした日々で、少しずつ蕾が開いていくように、彼女は人と自分を知っていきます。正確には、知っていることに気づいていきます。
ヒンメルの銅像の周りに彩を添えようと、かつての彼の言葉を思い出して、絶滅していたはずの彼の故郷の花で埋め尽くし。
封印していた強敵をあらためて討伐したことで、かつてのヒンメルの言葉に触れ。
魔王討伐の旅の途中で、仲間たちの中で自分だけが見なかったとある街でのご来光を、あの時あれだけ彼が勧めていたのだからと見てみようと思い。
フェルンとの旅で、彼女は仲間たちとの旅路を思い出し、同時に、そのとき自分の中に確かに刻まれていた記憶を自覚するのです。
この描きっぷりが実に穏やかで、フェルンやほかの人間との控えめな応答の中で大げさでなく見せてくれるのが、とても心地よいのです。
そして、その心地よさを壊さないままにおかしみをいれてくる描写がまた秀逸で、この世界同様に、穏やかで、暖かくて、爽やかなんです。ギャグと呼ぶには破調でなく、コミカルと呼ぶには誇張が過ぎず、諧謔と呼ぶには堅苦しくなく、ウィットやエスプリと呼ぶには理知が勝ちはしない、そんなおかしみを表せる言葉は、日本語にはまだないんじゃないでしょうか。


颯爽と登場した1巻でこのハイクオリティ。2巻以降も俄然期待。
1,2話は、アベ先生のTwitterで公開されています。


まあちょっと読んでみておくんなましよ。


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無能の日々とそれでもおいしいご飯 生と死を思う孤独のグルメ 『ご飯は私を裏切らない』の話

29歳、中卒、恋人いない歴イコール年齢。週七でバイトをして生計を立て、なんとかその日を生きている。バイトで失敗をしてはクビをおそれ、家に帰っては愚痴をこぼす相手もなく、ただ口へ運ぶ食事にわずかな幸福を感じる。どこにも通じている気のしない人生で、ただそれだけが、文字通り日々の糧……

ということで、heisoku先生の『ご飯は私を裏切らない』のレビューです。
ネットで連載が始まって即座に、静かに、だけど強烈な波紋を起こしていた本作。内容は冒頭のとおりで、主人公の「29歳 中卒 恋人いない歴イコール年齢」の女性が、バイトに行っては労働の辛さに喘ぎ、自分の無能さに嘆き、未来の暗さに呻き、ただご飯を食べている時だけはそこに幸せを感じている物語。
誰が呼んだかプロレタリアグルメ漫画
名もない彼女が毎日毎分毎秒感じている息苦しさと、それでもご飯を食べているときには幸せを感じずにはいられない人間の根源的本能。笑っていいんだか一緒になって苦しんでいいんだかわからない、何とも奇妙で奇特な味わいの作品です。
物語は主人公の独白で語られていきますが、それがとにかく後ろ向き。

29歳 中卒 恋人いない歴イコール年齢
友人なし バイト以外の職歴なし 頼れる人は誰もなし
改めて自分を見つめなおすとやばい 頭痛がしてくる 何もない人生 これからどうしたらいいのか?
(p6)

「誰にでも出来る簡単な仕事」と書いてある仕事ほどクビになりやすいのなんでだろう
簡単とされている仕事ほどある種ハードル高い
いや本当に
(p7)

働いて収入を得てご飯を食べて 身体的な生存維持はできるけど
働いて役に立ってる実感は全くなく むしろ損を与えてる そんな行動を一生続けていけるか
いつか耐え切れなくて 結局 心が先に死んじゃうのかな
(p47)

自分で自分のことをどうにかするのは…
人のために何かをするよりもっと難しく感じる
辛い…
(p68)

こんなことを延々と。その文字の多さはHUNTER×HUNTERともいい勝負なりそうなくらい。漫画というよりいっそ、豊富にイラストがあるエッセイと表現してもいいくらいです。
エッセイというのはあながち間違いでなく、この主人公はまさに自由な随想として思考を広げていきます。ただし、上記の引用の通り、かなり後ろ向きに。
とにかく彼女は自己評価が低いのです。「29歳 中卒 恋人いない歴イコール年齢」という自己規定からスタートし、それに絡めとられているため、その状況から抜け出すイメージがわかない。通信制の短大に通うことを一考するシーンもあるのですが、どうせすぐに挫折すると、あっという間にそのアイデアを放り投げます。
ろくな過去がない。そこから地続きのろくでもない今がある。なら、その先の未来がろくでもなくないわけがない。そんな圧倒的論理帰結。
「今日より悪い未来が絶対待っている!!」は、あまりにもネガティブに強い彼女の確信です。
バイトとはいえ日々の糧は得られているため、差し迫った危機はありませんが、展望のない未来に漠然とした不安が常につきまといます。漠然とした不安は、希死念慮にも似た思考を導き、彼女は、どこで生まれどこで死ぬかわからないアメリカギンヤンマに憧れ、自然界の食物連鎖に組み込まれていない現代の人間に落胆し、地球上のほとんどの生命にとってその死は困窮の中で終わることに安堵する。
彼女は死にたいわけじゃない。でも、なにかしたいわけじゃない。何かのために生きたいわけじゃない。

誰かに生きろと言われているわけでもないし
生きていることに 特に意味はないけどね
(p22)

生きているから生きている。そんな惰性の暮らし。
日々目減りしていく未来から目をそらし、足元の今と背後の過去を見ながら、あらぬ方向へさまよう思考にふける。
でも、そんな彼女が少しだけ未来を考えられるのが、ご飯のこと。ご飯のことを考えれば、少しだけ明るく未来のことを考えられる。具体的には、明日はお米を研いで炊飯器のスイッチを入れておこうとか。
ご飯はおいしい。おいしいから、気分は明るくなる。

いくらとバターだけでも十分に美味
アレンジはいくらでも可能
いくらだけに
(p10)

ローストビーフいくら丼
ついいくら乗ってるやつにしたけど ローストビーフと合うの…?
温泉卵も乗ってるけど… 温泉卵といくらは混ぜて旨いの…?

普通に旨い想像していたけど 予想よりもっと旨い
やはり肉は期待を裏切らない
(p30)

良い
やっぱりチーズは最強
(p62)

とはいえ、明るくなったところで、すぐに考えだすのは生命の無常さ。たとえば大好物のいくらを前にしても、

いくらを食べていると 生き物とはこうやって小さくまれて小さく死んでいくものなんだと思える…
この世で何も為さなくても別にいいんじゃないかな…
そんな気持ちになる…
(中略)
いくらが私に囁いてくれる… 生き物の実態はむしろ死に物じゃないかなと…
殆どの生き物にとって死ぬほうがメインストリームじゃん…
(p11、12)

どこまでいってもこの彼女、生の辛さを見つめるか、あるいは目をそらすか、もしくは達観するか。いずれにしろ生の辛さから離れることはできないのです。
彼女に救いがあるのかないのか。そもそも救いなんてあるのか。救いとは何なのか。作中で彼女自身が、10億円があれば絶望なんかしないと、即物的でいてどうしようもないほどに正しい救いを求めていますが、それは夢物語でしかないと彼女自身がよく知っています。
今日より悪い未来が絶対待っている。そうわかっているのに、なにをすればいいのかわからず、そもそも本当に何かしたほうがいいのかと諦念を抱いてしまう。生きているから生きている。
それでも、ご飯は私を裏切らない。ご飯をおいしいと思った私の感情だけは、確かに私が得た何にも裏切られない真実。それが救いなのかはわからないけど。
web-ace.jp
現在3話まで試し読みできます。
読んでて前向きになったり、救われたり、そういうお話ではないと思います。少なくとも、私にとってはそうではありませんでした。ネガティブな人間のネガティブな思考が横滑りし続けていく様を特等席で目の当たりにしているような、ある種の悪趣味さすら感じるような作品です。ただ、その悪趣味さはほかの作品になかなか見られぬ魅力であり、一読する価値はあるでしょう。



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