『水は海に向かって流れる』「いい子」の直達の怒りと大人への成長の話

前回の記事の最後で予告したくせに少し間が空いてしまいましたが、今回も『水は海に向かって流れる』の話です。前回一か月近くも前じゃん。
ともかく、予告どおりに今回は直達のお話。榊との出会いを通じて、子供のままでいようとする呪いを解いた直達の話です。

「いい子」の直達

高校進学を機に始めたルームシェア先で、自分の父がW不倫をしていた過去を知り、その不倫相手の娘と一つ屋根の下で暮らす羽目になった直達。思春期の少年にはあまりにも刺激の強い事態ですが、直達は、同じ家でルームシェアをしている母方の叔父のニゲミチを慮り、実家の両親を慮り、なにより不倫相手の娘である榊を慮り、特に騒ぎ立てることをせずそのまま暮らし続けることをひとまず選びました。

……この人は 俺が知ることを 望んじゃいないのか……
だったらもう深追いするのやめよう…
(1巻 p85)

このように、直達は何か問題が持ち上がったときに、波風を立てないことを選ぶ人間でした。別の見方をすればそれは、「わがままを言わない」こと。あるいは「聞き分けがいい」こと。それはつまり、「いい子」でいること。作中でいろいろな表現がされていますが、これが当初の彼の基本スタンスです。
それは一見大人びたようにも見えるものですが、実のところ、彼が幼少期の頃にかけられた(あるいは自らにかけた)呪いの表れなのです。
榊が直達の父の不倫相手の娘だとどちらがニゲミチに伝えるかということについて、直達と榊が問答をしているとき、直達の脳裏にはこんな言葉がよぎりました。

わがままを言ったら捨てられる…
捨てられる って 誰に?
(1巻 p189)

突如浮かんだ「捨てられる」という言葉。その不意打ちに自分でも驚いていると、連鎖的にあるシーンが思い出されました。それは、直達の父がまだ5歳の直達の頭をそっと撫で、困ったように笑いかけるところ。このシーンがいつのことなのか、おそらくは直達父が不倫で家を出る直前でしょう。まさにそのときの直達が何を考えていたかは描かれていませんが、15歳の直達の脳裏によぎったそれに結びついていることは想像に難くありません。
幼い直達が、自分がわがままを言ったから父に捨てられたと考えたのか、それともわがままを言わなければ父が帰ってくると考えたのか、それはわかりませんが、いずれにせよ、父の出奔は直達に、わがままを言ってはいけないという強い呪縛をもたらしたのです。
わがままを言わない子とは、端的に言えば「いい子」。それが直達です。

「いい子」からの脱却

そんな直達が、たとえわがままを言うことになろうとも、いい子じゃなくなろうとも、他人に向かって一歩踏み出したのは、榊に向かってでした。

〈わがまますら言えない子供のままじゃ〉
俺は
そーゆうのやです!
〈目の前のこの人が背負うモノを半分持つことも出来ない〉
(1巻 p190)

そもそも、直達の榊へのファーストインプレッションは、ポトラッチ丼にたぶらかされて禁断の恋に落ちかけるというものでした。もっともそれが「禁断」であったのは、ニゲミチの恋人だと勘違いしていたからですが、その印象が消える前に、榊が自分の父の不倫相手の娘だという事実を知り、ときめきを塗りつぶすような重たい何か、榊や泉谷妹言うところの罪悪感を背負う羽目になりました。
自分が直達の父親の不倫相手の娘だということを榊は直達に知ってほしくなく、直達は、その事実と知ってほしくないという榊の思い、両方を知っている。前回のブログで書いたように、榊は直達を、かつての自分がそうしてほしかったかのように、彼を庇護すべき子供として扱おうとするのですが、そんな榊の思惑は、いい子であろうとする直達と合致するものでした。
だから彼は、「深追いするのやめよう」としたし、言いたいことがあったも「言ってどーするんだ… どーなることでもないのに」と諦めたりしていました。
でも、直達はそれをやめようとした。わがままを言おうとした。いい子じゃなくなろうとした。子供じゃなくなろうとした。
その具体的な行動として、ニゲミチに、自分と榊の関係性を告白することで、こんがらがってる事態をどうにかしようと思ったのですが、そんな思い付きでなにがどうなるわけもなく、結局自分の無知と無力さを思い知るだけでした。

…後悔してるの?
いい子でいる方を選んでたら こんな無力さを味わわずに済んだのにって思ってる?
(2巻 p19,20)

けれど、たとえ自分自身に恥じ入る羽目になろうとも、直達が子供でいないことを選び取ろうとしたことは大きな一歩です。
そのあとも直達は、恋人を「いらない」と言った榊の事情に踏み込もうと、当時のことを教授から聞こうとしたり、榊本人から聞いてみたり、ついには自分も恋愛しないと謎の宣言をしたり。
宣言を聞いて思わず激高した榊は、「直達くんには関係ない」と突き放す態度をとりました。それまでの直達ならば、そう言われればそれ以上動かなかったはずです(それまでの直達なら、そもそもそんなこと言わなかったでしょうが)。ですが、彼は頑固に宣言を取り消さなかった。「自分にできることをしようと思って」と、榊にかかわることをやめなかった。
この、他人へ関わろうとする態度こそが、子供の殻を破ろうとしている直達の大きな変化なのだと思います。望まぬ他人への干渉は、相手の不興を容易に買うものであり、それはわがままを言わないいい子には到底できないことです。

怒れない直達の「怒り」

そして、殻を破るもう一つの象徴は、怒りです。
まだ榊へ一歩踏み出す前に直達は、こんな風に悩んでいました。

今さら母さんが怒ってるワケないし
榊さんは俺がこの件に関わることを望んでないし
俺がグレればおじさんが何回か死ぬし
手も足も口も出せない… 俺はこのままヘラヘラと知らないふりして生きていくのか?
怒ったりできればいいのに!!
(1巻 p103)

そう。直達は怒ることができませんでした。それがもっと小さいころからそうなのかはわかりませんが、きっとそのきっかけは、幼少期の父との別れ。つまり、いい子でいなきゃいけない呪い。いい子はわがままを言わない。いい子は怒らない。だっていい子は手がかからないから。手がかからなければ、きっと嫌われないから。
ですが、怒らないというのは端的に不自然なことです。怒るべきときに怒らないのはとても不自然。
わがままを言わないことで、怒らないことで子供のままでいた直達は、自分でも気づかぬ間にその不自然さを拗らせていました。

それ言われて俺
怒れなかった
誰に対しても
そのおばちゃんになら 怒れるかもしれない 怒っていいと思う
〈あー 俺 ずっと怒りたかったんだな…〉
(2巻 p145,146)

思わず涙するほどに、彼の中で起これないストレスは大きなものになっていました。
引用中の「それ」とは、榊の「何もなかったことにして今まで通り暮らしたい」という発言ですが、その発言は、ニゲミチと三人で中華を食べた夜にも榊が言った言葉でした。
直達の父が家にやってきた一件でぎすぎすしていた榊とニゲミチの関係を修復すべく行われた会食ですが、「何もなかったことにして今まで通り暮らしたい」という榊の発言は、勇気を出して彼女に関わろうとした直達にとって明確な拒絶でした。子供であることをやめようとした矢先に言われた「何もなかったことにして」。榊にそのつもりはないでしょうが、まるで自分の決心を踏みにじるかのような発言に、本来なら直達は怒ってしかるべきでした。でも、直達は怒らなかった。怒れなかった。だって彼は、怒らないことを選んでいたから。

すいませ…
怒らないのを選んだのは自分なのに
(2巻 p147)

上で書いたように、直達にとって、怒らないことは子供(いい子)でいることと同義です。だから、大人になるためにも、彼は怒りたかったのです。

大人になる直達

でも、結局彼は、榊の母に会っても怒ることはできませんでした。

あの時… あのオバチャンの物語に付き合ってやる義理はないと思っちゃって
怒るのが面倒になったんです
いつもそうやって自分の感情からも相手の感情からも逃げて…
他人のためにエネルギーを使ってやれない
(3巻 p25)

そんな自分を「冷たい人間」と直達は評します。
怒れなかった彼は、子供の呪いを解くことに失敗したのでしょうか。
いえ、彼はすでに、怒りたい気持ちを榊に吐露した夜に、こんなことを思っていました。

何にもどうにもならないとわかっていても
知ってほしかった 怒りたかったこと
誰かが知っていてくれるだけできっと 生きていけるんだろう
(2巻 p147,149)

奇しくもこの感情は、母に会いに行った夜に榊が思ったこととリンクするものですが、怒りたい自分を知ってくれた=大人になりたい自分を知ってくれたことは、自分が生きていてもいいと思えるほどに心へ響くものだったようです。
それを榊に知ってもらえたから直達は、彼女が怒っていることは自分がずっとおぼえていると、約束したのでしょう。たとえ怒ることができなくても、未来に向けて他人のことをずっとおぼえていると誓えるほどに、他人に関わろうと思える。それくらい、直達は大人になれました。
そして、ついには榊への恋心を自覚し、彼女に告白。それから一年経ってもお互い頭が冷えていなかったので、ついに二人は恋人関係になるのですが、その直前の会話が、直達の変化を端的に表していていいなと思いました。

「…私は 直達くんが誰かと普通に幸せになってくれるなら それもいいと思ってるよ」
「……そうやって さもイイコトを言ってやってる体で俺をつきはなすの やめてほしいなって思ってますよ 俺は」
(3巻 p152)

榊が自分を突き放そうとしているのを理解していても、それにのらない、つまり聞き分けよくなく相手の言葉を拒む直達。出会った当初は、「子供は知らない方がいいんじゃないの」と彼女に言われれば、おとなしく引き下がっていたのに。これが成長……

以上、直達が子供から大人へと成長する姿を、「いい子」と「怒り」をキーワードに読み返してみました。
特に「怒り」については、あらためて榊のものと比較しても面白そうですがまあまあまあまあそれはそれとして。
とにかく最高に最高な最の高の作品だったので、田島列島先生にはまた新作を期待している所存でございます。



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