Q.年に一度、毎年一月にある楽しみってなーんだ?
A.『ハクメイとミコチ』新刊の発売。
相も変わらずいろいろなキャラクターが賑やかに過ごし、以前登場したキャラクターの再登場も楽しいところですが、14巻を読みおわってまず感じたのは、「この巻は『好き』を描いた巻だな」というものでした。
「好き」な姉のシナトを思って奮闘するミマリ。
「好き」な刃物を語るハルシナ。
タブワカといろんなこと話すのが「好き」なハクメイ。
「好き」な種帽子のためにプライドをかなぐり捨てるヨロ。
「好き」な旅に興じるロカとウラガ。
自分の「好き」な服の制作者に出会うミコチ。
自分の「好き」な散髪でミコチを慰めようとするジャダ。
様々なキャラクターが抱く「好き」が、どの話にも描かれていました。
でも、よくよく考えてみると、『ハクメイとミコチ」の話には、ほとんどすべてと言っていいほどに「好き」が描かれているんですよ。作品の世界観自体がそうだとも言えるのですが、この作品の登場人物達は享楽的というか好き勝手というか自分に素直というか、彼や彼女の「好き」に忠実に生きていて、それが行動原理になって駆動している物語ばかりです。
それでもなおこの巻が「好き」の巻だと感じたのはきっと、特にこの巻では、「好き」のポジティブだけではない部分が多く描かれていたからであるように思えます。
「好き」という感情はポジティブなものです。それは間違いありません。その対象を慈しんだり、大事にしたり、強く追い求めたりと、「好き」と思うことで、その対象も自分自身も善い状態になるはずです。
ですが善い状態となるのは、その「好き」が肯定されているときの話です。「好き」が肯定されない、認められない、報われない、届かない。そんなとき、その「好き」の気持ちは、大きければ大きいほど、自分を苛むトゲになります。
たとえば109話のミマリ。
彼女は、普段は姉のシナトが店長として切り盛りしているお店を、体調を崩して休んでいるシナトの顔に泥を塗らないよう、ミコチを助っ人に呼んでなんとかお店を差配しようとしました。細かく動き回り、お客にもミコチにも気を配り、はたから見れば十分すぎるほどに活躍したミマリですが、彼女が理想とする大好きな姉はむしろ幻想に近く、いくら褒められようとも彼女を満足させるものにはなりません。姉が好きすぎるあまりにミマリの自己評価は低くなり、彼女の認識を大きく歪めています。
もしミマリが姉をさほど好きでなければ、店の差配ももっと落ち着いてできたし、自分自身の活躍についてもっと適切に評価できたでしょう。
たとえば112、113話のヨロ。
種帽子職人であることに誇りをもち、弟子として日々研鑽を積む彼女でしたが、ある日、師匠のヤンプが出張に出ているさなかに飛び込みの種帽子作成の依頼が舞い込んで、己の力量と種帽子職人としての矜持を秤にかけた結果、覚悟を決めてその依頼を請けました。無論一人でできるはずもなく、ミコチやトレモらの、職人ではない者たちの助力を得ることに忸怩たる思いがありながら、仕事を請けた以上はお客のためにならない誇りは脇によけ、悔しさと絶望を噛みしめながら死に物狂いで完成に漕ぎつけました。
もし彼女が種帽子をさほど好きではなければ、ミコチら素人に助力を仰ぐことに迷いはなく、あるいはそもそも弟子の身で仕事を請けはしなかったでしょう。種帽子がすごく好きだからこそ、師匠不在で作ることの強い抵抗と、帽子をほしがるお客への気持ちの間で強く葛藤したのです。
そしてなにより14巻の「好き」の白眉は、自分の大大大好きな服であるナイトスネイルの作り手・ネフルに出会ったミコチです。
町中で出会った奇矯な女性が、実は自分の敬愛するナイトスネイルの作者だと知ったミコチは、ナイトスネイルに対する思いの丈を作者にぶつけたくて仕方がなく、どんな環境で作者が服を作っているか興味が湧いて仕方がなく、創作の源泉を知りたくて仕方がないのですが、好きが強すぎる故にそれを尋ねることに気後れしてしまい(ところで、ネフルの前で何度も言いあぐねているミコチを見るハクメイの表情、すごくいいですよね……)、いざ彼女の源泉の深淵の一端に触れると、自分とはかけ離れたところにあるその精神性にひどく打ちのめされてしまい、好きすぎるが故に、憧れすぎるが故に、目標を見失ってしまいました。
このように、14巻で描かれる「好き」にはポジティブなものだけでなく、その裏側のネガティブな部分、いわば「好き」の影の部分が随所でクローズアップされており、その影があることで、光の部分と相まって「好き」が際立って感じられたように思うのです。
思えば、ミコチの服そしてナイトスネイルに関する「好き」の気持ちの強さ、重さは以前から触れられていました。
たとえば11巻84、85話で、コンジュのリサイタル衣装を依頼されたミコチは、衣食住にも差し障りが出るほどに悩み、やりたいこととできることに引き裂かれ続けました。
そんなミコチを見てコンジュが言ったのが以下の台詞です。
好きだからこそですわ 辛いのは
好きだから 足りなく感じて
なんとかしたくなって
それで苦しいんですわよ
(11巻 66p)
ミコチの好きなものは他にも料理がありますが、そちらに関して、ミコチがこのように思い悩む様子はありません。言ってみればあちらは、何かを思い求めない「好き」、具体的に目指すもののない「好き」、ただ楽しいだけの「好き」。善くも悪くも、重さのない「好き」。軽々しいから塞ぎ込んだときの気分転換にもなるし、失敗してもくよくよはしないし、自分よりすごいものを見ても「へえすごいなあ」で済む。
でも、重い「好き」はそうはいかない。四六時中心の片隅に居座り、アイデアを思いついたら心に留めておかずにはいられないし、いいアイデアを思いついた気にもなってもそれを形にしてみれば理想との乖離に膝をつく。否定されたくないからおいそれと表には出せないし、もし否定された日には恥も外聞もないほど落ち込む。常にそこには不足があり、その不足に、埋まらない穴に苦しくなってしまう。
重いせいで、一度弾みがついたら自分の心も生活も大きく振り回してしまう、そんな「好き」。
軽い「好き」と、重い「好き」。
この文章を書いているときに思いついたものですが、存外、考え方の整理にはよい概念のようです。
好きは呪いにさも似たり。
嫌いも呪いにさも似たり。
畢竟、執着は呪いにさも似たり。
好きも嫌いも、重い感情は執着となり、当人の人生を縛ります。それは規律でもあり、軛でもあり、ミコチだけでなく、ミマリやヨロを見てもそれは言えるでしょう。
「好き」の光の面と影の面と、両方を見せてくれる14巻でした。
やっぱり『ハクメイとミコチ』はおもしれえなあ……
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