先日『THE FIRST SLAM DUNK』の記事(時間軸とシームレス 時間を操られた私たちが呑み込まれる『THE FIRST SLAM DUNK』の世界の話 - ポンコツ山田.com)を書いたときに、アニメのカットの時間の流れ方について色々考えましたが、それを漫画のコマと比してみたらどうだろうとふと思いました。
漫画のコマの時間とコマとコマの間の時間
現代の漫画は基本的に、一つのコマに絵を描き、それを複数並べることで物語(時間)の流れを生み出します。
たとえばこの画像。
(逃げ上手の若君 1巻 p13)
画像内の3枚のコマにはそれぞれ逃げ回る北条時行(の残像)が描かれているところ、コマ一つだけでは、ただ誰かから逃げてる絵でしかないものが、右上→右下→左と読み進めることで、時行が三人の人間から逃げ回っていることが読み取れます。三人から逃げ「回って」いる時間の流れを、読み手は無意識の裡に了解しているのです。
コマで経過した時間の合計と、作中で実際に経過した時間のズレ
各コマの中では、そのコマの中で逃げている分の作中時間しか流れていません。1コマ目では清子の抱擁から「あ…」と言いながらするっとすり抜けるだけの時間。2コマ目では「明日にしましょうっ」と言いながら二人の武芸指南役の間をするするっと逃れるだけの時間。3コマ目は「今日は… 体調が悪いのでっ…」と言い訳をしながらなおも指南役の手をするるっと避けるだけの時間。
たとえばここで、1コマ目で流れた時間を1秒、2コマ目を2秒、3コマ目を3秒と仮定します。ならばこの3コマで流れた時間が6秒、すなわち3コマで流れた時間の単純な合計かというと、そうではないでしょう。1コマ目で清子の手からすり抜けた時行は、コマから消えた動きそのままに2コマ目の指南役二人の間を縫ったわけではないでしょうし、2コマ目で二人の身体から時行が離れている以上、3コマ目で彼らの手が迫るまでにいくばくかの時間が経過しているはずです。
このように、漫画の作中全体での時間の経過は、各コマ内の時間の経過とは一致しません。コマの間には、前後の文脈から不自然でない程度の時間のブランクが必ず存在しているのです*1。このブランクというのも単純に間が空いている(=時間が跳んでいる)というだけでなく、同じ瞬間に発生した出来事を複数のコマで描くなど(あるプレーに驚いている瞬間のキャラクターが複数のコマで描かれたりとか)、コマ同士で時間が重複することもあります。
それでも、そんなことは無意識の裡に無視して私たちは漫画を読んでいます。時間が跳んだり、重なったりしても、気にせず読めるのです(というより、気にすることのないように作り手は描いているのでしょう。それがきっと漫画の技術の一つ)。
いえ、無視する、というよりは補完でしょうか。その隙間に何があったか、詳細に、具体的にまでは考えずとも、その流れを阻害しない行動(上の例でいえば、逃げ続ける時行や追いかける他のキャラクター)をコマの隙間へ無意識のままに流し込み、物語(時間)の流れを無矛盾なものにしているのです。
コマとカットの間に存在する時間的ブランク
そもそも漫画が、動画や音楽などのような、それを鑑賞(意味内容を認識・解釈)するために各作品に固有の時間(の流れ)を必要とする表現物と違い*2、鑑賞に要する時間が受け手に非常に強く委ねられている絵(静止画)という表現物で構成された作品ですから、時間の連続的な流れ自体が原理的に存在しえないと言えるでしょう。コマとコマの間は、そこでコマが分かれている以上時間の流れが一旦停止し、大きくか小さくか歩幅の差はあれ、時間が跳んでいるのです。
で、このコマ間に存在する時間のブランクは、アニメ(に限らず映像作品)のカット間の時間のブランクと同種のものだと思ったんですよね。従来のアニメは、漫画のコマ間に時間のブランクがあることを当然とみなしたように、カット間に時間のブランクがあることを前提としてシーンを構成します。漫画とアニメには無時間メディアと有時間メディアという断絶的ともいえるほどの差があるにもかかわらず、その点で非常に相似的なのです。
濃密な時間描写へのアプローチの違い 漫画『SLAM DUNK』と映画『THE FIRST SLAM DUNK』
ここで話を『SLAM DUNK』に移すと、原作漫画も、特に山王の逆転から湘北の再々逆転までのラスト8秒は非常に濃密に描かれていましたが、漫画では無音にする(音声を書かない)ことで、瞬間瞬間の濃密さと緊張感(とそれが解放されたときのカタルシス)を表現していました(「SLAM DUNK」に見る、無音の緊張感 - ポンコツ山田.com)。
既に述べたように、漫画のコマ間の時間的ブランクは絶対に避けられないものですが、それを逆手にとって、音声を書かないことでコマ内に時間を流さず、コマの瞬間の長さを限界まで切り詰め(時間の経過をゼロに近づけ)、その1コマ1コマの濃密さと緊張感でもって読者の意識を引き込みました。
それが映画『THE FIRST SLAM DUNK』では、前の記事で書いたように、同作ではいくつかのキメシーンで、そのブランクを徹底的に削ります。
山王ゴールを向かって桜木が走り出した瞬間から、桜木のシュートがリングを通るまで、試合の中で起こった8秒は、スローになったり速くなったり、現実時間のおよそ1分30秒にまで伸び縮みします。 1分半の間、時間軸上の点Pは、緩急をつけながらも止まったり跳んだり戻ったりすることはほぼないまま動き続け*2、点Pが通り抜け続けるカット群は、目まぐるしく切り替わりながらもその間に継ぎ目を作らず、シームレスに時間は流れていきます。
時間軸とシームレス 時間を操られた私たちが呑み込まれる『THE FIRST SLAM DUNK』の世界の話 - ポンコツ山田.com
カットは変わる。でも、その継ぎ目をなくす。カットの最後に映ったボールは時間的連続性をほとんど保ったまま次のカットでも動いており、選手たちも各カットの合計で経過している時間にしていたはずの動きをそのまましている。
上でコマとコマ(カットとカット)の間を私たちは想像して補完していると書きましたが、いってみれば『THE FIRST~』は、その補完を許しません。想像なんか、補完なんかさせずに、そこで起こったことを起こったまま、わずか8秒が1分30秒にまで引き延ばして感じられるあの世界を、1分30秒のまま毀損を許さずに、視聴者に目の当たりにさせようとする。まるでその試合会場に視聴者もいあわせたかのように。
ブランクを当然のものとするというこれまでの漫画的、アニメ的前提から外れたところに、『THE FIRST~』のメルクマールがあると言えるでしょう。
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