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漫画の話です。

「SLAM DUNK」に見る、無音の緊張感

スラムダンク (31) (ジャンプ・コミックス)

スラムダンク (31) (ジャンプ・コミックス)

友人に一度全巻売り払った「SLAM DUNK」を最近買いなおし、読む度に涙腺を崩壊させてます。
海南戦、陵南戦、山王戦と、涙する箇所に事欠かない作品ですが、やはり最終決戦たる山王戦こそが白眉の戦いであると思います。27巻の最後からの展開には、決して慣れることなく涙を流し続けることでしょう。
ことほど左様に感情を乱されながらコミックスを読み進めているので、今日になって初めて最終巻の作中で各話のタイトルの表記がないことに気がつきました。目次にクレジットはあるし、雑誌掲載時にはどこで区切られていたかのページ表記もあるんですが、31巻の中では、それが一本まとめて掲載されたかのように一続きで載っています。早い話、扉絵が一個もないんです。
本誌掲載時では、あるいは(悪名高き)完全版ではどうなのかわかりませんが、ぼんやりとした記憶で、湘北一年の石井(ボウズのメガネ)が「湘北に入ってよかった……」と涙ぐむシーンに#272「死守」のタイトルがあったような気がします。

さてそろそろ本題ですが、息詰まる緊張をまるで失わずに最後まで描かれきった桜木復活からの最終巻。特に後半の緊迫感は、他に類を見ないほどの濃度でした。この、一瞬を極限まで引き伸ばしたような時間の濃さ、表現の濃度には、どのような理由が見出せるのでしょうか。

私はその理由の一つに、最終巻の後半から、作中に音声が殆ど存在していないことが挙げられると思います。

具体的に言えば、#273「死力」p91の河田の台詞「終わりだ!!」以降、#275「and 1」p138の桜木の天下の名言「左手はそえるだけ…」まで、フキダシの台詞は一つもなく、擬音でさえp120で山王メンバーの心拍音「ドックン…」、p134で沢北のシュートがリングを通ったときの「パスッ」だけ。桜木の台詞以降にしても、次に出てくる台詞は、p164で堂本監督が負けた山王メンバーを励ます「はいあがろう」まで待たねばならず、山王戦のラスト30秒、桜木以外誰一人台詞を発していません。
つまり、ラスト30秒はまるで無声映画のごとくに濃密な無音の空間が描かれていたのです。

なぜ音声が描かれないことが時間の濃さにつながるのでしょうか。
それは、音声が流れるということが、そのまま時間の流れにつながるからです。

物理的に言えば、音声、というか音声が聞こえるということは、空気の振動を聴覚が捉えるということであり、この振動の波形、周期、振幅、速度などの違いによって、音声は様々な種類に聞こえます。
変なトートロジーになりますが、「おはようございます」という言葉がそのように聞き手に認識されるには、少なくとも「おはようございます」と認識できるだけの形式を持った音声が発される必要があるのです。
これで何が言いたいかといえば、「おはようございます」と言う言葉が「おはようございます」と認識されるには、「おはようございます」と聞こえるぐらいのスピードで発されねばならないということであり、それはつまり、「おはようございます」という言葉が認識された時には、「おはようございます」が「おはようございます」として認識される程度の時間が流れているということなのです。

まあそれ自体は至極当たり前のことであり、仰々しく言うほどのことではないんですが、これを実際に音声が存在する現実世界から、絵と文字しか存在しない漫画の世界へシフトチェンジしてみるとなかなか興味深い話になります。

読み手が漫画を読んでいる時に、作中の時間経過は、絵とそれに伴うコマ割で認識されますが、同時に作中での文字による音声の表記によっても時間は流れていると思うのです。
つまり、絵単体(一つのコマの中の絵)は作中の時間の流れの一瞬を切り取ったものであり、コマを並べることでその絵の前後関係を描き、物語全体の流れを作る。そしてコマの中の音声表記の文字によって、そのコマの内部での時間の経過を作る。このような二層の時間の流れがあることで、物語全体の時間の流れがスムーズになると思うのです。
その具体例としてのこのコマ。

(「SLAM DUNK」31巻 p46)
もしこのコマにフキダシ内の台詞がなければ、このコマ内では時間は流れず、物語の意味として堂本監督の喜びの表情があるだけですが、「よく戻った/深津/河田っ!!/あの二人なら/止めるっ!!」の台詞があることで、この台詞が発される分だけの時間が読者にとっては感じられるのです。

さらにこれを発展してみましょう。



(同書 p132〜134)

上にも挙げた沢北の逆転シュートのシーンですが、説明したように、p120の「ドックン…」以来の無音がこの「スパッ」でようやく破られます。
延々とゲームの瞬間瞬間を切り取り続けて、永遠の一瞬を描いてきたコマ運びでしたが、この「スパッ」で凍り付いてきた時間がほんの少しだけ解凍され、時間が流れるのです。それはとりもなおさず、切り取られた一瞬だけをずっと読み取ってきた読者の緊張が、時間の解凍とともにほんの少しだけ緩むということです。緊張の緩みは同時に感情の振幅を起こし、息を飲んで湘北の死守を見守ってきた読者はここで一気に絶望感を味わわされるのです。

さて、ちょっと話は逸れますが、表記された音声文字以外にコマ内の時間経過を表現する方法は他にもあります。
それは例えばこのコマ。
(同書 p140)
丸男がブンブン手を振り回しているのが描かれていますが、これがそれです。
動作に残像をつけて描かれると言うのはよくありますが、この残像も、短い時間の中にある部分が素早く動いているという表現であり、素早さと同時に、その素早い動作が行われている時間も意味として織り込まれているのです。
ですが、このコマのように実際に残像が描かれているケース以外に、線だけによる残像の描写もありますが、私の感覚としてはそれらは時間の経過というより、その残像分の時間(ごくごく短い時間)を押し固めたという方が近いように思えます。一瞬ではなく、二瞬三瞬を切り取ったコマ、というところでしょうか。

とまれ、それを考えると厳密に音声表記以外で時間が流れていないとは言いづらいのですが、この手法により、最大の魅せ場、漫画史に残る見開きである
(同書 p154)
このコマが生きるのです。
この前2pは音声表記も残像もほとんどなく、無音のコマの連なりで緊張感を高め何が起こるかを読者に期待させますが、その緊張をほんの少しだけ時間が流れるこのハイタッチで一気に昇華させています。まさに最高のカットです。

このように、息詰まる緊張感と音声表記は、ある面で無縁ではないと思うのです。


ちなみに、p91以降音声表記はほとんどないと書きましたが、長い文章自体は存在しています。それはp122〜124の枠線内の文章ですが、これは誰かの台詞や心理状況などではなく、作品内部の存在より次元が一つ上の存在からの説明文、いわば神の声であり、上位次元に存在するだけに、作品内の時間の流れとは無関係のところに存在しているものです。それゆえこれだけの長文であっても、それが読み上げられるだけの時間を要することはなく(そもそも誰が読み上げているわけでもないですし)、無音状態による作品内の緊張感を害することはありません。実際に読んでも、この文章で興が殺がれたということはないでしょう。


何度となくコミックスを見直して記事を書いてきましたが、そのたびにぐっと来て鼻の奥がツーンとなりました。げに名作。そりゃあこの作品をきっかけにバスケ人口が増えたのも頷けるってものです。財政難と部屋の狭さに一度はこの作品を手放してしまった昔の自分を叱ってやりたい。





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