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漫画の話です。

時間軸とシームレス 時間を操られた私たちが呑み込まれる『THE FIRST SLAM DUNK』の世界の話

 2022年の公開から今になってようやくNetflixで視聴した『THE FIRST SLAM DUNK』。
 なぜ今になって観たかと言えば、先月ブログで『逃げ上手の若君』のアニメと漫画での情報量と時間の話を書いたとき、その観点に絡めて2008年に私が書いた『SLAM DUNK』の記事(「SLAM DUNK」に見る、無音の緊張感 - ポンコツ山田.com)を引きつつ視聴を勧めてくれた方がBlueskyでいまして、また、映画公開当時見ていたリアル友人から、作品内での時間感覚に特徴的なものを感じたという感想を聞いていたことを思い出し、それならいっちょお盆休みの暇な時間に見てみようかと思っていたわけです。

 で、視聴してみてなるほど、Blueskyでは映像史において『THE FIRST~』以前以後で分けられるくらいエポックメイキングな出来だったという話を聞いていたのですが、それに頷けるくらいに、映像作品の時間表現において特徴的なものがあり、その特徴によって生み出される時間感覚と映画への没入感は特異なものでした。
 一回の視聴ではその特異さを感じつつ何に由来するのかわからなかったものの、配信作品の強みで何度か見返したところ、これかなというものが見つかったので、以下、まとめてみようと思います。

時間の描き方の二つの特徴

 まずは、端的にその特徴を言い表してみましょう。
 それは、本作の試合を描いている場面において、一まとまりのシーンの中で時間の流れが跳ばず止まらず、シームレスに流れることです。
 別の言い方をすれば、明確な一本の時間軸があり、そこにすべてのキャラクターが属しているということです。

 さて、ではそれを具体的に説明していきましょう。観点として、一つのカット内の描写と、複数のカットにまたがる描写に分けて考えてみます*1

同じ画面の中で動いて、同じ時間軸に属するキャラクターたち(と私たち)

 まずは、あるシーンの中での一つのカットに着目してみます。
 多くのアニメでは、一つのカット内に複数のキャラクターが映っている場合、あるキャラクターが動いている(発話している)と、それ以外のキャラクターは動いていないか、不自然に少ない動きしかしないことがしばしばです。これが作画上のコストカットのためなのか、あるいはセル画か3Dかのように作り方に由来するものなのかはわかりませんが、このような作品が圧倒的に多いので、私たちはそのようなカットを見ても特段おかしくは思いません。現実には、誰かが動いたりしたりしているときに他の人が微動だにしなかったり、誰もしゃべらないなんてことはないのに、そういうものだと思って観ています。

 でも、『THE FIRST~』は違う。宮城がカットインをするときは他のプレイヤーもそれに合わせて動いているし、三井が棒立ちで荒い息をついているときも他のプレイヤーの靴底が床をこする音がする。桜木が何度もリング下で跳び上がりながら同時に「リバウンド!」と声がかけられている。このような、カット内にいるキャラクターが同時に、意味のある別個の動きや発話をしている描写というのは、実は案外少ないんじゃないかと思うのです。

 で、これが先に書いた「時間軸」という観点につながります。あるカットの中で、一人のキャラクターだけが動いて他のキャラクターが(現実で考えれば動いているはずなのに)動かない、あるいは不自然に少ない動きしかしないというのは、ある時間軸に一人のキャラクターだけが属していて、他のキャラクターは外れている、と言えます。つまりメインとなる時間軸から外れたキャラクターは、ある一瞬に固定されたり、不自然に反復的な動きを繰り返してしまっているのです。

 また、カット内に同時に描かれていなくても、描かれてなくても存在しているはずのキャラクターが、描かれているカットでの時間の流れから無視されることは非常によく起こります(起こらない方が稀です)。
 たとえば、テレビアニメ放送時の『SLAM DUNK』。
 試合中にあるキャラクターがしゃべりながらドリブルをしているカットは、その描写から推測されるドリブルのスピードとそのカットの時間を考えると、おまえ一体どこまで走ってくねん他の奴らなにそれを黙って見てんねんと半畳を入れたくなるシーンが散見されました(『キャプテン翼』などでもよく揶揄されますが)。

 あれなどは、ドリブルをしているキャラクターだけにそのカット特有の時間が流れており(カット固有の時間軸に一人で属しており)、他のキャラクターはそこから一時的に零れ落ちてしまっているわけです。カメラから外れたところで彼らが黙って見ているというのは実はその通りで、時間軸から零れ落ちた彼らに時間は流れておらず、時間の流れない彼らが動けるわけがありません。その意味で、物語内の時間経過と、各キャラクターごとやカットごと、シーンごとで時間の帳尻があっていないのです。


 現実にはそんなことありえないのに、アニメは昔からそう描かれているから、そういうもんだと思い慣れている。でも、『THE FIRST~』ではカット内のキャラクターは主役脇役関係なく、試合の状況に応じた各々の振る舞いをして動いていて、その意味で、彼らは皆が共通の一本の時間軸に属し、同一の時間の流れの中で動いているのです。そして、それを見ている私たち受け手も、その同じ時間軸にいっしょにいるような錯覚を起こします。

カットの間をシームレスに流れる時間

 今度は、複数の連続するカットに着目します。
 たとえば、対沢北との1on1の中で、パスの選択肢を得た流川が赤城にパスを出し、ゴールを決めてワンスローを得た後のシーン(試合時間残り4:29)。

 外れたフリースローのリバウンドを桜木がとり、河田らに挟まれた桜木が宮城にパスを出し、宮城が流川にパスを出し、ゴール下に切り込んだ宮城に流川が再度パスを出し、河田弟を引き付けた宮城が赤城にパスを出して赤城がゴールを決めるという、現実時間でわずか10秒のシーンで5カットが目まぐるしく切り替わりますが、この各カット間のタイムラグがほぼゼロなんです。あったとしても(というか、現実にまったくラグなしというのは物理的に無理でしょうが)意識してもまるでわからない程度。
  言ってみれば、現実の10秒間を複数のカメラで10秒間撮ったものを足しも引きもせずに切れ目なくつなぎ合わせているということ。作中の経過時間と、各カット内で経過した時間の合計が等しいということです。

 これが先に書いた「時間の流れが跳ばず止まらず、シームレスに流れる」につながります。
 時間軸という考えにもつなげると、時間軸上を動く点Pは、(シーンごとに跳躍することはもちろんあるけど)一つのシーン内では緩急をつけつつも跳躍せずに(時間的ブランクを作らずに連続して)動き続けます。作中の経過時間軸上の点Pと、各カットをつなげた経過時間上の点P’は、動いた距離が等しいのです。
 このような、『THE FIRST~』の随所で見られる、複数カット間で経過した時間の合計と、実際に作品内で経過した時間が等しくなる(もちろん視聴者側の現実時間とは別です)描き方は、プレイの流れに切れ目を作らず、受け手に緊張感を与えてくれます。


 一般的なアニメ作品を考えてみますと、複数のカットをつなぎ合わせて一連のシーンを構成するという映像作品の都合上、カットごとに時間の流れが跳ぶ(連続的にならない)のは必然的に起こるものであり、それを私たちは問題なく許容しています。でも、いざそうでないもの、カットをまたいでも時間がシームレスに流れていく『THE FIRST~』でのシーンを目の当たりにすると、その表現方法の特異さにギョッとするのです。

 無料で配信されているスポーツアニメの競技シーンを試しに見てみてください。ほとんどすべてと言っていいと思うのですが、カットとカットの間には、たとえ一連の動作をつないでいるのであろうと、時間的につながっていません。ブランクがあります。あるいは、意図的に前後の連続性のない他のキャラクターのカットを挿入することで、時間の流れが断ち切られます。

 たとえば、あるプレイが描かれる複数のカットの合間に、それを見て驚いている別のキャラクターのカットが描かれるケースはしばしばありますが、このとき一連のカットには、時間の流れの連続性はありません。なぜなら、キャラクターが驚いている最中にもそのプレイは続いているはずですが、ほとんどの場合、驚きのカットの後は、またその前のカットから連続するプレイ、あるいは驚いた分の時間とは無関係の時間が経過しているプレイが描かれるからです。

カットA(プレイ)→カットB(驚きの表情)→カットA’(プレイの続き)

 となるときに、作中時間で経過しているはずの時間は、A+B+A’のカットで経過した時間よりも多いか少ないかになり、イコールにはなりません。コマ間で時間が途切れることなく流れるということがまずないのです。

時間の流れに連続性を与える音声

 なお、カット間をシームレスにつなげるために使われている手法として、単純に、カット間の動作を極力継ぎ目が分からなくなるようにつなげるというもの以外に、カットを越えてセリフなどの音声を流している、というものがあります。

 たとえば、パスの選択肢を増やした流川が沢北を抜いてゴールを決めた後(試合時間残り2:50 湘北8点ビハインド)の、流川を再び抜いた沢北が、桜木&赤城によってゴールを阻まれるシーン。ここで原作通り、「天才の作戦ズバリ的中!」と桜木のセリフがありますが、よーく見るとこのシーン、セリフが二つのカットにまたがっています。
 ある(音)声がとぎれずに聞こえるということは、それがまたがったカットがつながっていると、視覚的にではなく聴覚的に理解させてくれます。(音)声がつながってるんだからそこでは切れ目なく時間が流れている、と考えられるんですね。

時間を操られた私たちが呑み込まれる『THE FIRST SLAM DUNK』の世界

 ということで、一つのカット内の描写と、複数のカットにまたがる描写で分けて、『THE FIRST SLAM DUNK』の時間表現に関する特徴について考えてみました。
 では、その二つを意識して作品を作るとどうなるのか。
 観ている私たちに、極めて強い臨場感、没入感、時間的な共同性が発生するのです。

 アニメという誰かが作為的に生み出した作り物ということを忘れ、まるで本当に存在するバスケの試合を描き出していると錯覚するような、強い臨場感。
 そこに生きて動いている人間がいるかのような、フィクションを離れた実在性。
 そして、たとえ画面越しでも、そんな彼らが試合をしている場にまさに居合わせていると思える同時性。
 私たちも画面の向こうの宮城たちと時間を共にしているかのような、同じ時間軸に属しているかのような気持ちになれるのです。

 これらを踏まえて、もう一度試合のラスト8秒、沢北の再逆転ゴールから桜木の再々逆転ゴールまでの流れを見てみると、いかに臨場感を崩さず、時間の流れを止めず、緊張感をギリギリまで高めて私たちの意識が試合に釘づけにされるのかに気づき、息をのむしかありません。
 山王ゴールを向かって桜木が走り出した瞬間から、桜木のシュートがリングを通るまで、試合の中で起こった8秒は、スローになったり速くなったり、現実時間のおよそ1分30秒にまで伸び縮みします。
 1分半の間、時間軸上の点Pは、緩急をつけながらも止まったり跳んだり戻ったりすることはほぼないまま動き続け*2、点Pが通り抜け続けるカット群は、目まぐるしく切り替わりながらもその間に継ぎ目を作らず、シームレスに時間は流れていきます。
 その、画面の向こう側のキャラクターもこちら側の私たちも同時に捕らえる一本の時間軸に、緩急をつけながらもシームレスに流れる時間の滑らかさに、私たち受け手はすっかり巻き込まれ、まるで時間の感覚を操られていたかのようにすら思えるのです。

 本の時間軸の上での、緩急があるのにシームレスな時間の流れ。
 これが『THE FIRST SLAM DUNK』を観ていて感じる特異な時間感覚の要諦ではないでしょうか。


 ちょうど8/13の今日から全国で復活上映をするようですが、映画館視聴でも配信視聴でも、こんな点に気をつけてみてみると、また違った感動が味わえるかもしれませんよというお話でした。

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*1:ここでいうカットは、カメラ(フィルム)がある映像を映し始めてからそれが切り替わるまでの、ひとつながりの映像を意味しています。そして、シーンとは一つあるいは複数以上のカットを組み合わせてつくられる物語上の一まとまりです。文章で例えればカットを文、シーンを段落でイメージしてもらうと近いかもしれません。

*2:正確に言えば、桜木がジャンプシュートを打ったときと、そのシュートでボールがリングを通り抜けネットを揺らしたときの2シーンは、別カメラでの2種類の映像が流れており、時間が巻き戻っています。そこはない方がよかった、絶対よかった……!!