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漫画の話です。

漫画表現の中の、顔の見えない背中が語る内心の話

村田雄介先生の『ヘタッピマンガ研究所R』に、こんな言葉が出てきます。

一にも二にも目ですね 上辺の感情がどうあれ キャラの本心は目に反映させる様にしてます
絵で人物の内面を見せる方法は目の表現以外にない! と ここでは言い切っちゃいましょう
昔から目は口ほどにものを言うといいますが 漫画の中では時として口以上に雄弁に物を語るんです!
(p33)

ヘタッピマンガ研究所R (ジャンプコミックス)

ヘタッピマンガ研究所R (ジャンプコミックス)

この言葉の後で、内面を語る目の重要性を具体的な絵を挙げて示していて、それはなるほどその通りと頷けることなのですが、何事も例外があるもの。目を一切描いていないのに、いえ、目を一切描いていないからこそ語られるキャラクターの心情というものもあります。今日は、そこら辺について考えてみましょう。


漫画は二次元上で表される視覚メディアなので、当然そこには画面の都合上描けないものが出てきます。コマの中の壁の裏側を覗きこむことはできませんし、キャラクターが複数いれば、アングルの問題で誰かの頭が後頭部しか描けないこともあります。そこらへんの制約を如何に潜り抜けて読み手の理解しやすい画面構成を作るかは、漫画家の腕の見せ所の一つですが、特段制約がないにもかかわらず、あえてキャラクターを後ろから描き、「人物の内面を見せる」最重要ポイントである目を描かないことがあります。すなわち、画面構成上の都合ではなく、作者の表現上の意図としての後姿。
まずは、画面構成上の都合としての後姿の例を見ておきましょう。

とめはねっ! 4巻 p113)
望月結希(と犬のピース)を彼女の母親が玄関先で叱るシーンです。狭い空間で親が娘を叱るシーンという事で、母親の斜め後方からのカメラアングルになっています。この場合、真横からのアングルにして二人の顔が入るようにしなかったのは、母親の顔以上に結希の顔を丁寧に描きたかったから、というのもあるでしょう。表情が見えなくとも母親の怒りの感情がわかるのは、言葉とフキダシのトゲでそれが表されているからです。
そう、表情が見えない(後姿の)キャラクターが描かれる場合、顔で説明できない感情を表現するために、擬音、フキダシの形や文字のフォントの変更、漫符などが頻繁に用いられます(勿論、動作でも表現されます)。

ヒャッコ! 3巻 p131)

WORKING!! 3巻 p18)
こんな感じですね。
けれど、そうでないものもある。つまり、画面構成上の都合もないのに、フキダシの形もフォントも変わらず、漫符も用いられず、派手な動作もなく、淡々と描かれるだけの後姿。

鋼の錬金術師 10巻 p150)

もやしもん 8巻 p109)

ハックス! 4巻 p186)
これらの例は、コマ内にキャラクターが一人しかないので、カメラアングルの都合で後姿だとは考えづらいです。むしろ、前後のコマで別のキャラクターが独立して正面から描かれていることを勘案すれば、当該キャラクターを後姿で描くためにこのようなコマ割にしたと考えた方が自然でしょう。
では、この後姿のキャラクターたちは、「あえて描かれる表情のない背中」で何を語っているのでしょうか。
『ヘタッピマンガ研究所R』の最初に引用した箇所の次ページでは、表情、特に目の重要性についてこう例示しています。

(p34)
感謝を述べているキャラクターの目に差をつけることで、受け手が感じるキャラクターの内心の印象の違いを表しています。曰く、「1は心からお礼を言ってるよーに見えますけど 2はなんだか腹に一物ありそうな感じに見えますね 本心では感謝してなさそうな」と。
これは目の重要性をかなり極端に説明しているのですが、あまりにも端的に表れるこの目の意味合いは時として、受け手にその表現を「くどいもの」「わかりやすすぎるもの」として受け止めさせかねません。
江戸の昔から日本人に根付いている、隠れたところに粋を見出す美意識。派手なものをおおっぴらにひけらかす表現は、「野暮」や「お里が知れる」などと言われ、避けられてきました。主張したいものはそれを前面に出すのではなく、ふとしたときにそっと見えるくらいがいい。そういう感性が日本にはあります。
話を漫画にひきつければ、島本和彦先生もこう言っています。

作者の一番言いたいことを大ゴマで言わせてはいけない!
言いたいことをストレートにネームにすると作品がうすっぺらくなるから…… 気をつけろ!!
本当に言いたいことは―― 小さいコマでボソッと言わせて!
燃えよペン p243)

言いたいこと、伝えたいことをわかりやすく。論文などでは非常に大事なことですが、「物語」的な創作物でそれをやると、受け手は鼻白み、作品が軽くなってしまうのです。
島本先生の話は特に台詞面でのものですが、これを絵の話と考えてみたらどうでしょう。
上で挙げた三つの例は、きちんと作品を読んで前後の流れを知れば明白なのですが、どれも後姿のキャラクターが自分の内心とは裏腹のことを言っている、あるいは、気持ちを言葉にはしたけれどそれに自分で納得していない、という状況です。村田先生の論に従えば、内心を反映していない目、具体的には小さくなる黒目(瞳孔)、三白眼、ハイライトの消えた目などで表しえる表情です。ですが、それをあまりにも明瞭に、わざとらしく描いては「お里が知れる」。意図的な表現が鼻につく。特にシリアスなシーンでのそのようなタッチの変更は、雰囲気を壊しかねません。それゆえ、あえて顔を描かない。自分の言葉を裏切っている顔を。
普通なら、正面から描いていいキャラクターの顔。にもかかわらず、向けられた背中。本来あるべきものがないというのには、なにか理由があるのではないか。そう読み手に考えさせるために、上で挙げた三例もあえて、本来なら当該キャラクターが正面を向いているはずのコマ割にしているのだと思うのです。
普通、主要キャラクターの背中が描かれるのは、コマ内に複数のキャラクターがいて、変なキャラクターの並び、もしくはカメラアングルにしない限り誰かが後ろを向くことになる時です。『とめはねっ!』『ヒャッコ!』『WORKING!!』の例はそれです。逆に言えば、一つのコマに一人しかいなければ、正面から顔を描けない理由はないのです。描けない理由はない。でも、描かない理由はある。
手に入らないから欲望する。知ることができないから知りたがる。そんな人間の本然については、当ブログで何度も触れてきましたが、この場合は、本来見えるものが見えないから、そこに何が描かれているのかつい想像してしまう。そのように読み手の想像力を喚起させることこそが、直接描くことなく言葉と内心のずれを表すこの手法の骨子なのです。
本来描かれるもの(表情)があるはずのこのコマには、それがない。あるはずなのに描かないのは、そこには何か秘密があるのではないか。台詞にそぐう表情をしていないのではないか。ひょっとしたら、書かれている台詞は額面どおりに受け取れないのではないか?
そんなことを(意識せずとも)考えて読まれる背中は、言葉を裏切っている顔(目)をわかりやすく描くのより、ぐっとキャラクターの内心に深みを与えます。作り手の絵による表現だけではなく、受け手自身がその内面の創造に一役買っているのです。作り手が読み手に、表現上の共犯関係となることを秘密裏に要請していると言ってもいいかもしれません。
また、特に『ハックス』の例では、読み手だけではなく、同じ作中の空間にいる他のキャラクター(秦野)も、当該キャラクター(みよし)の後姿しか見えていないことが、みよしの言葉に感銘を受けているような秦野の表情(および、それに続くシーンでの秦野の様子)からわかります。それまでのシーンでは秦野と面と向き合って会話をしていたみよしも、おそらくこの台詞の時だけ、彼女から顔を逸らしているのでしょう。ですから、秦野もみよしの目を見ていない。言葉だけでは探れない彼女の気持ちに気づいていない。続くシーンで、みよしの「アニメ楽しい」発言に素直に心弾ませている秦野が描かれているので、それ以前の流れで滲み出てきていたみよしの内心の混沌、孤独、すなわち、言葉と裏腹の背中がいっそう際立つのです。


おそらく、村田先生の言う「言葉を裏切る目」の描写は、若年層に向けた作品ほどその傾向が強くなるでしょう。なぜなら、わかりやすいから。子供向けの作品では、キャラクターの深さ、表現の奥行きよりも、明快さの方が喜ばれるからです。あるいは、そのような明快な作品に慣れ親しんだ漫画読者が、より奥行きのある表現を楽しむための「あえて描かれる表情のない背中」という順逆なのかもしれませんが。
また、タッチを変えても違和感を覚えないギャグシーンでも、「言葉を裏切る目」はよく描かれます。キャラクターの心情に奥行きがないがゆえに、ギャグのコール&レスポンスが軽快に進むからでしょう。


勿論、「キャラクターの言葉を裏切る目をあえて描かないための背中」では説明のつかない事例もあります。

よつばと! 10巻 p117)

苺ましまろ 5巻 p20)
これらの例は、上記のようにシリアスな場面ではなく、ギャグシーンです。いわば、ツッコミとしての無表情でしょうか。普通、ボケに対するツッコミはオーバーアクションで行われますが、ここではそれを排除し(『よつばと!』にいたっては言葉すら排除し)、定型的なボケ/ツッコミの形ではないギャグとしています。オーバーなボケ→オーバーなツッコミというコール&レスポンスに、普通とは違う間を生み出しているのです。

とめはねっ! 3巻 p74)
この例なんかは、意図せずその効果が出てるんじゃないかと思います。狙ったシュールさではなく、偶発的なシュールさ。

よつばと! 10巻 p154)
このシーンは、不安げなよつばに話しかけられるも、沈黙し続ける父ちゃんの後姿を描いています。村田先生の説明通り、表情(目)の持つ情報量は非常に多いですから、それを描かないことで読み手に、一言も喋らない父ちゃんから滲み出る不穏な空気を与えています。父ちゃんがどんな顔しているのか知りたくて見上げるも、身長差のある父ちゃんが正面を見続けているために顔が見られないでいるよつばの不安と、読み手は同調するわけです。

きのう何食べた? 3巻 p59)
この例はちょっと特殊というか、私がそう感じるだけかもしれませんが、社会的にタブーとみなされるような発言をする女性弁護士が後姿で描かれる(顔が見えない)ことで、発言に妙な凄みが出ているのです。作品の中のトゲとでも言いますか、作品に漏れてしまった作り手の負の感情のようなものを、私はここから感じてしまいます。それは、このコマがある話が、虐げられる女性の権利・セクハラについてやや過剰に描かれている(ような気がする)ことにも関係があると思うのですが、何かこの後姿に異様さを感じられるのです。


これ以外にも別種の例が多くあるでしょうが、とりあえずこのくらいで。


「目は口ほどにものを言」いますが、見えるはずのものの代わりに見える目のない背中も、そこにないものを想像してしまう人間にとって、時として同じくらいものを言うようです。


昔書いた記事でも、キャラクターの心理を表現する時の目の重要性について書いています。よろしければあわせてお読みください。
関連リンク;漫画表現の中の、光を反射しない眼について





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