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羽海野チカの心理造形と初期短編集『スピカ』の話

スピカ 〜羽海野チカ初期短編集〜 (花とゆめCOMICSスペシャル)

スピカ 〜羽海野チカ初期短編集〜 (花とゆめCOMICSスペシャル)

羽海野チカ先生の初期短編集『スピカ』のレビューです。
母を亡くした少年が、父親と一緒に思い出での動物園を訪れる『冬のキリン』。
自分は好きでやっているのに、周りから「そんなことをしてなんになる」と言われ思い悩むバレエ少女を描いた、表題作である『スピカ』。
世間ずれしない子供の目で大人や世界の厳しさと優しさを見る『ミドリの子犬』『はなのゆりかご』。
男性教師に仄かな甘い恋心を抱く男子高校生の『夕陽キャンディー』。
押井守監督の作品への思いを綴ったエッセイ漫画『イノセンスを待ちながら』。
以上六作品が収録されており、どれも2000年から2004年の間、つまり『ハチミツとクローバー』連載初期に描かれたものです。『冬のキリン』『夕陽キャンディー』『イノセンスを待ちながら』は、本当に短編ですね。10pにも満たない掌編と言えるような作品です。他の三作品にしても一話あたり30p以下なので、重厚な深さをもちうる作品とは言えませんが、その分羽海野先生が描きたいと思っていることをぎゅっと凝縮したようなエピソードばかりです。
特に『スピカ』でそれが顕著であるように思えます。自分が好きでやっているバレエと、「あなたのことを思って」言われる親からの忠告。受験を控えた美園は、その両方を正面から受け止めている内に、重さに耐えかねて涙をこぼしてしまう。そんな彼女に助言を与えるのは、とあるきっかけで彼女に試験勉強を教えることになった、野球部の高崎。彼が何と言ったかは実際に本編を読んで確かめてもらうとして、飾らずに、恐れずに、迷いなく美園に声をかけた高崎の姿は、「わたしはこれを飾らず、恐れず、迷わず言いたいんだぜ」という羽海野先生がダブって見えるようです。
作品というよりは、その語る内容にそういうものなのかと唸ったのが、エッセイ漫画の『イノセンスを待ちながら』。『機動警察パトレイバー』について語っている時、こんなことを言っています。

光を絵で描くとき 絵描きはカゲを描きます
強い日ざしを表現する時は カゲの色もまた強くなります
カゲの濃さが 光そのものの強さを決定したりするのです
「後ろにあるもの」が「その前にあるもの」を押し出すのです
(p100)

「後ろにあるもの」が「その前にあるもの」を押し出す。鮮明に描かれた地が、何も描かれていない空白を明確に縁どる。そこに何もないことが、強く表される。
何もないこと、何かがないことそのものを描くのは極めて難しいですが(だって、そこにはその描かれるべき「何か」、あるいは「何もかも」がないんですから)、そこにあるべきものが存在しない「空白」を残して他の箇所を明瞭に描くことで、その「空白」が強調される。そういう逆転の発想に、むふんと唸りましたね。絵や漫画だけでなく、他の分野でも応用できる考え方です。


羽海野先生は、なんだかぐるぐると迷っている形のあいまいなものを、何度も何度も似たようなことを様々な角度から描くことで浮かび上がらせる、という手法でキャラクターの心理を描く人だと思っています。それは、直接的・直截的に表すことのできないものを描くために採る手法ということで、すぐ上で描いたことに通じるものですが、そういう描き方でキャラクターの心のひだを形作っているのです。
人の心は、言葉で端的に表現したら、それで固まってしまうものです。「怒っている」と書けば怒りの感情。「喜んでいる」と書けば喜びの感情。そういう風に表すことができますが、人の心は一つの感情一色で成り立っているわけではありません。どんなに怒っている時でも、そこには悲しさや切なさ、辛さ、時には喜びなどさえ潜んでいるかもしれませんし、それが喜んでいる時でも同様です。そういう複雑なキャラクターの心理をなるべく余さず表したいと思えば、断定的な、端的な言葉遣いはできない。代わりに、解釈に幅のある表現をとり、それを何度となく繰り返すことで、その都度その都度のキャラクターの心理に幅ができる。そういう描き方をする人だと思うのです。キャラクター像に色セロファンをたくさん重ねて、多く重なっている中心あたりに濃い色=描きたいことを作り出す感じとでも言いましょうか。*1
ですから、短編だとどうしてもその特性が出にくいわけです。数十ページの中で似たような心理を何度も何度も描いていては、紙幅が足りませんから。そういう意味での羽海野チカらしさ、あいまいな表現で心理の解釈を広げられるような作り方は見られませんが、話のテンポや絵のかわいらしさはもちろん羽海野チカ。また、その「らしさ」は出ていなくても、逆に、上の『スピカ』についてのところでも書いたような、ストレートさが見られます。たまにはそんな羽海野先生もいいですよ。


余談ですが、羽海野先生はスピッツ(とスガシカオ)が好きなようで、表題作の『スピカ』もスピッツの曲名からとったのかなと思います。実際、それをBGMに読むととても具合がいいので、おすすめ。




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*1:逆に、わりとソリッドな表現、切れ味のいい表現で印象的なシーンを描き、材料から削り出すようにしてキャラクターを造形していくのが、最近の好きな作家では『宇宙兄弟』の小山宙哉先生だと思います。イメージの話ですけど。