「レストー夫人」。それは、ある高校の2年生が毎年行う劇の演目。7つのクラスで同じ劇からそれぞれ異なる台本を作るため、7つの「レストー夫人」が毎年上演される。
ある年のあるクラス、そこには志野という少女がいた。西洋人じみた美しい顔立ちの彼女は、クラスの満場一致で主役のレストー夫人に選ばれた。
日常の立居振舞からどこか演劇めいている、不思議な少女・志野。彼女を中心にして作り上げられる舞台の準備は、今日も進んでいく……
- 作者: 三島芳治
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2014/05/19
- メディア: コミック
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あたかも「なにかの実験」かのように、ある学校で毎年行われる演目「レストー夫人」。それを演じることになった学生達の日々。
視界の中に目印のようなものがいつも紛れ込むせいでうまく歩くことができない、デルフィーヌ役の川名。
常軌を逸して無口なのにユーフラシー役となった鈴森と、腹話術が得意なせいで彼女のアテレコをすることになり、一人二役で台詞をあてる羽目になったアキリノ役の井上。
何かのパーツを一目見れば、それがどこのどんな部品なのかわかってしまう、衣装係の石上。
そして、日本人離れした顔立ちと現実離れした口調によって、圧倒的な支持で主役のレストー夫人役に選ばれた志野。
彼や彼女の姿は、独特な絵と独特な語り口によって、現実から半歩踏み出たたもののように描き出されています。いい意味で不自然。
その描線はまるで版画のようで、世界は非常に平面的。時としてパースさえ狂っている。でも、この不自然な物語の中では、それすら一つの魅力として機能しています。
不自然。それは自然ではないということ。自分の常識とはどこかそぐわないこと。当たり前と見てきた世界とずれていること。
その不自然さを自然なもの、当たり前のものとして包含している『レストー夫人』の物語は、読み手の世界と歯車がずれているようでありながら、いや、ずれているからこそ、こちらになにがしかの感興を催させるのです。
この「不自然」という言葉を用いて、作中で志野がこう言っています。
「簡単なのよ 踊りはね 身体を不自然にすればいいの」
劇中での踊りをクラスメートに賞賛され、それに対する反応として言った台詞ですが、作品そのものに漂う不自然さについて示唆深いものであると思います。
身体を不自然にすることが踊りだということは、日常的にしない動作であればそれすなわち踊りとなるということ。志野はこの台詞に続けて、「完全に止まる」ということを実演して、それを例証しています。人間はじっとしているようでもなんとなく動いているもの。心臓の鼓動はもちろんのこと、身体のバランスをとるために重心を細かく移動させたり、痒いところをなんとなく掻いたり、洟をすすったり、無数の細かな動作が無意識のうちに行われています。ですが、それらを意識的に停止させ(むろん鼓動は無理ですが)、微動だにせずにある一定のポーズで静止する。その不自然さは、それだけでなにがしかの意味を生み出し、「踊り」となるのです。
この考えは踊りにとどまらず、広く創作行為について敷衍できるものです。あらゆる創作行為は、自然の、あるがままの世界の一部を不自然に(=恣意的に)切り取り、加工して、別の形にして顕すものです。現実の会話は漫画や小説、映画のようになめらかではなく、「アレ」だの「えーっと」だの「それそれそれなんだっけ」だの会話の本筋に関係ない言葉がちりばめられます。アニメやイラストでは、見栄えをよくするために現実にはしないであろう動作やポーズもとります。そういえばありましたね、加賀さん騒動。
また、志野はこうも言っています。
「なにもない自然な世界にめもりをつけたのが私たち人間 不自然なことよね でもそれがいいでしょ? 私たちは劇をするんですもの」
創作行為どころかそもそも人は、自然をあるがままに受け取ることはできません。五感から得た世界の情報は、それそのもでは具体的な意味を持たず、刺激に言葉を当てはめて初めて意味を持ち得ます。目の前にリンゴがあったとして、それ自体をリンゴとしてダイレクトに把握するのではなく、受容器官から受け取った各種情報に、赤という言葉を与え、丸いという言葉を与え、甘酸っぱいにおいという言葉を与え、その他諸々の情報を統合して、ようやくそれをリンゴとして認識するのです。
また長さや重さ、速さ、時間など、世界を抽象的に表現する尺度も全て人間が恣意的に決めています。1mを1mとして、1gを1gとして定義しているのは人間であって、世界に1mや1gがそのままあるわけではないのです。
『レストー夫人』の登場人物は学生。日常の動作や言葉に特段注意を払うことのない普通の子たちが、演技としての動作や言葉を身につけなければいけません。ために、そこに潜む不自然さは否が応でも意識され、その違和感は今まで意識してこなかった日常生活へも浸食してきます。
あれ。世界ってこんなだったっけ。
そして読み手もまた、その不自然さに違和感を覚えていく。
普段は見過ごしている世界の不自然さ、正確に言えば、人間が認識している世界の不自然さを、劇は、そしてこの作品はつきつけてくるのです。
改めて言いますが、いい意味で不自然な漫画。わかるようなわからないような、不安定な面白さがたまらない。
こちらがその第一話試し読み。
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