先月の記事で「ハンタ」の中で描かれる理念と現実の擦り合わせについて書きましたが、その最後で予告したゴンとキルアの倫理について、ようやく書こうと思います。本当は新刊が出てからにしたかったんですけど、来月になっても発売されないようなので、諦めました。
※本誌を追っていないので、27巻までに描かれている話を基に書きます。コメント等での本誌ネタバレはご容赦ください。
- 作者: 冨樫義博
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2009/12/25
- メディア: コミック
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それでも、主人公であるゴンは当初から「優しさ」を全面に出して描かれていました。第1話での動物への優しさ、第2話で海に落ちかけた船員を我が身も省みず助ける、第8話では霧にまかれた中でのマラソンで試験官についていくことを放棄してでもレオリオを助けに行く。他者のことを思いやった「優しい」行動です。この「優しさ」は読み手の視点をゴンサイドに移入させ、謎めいた言動を取るキルアやヒソカをそれと対比させることに一役買っています。
このように一見「優しく」見えるゴンですが、それが一般的に言われている倫理観と同質のものかというと、少し疑問です。倫理観とは社会的なもの、つまり、自分が属している社会を維持するためにその社会内で承認・推奨されている様式であり、社会が変われば倫理観も変わり、また、社会に範を置かない倫理は倫理とは呼べません。その意味でゴンの「優しさ」は、倫理的であるとは呼びがたいのです。
キャラクターたちによるゴン評を見てみましょう。
こいつは善悪に頓着がない
(中略)
あるのはただ一つ
単純な好奇心
その結果すごいと思ったものには善悪の区別なく賞賛し 心を開く つまり こいつは
危ういんだ… 言うなれば
目利きが全く通用しない 五分の品……ってとこか
(10巻 p91,92)
目に宿る意志の固さ!! まだ内に秘められたままの底深い能力!! それは
鍛錬 によっていかようにもその表情を変えることができる…!
まさにダイヤモンド!!
(14巻 p187)
前者の引用でゼパイルが言う「善悪」は倫理と同じ意味ですね。善悪も社会によって変動があります。
ゼパイルもビスケも、ゴンの在り様に(良くも悪くも)純粋さを見出し、そこに外的な規範が薄い(=内的規範が強く優先される)ことを見て取っています。純粋であるということは、染まっていないということ。ビスケによる評は一見強く肯定的に思えますが、見方を変えれば、頑固でまだ外的なルールを内面化していない、ということでもあります。
この外的規範の薄い意志の固さは、別の言い方をすれば、ゼパイルの言うとおり「好奇心」です。ゴンは未知のもの・状況に対して並々ならぬ興味があり、それは時として自身の命さえ危険に晒すものです。
少しずつわかってきた気がする オレがあの時感じた変な気持ち
目の前に人がゴロゴロ倒れていて そうした張本人… ヒソカが オレの方に近づいてきた時
強力な圧迫感があって 怖くて逃げ出したけど背を向けることもできなくて 絶対戦っても勝ち目はない!! オレも殺されるのかなァなんて考えながら
その反面…… なんていうのかな 殺されるかもしれない極限の状態なのにさ
変だよね? 俺あの時少しワクワクしてたんだ
(2巻 p31)
「あいつ口ではヒソカと戦えればそれでいいとか言ってるけど 昨日の試合のやり方… あれは
スリルを楽しんでるみたいだったからな」
(中略)
「命さえ落としかねなかったあの状況を 楽しんでいた…と?」
「ああ オレもそゆとこないわけじゃないからわかるんだけどさ
オレなら時と場合と相手を選ぶけど あいつは夢中になったら見境なさそうだしな」
(6巻 p126,129)
これらの台詞・会話はゴンの戦闘狂的側面を表していますが、その大元にあるのは好奇心(外的規範の薄い意志の固さ)なのだと私は思います。生命が危うい状況であろうと、その状況が楽しければ享楽的にそちらを優先してしまう。「好奇心猫を殺す」とは言いますが、ゴンは殺されかねないことを承知で好奇心を優先するのです。
自身の内的規範に従うゴンの行動は、それが
例えばククルーマウンテンでの出来事。試験会場から姿を消したキルアを追って、ゴンたちはキルアの実家があるククルーマウンテンへ行きました。敷地内で飼われている番犬ミケに襲われずに家まで行くには「試しの門」から入る必要があるのですが、「友達に会いにきただけなのに試されるなんてまっぴら」とゴンは侵入者として敷地内に入ろうとします。社会的な考え方をすれば、ゴンのこの行為はとてもじゃないけど倫理的とは呼べません。「郷にいれば郷に従え」の言葉があるように、それが自分の気に入らないことであろうと、敷地の所有者であるゾルディック家が決めたことには客として(それが招かざる客であろうと、その家が客など来ない家であろうと)従うのが道理のはずですが、ゴンはそれが「気に入らない」という理由だけど我を通そうとします。うーんアナーキー。
例えば天空闘技場での出来事。ゴンはウイングから念を習い始め、「二ヶ月間試合はするな」と言われたにもかかわらず、戦いたいからという実に単純この上ない我が侭な理由で言いつけを破り、結果全治二ヶ月の大怪我を負い、ウイングからも大目玉を食らいました。なんという子ども。
例えばグリードアイランド。ビスケに弟子入りしたゴンとキルアは、手始めにビノールトとの戦闘を命じられました。ビノールトは
こんな具合に、ゴンの行為は時として倫理とは相容れない様相を呈するのです。
では、時として倫理と相反するゴンの内的規範とは何か。
それは以前の記事で触れた「仲間は大事」だと思うのです。「ハンタ」の他のキャラクターも「仲間は大事」という理念をそれぞれ質が違いながらも皆抱えていますが、ゴンのそれもまたひどく独特なものです。
独特な点は二つ。
一つは、「仲間」の領域が実に容易く動くこと。
先に挙げたククルーマウンテンの件で無理矢理侵入者になろうとしたゴンですが、その場にいたゾルディック家の守衛じゃなくて掃除夫のゼブロが、自分も一緒に侵入者として入る、キルアの友人を見殺しにしてはあわせる顔がない、ゴンたちが死ねば自分も死ぬと言ったために、ゴンは意気軒昂に振り上げていた拳を大人しく下ろしました。会ったばかりの人間であろうと、その人間が自分の友人(キルア)に親愛の情を示してくれるのであれば、躊躇なく「仲間」と看做すのです。
また、アリ編でメレオロンに会った際、彼の口先だけでしかない言葉をあっさり信用し、その態度が逆にメレオロンを不安にさせますが、その直後にはなったゴンの台詞にメレオロンは戦慄します。
「それに 嘘だったらそれはそれで気が楽だし」
「気楽?」
「遠慮しなくていいから
遠慮なく倒せる」
(23巻 p104)
一旦信用した相手でも、それが信用に値しないとなったらすぐさま敵と看做せる。このように、ゴンの「仲間」の境界の垣根は、他のキャラクターに比べて非常に低いのですが、にもかかわらず、「仲間」への想いは非常に濃密となる。それがゴンの理念の特殊さの一点目です。
二つ目。ゴンの「仲間は大事」の理念は、現実と競合することがほとんどないということ。
前回の記事で触れましたが、かつての同胞の仇を討つために幻影旅団を追っていたクラピカは、現在の仲間であるゴンとキルアの生命と自身の復讐を天秤にかけて、悩んだ末に今現に生きている二人を優先させました。かつての仲間と今の仲間。「仲間は大事」という文句のつけようのない理念も、現実の前ではそれを無条件で押し通せるわけではないということを如実に示すエピソードですが、ゴンにはそのような現実との角逐が見られない。
既に書いたゼブロの件もそうですが、ゴンが仲間を大事にしようと動いた場合には、現実の状況やゴン本人の思惑を一旦脇に置いて、それを第一に遂行します。キルアと共に旅団に囚われ、団長との人質交換が行われる直前、パクノダに「なぜ逃げないのか」と問われたゴンは言いました。
「あんた達 なぜ逃げないの?」
「逃げるって?」
「おそらく手負いの私より あんた達の方が足は早いわ
ここであんた達が逃げれば こっちの切り札はなくなって 鎖野郎は望み通り団長を殺せるのに
なぜそうしようとしないの? アイツの仲間なんでしょ?」
「仲間だからだよ!!
仲間だから 本当はクラピカに人殺しなんてしてほしくない!! だから……交換で済むならそれが一番いいんだ!!」
(13巻 p82,83)
クラピカの望みを達成させるよりも、自分の思った通りのクラピカであって欲しい。仲間は大事にするけれど、その大事にする仕方が仲間当人の意志と食い違おうとも、相談もせずに自分のやり方を押し通す。さすが頑固者。このように、ゴンが自らの理念と現実/他者の思惑とに競合が生じた場合でも、彼が思い悩むシーンはほとんど見られないのです。
ですが、そんなゴンが直面した最大の試練。それがカイトとピトーの問題でした。
アリ編で、ピトーの念能力により操り人形にされたカイトを救うべく城に乗り込んだゴン。塔の上で見つけたピトーは、討伐軍による急襲のために大怪我を負ったコムギの治療の真っ最中、怒りに目の前の状況が見えていないゴンにキルアが忠告し、冷静に行動するよう呼びかけるも、ゴンは咆哮し、激昂し、葛藤し、針が振り切れるほどに怒るのです。
おそらく? 多分? おそらく多分で待つって!?
待った後でそいつがオレの望みどおりにするってのもまたおそらくか!!! おそらく!!! 多分!!! 本当!!?
ふざけるなッ
ふざけんなよ!!!
どうかしてんじゃないのか!!? こんな…… こんな奴の言うこと 信じるのか!!?
信じられるわけないだろ!!!
目の前で治療されているコムギ。ベイジンで廃人同然となっているカイト。コムギを治療をしているのも、カイトを廃人にしたのも、同じピトー。怒りに任せてピトーを殴り殺せばコムギもカイトも死に、かといって何もしないでいることなんてできやしない。助けるべき仲間と自身の怒り。強烈なダブルバインドの下で、ゴンは身を引き裂かれんばかりの葛藤を味わったのです。
ここでもゴンの葛藤は、極めて個人的なものです。目の前のコムギと、彼方のカイト。合理的な推論はキルアの言った通りなのですが、自分の感情ではそれを冷静に受け入れることができない。ある推論の理路も社会に通底する観念に左右されるという意味で、合理性にも社会性の性質があるのですが*1ゴンの葛藤はやはり倫理的とは言いがたいものなのです。
主人公であることもあって、ぱっと見読み手が受け入れやすいキャラ造形をなされていると思えるゴンですが、どうしてその中身は倫理観、もうちょっと正確に言えば社会性が極めて薄いアナーキストだったのです。メレオロンがゴンから直感した底の見えなさと人間離れした怪物性は、極めて正しいものだったのですね。
さて、では物語の冒頭からゴンと行動を共にしていた、彼の裏側とも言えるようなキルアの倫理観とは何か!
という話をするには記事が長くなりすぎてしまったので、また後日ということにしようと思います。ちゃんと書くよ!
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