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漫画の話です。

『ヴィンランドサガ』と『恩讐の彼方に』復讐心を駆動するものの話

前回の記事の最後で、「クヌートと愛に関する話はまた次回」と書きましたが、いただいたはてブのコメントで興味深い話を見かけたので、そちらについての話を先に。

そのコメントとはこちらです。

憎い仇は、今は改心して人のために働いている。しかし…という点で、菊池寛「恩讐の彼方に」http://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/496_19866.html と読み比べるのも興味深い。 - gryphon のコメント / はてなブックマーク

青空文庫『恩讐の彼方に/菊池寛』は未読の作品でしたので、青空文庫であることと短編であることをこれ幸いに、ざっと読んでみました。これが確かに、トルフィンとヒルドの関係性に似ているのですね。
まずは物語をざっとまとめてみましょう。面倒くさければ次の段落までジャンプ推奨。三行でまとめました。
主人公である若武者の市九郎は、江戸は浅草田原町の旗本・中川三郎兵衛の食客として暮らしていましたが、主の妾であるお弓と情を通じてしまい、それが三郎兵衛にばれ、本来であれば手討ちに合うところ、反撃し、主殺しの罪を犯してしまいました。そのままお弓とお金を奪い逐電、元来善良な人間であったはずの市九郎も、すれっからしのお弓と行動を共にするうち、悪事で路銀を稼ぐことに慣れ、数年後には信濃と木曾の境にある鳥居峠で、昼は茶屋、夜は追剥をたずきに生きるようになりました。しかしある時、まだ若い夫婦を襲ったことをきっかけに、己とお弓の醜悪さをまざまざと思い知らされ、再び、けれど今度はひとりで夜の闇に消えていきました。懺悔の念に囚われた市九郎は出家し了海を名乗り、厳しい修業を積みながら回向をしましたが、それだけでは自分のなしたことの償いにはならぬと、人助けの旅に出ます。九州豊前は樋田まで来ると、そこに年間で何人もの人が移動中に落下して命を落とすという、断崖絶壁の難所に出くわし、これこそ天命この切り立った岩山を貫いて道を造らば必ずや人の助けとならんと、市九郎こと了海は鑿をふるいだしたのです。その一撃は岩山の巨大さに比べてあまりにも小さく、穿たれる穴も微々たるもので、初めの内は近隣の人々も風狂の僧と嘲笑していましたが、歳月を経て、少しずつ穴は深まり、ひたすら鑿をふるい続ける了海に人々も協力するようになり、いつしか道を通すことも夢ではなくなってきました。しかし、そこに現れたのが、かつて市九郎が殺した三郎兵衛の息子・実之助。父の敵を討つべく漂泊の旅を続けてきた彼は当年27歳、ついに巡り合った敵にいざ復讐の刃を振り下ろそうとするも、粛々とその刃を受けようとする市九郎、そして彼を生き仏として崇め、凶行を止めようとする周囲の人間を前に、ついに果たすことができませんでした。せめて道を通し終わってから、という周囲の人間の言葉を受け、いったん刀を収めた実之助は、ただ座して待つのも無益と、市九郎らとともに鑿をふるうようになります。そして彼が加わってから一年と六カ月、ついに穴は貫通し、市九郎と実之助、敵と復讐者は手を取り合って感激にむせび泣いたのです……
以上の流れをさらに三行でまとめなおすと、
男が主人を殺し逃げ、逃げた先でも悪事を働いたが、後悔したので出家し、罪滅ぼしに人助けの旅に出た。
とある難所の岩山に穴を掘って道を作ろうと決意し、何年もかけて鑿をふるっていたら、殺した男の息子が敵討ちにやってきた。
息子は、せめて道づくりが終わってから殺そうと思い、男と一緒になって鑿をふるっていたが、ついに道ができたときに二人して号泣。
となります。
『ヴィンランドサガ』も『恩讐の彼方に』も、自分の家族を殺した憎い敵についに巡り合うも、その男が人に慕われ、人のためになることをしようとしていた、という点で共通しています。前者は絶賛連載中なので、最後にヒルドがトルフィンへどのような判断を下すかまだわかりませんが、後者は「人のためになること」へ共に取り組んでいた二人が、それが達成された際には、手を取り合って喜んでいます。物語はそこで終わるため、果たしてその後に、実之助が市九郎を殺したのかどうか明らかにはされていません。そのまま殺さなかったと解釈するのが素直ですが、それでもなお、市九郎が実之助の前に命を差し出し、それを実之助が討った、という解釈も有り得そうです。まあそれはともかく。
上記の点は両作品で概ね類似しつつも、いくつか差異があります。その一つが、復讐者が敵を前にしたときの態度です。
ヒルドはトルフィンに対して終始明確な殺意を向けていますが、実之助はいざ市九郎の前に立つと、その気力を一度萎えさせているのです。

実之助の、極度にまで、張り詰めてきた心は、この老僧を一目見た刹那たじたじとなってしまっていた。彼は、心の底から憎悪を感じ得るような悪僧を欲していた。しかるに彼の前には、人間とも死骸ともつかぬ、半死の老僧が蹲っているのである。
(中略)
実之助は、この半死の老僧に接していると、親の敵に対して懐いていた憎しみが、いつの間にか、消え失せているのを覚えた。敵は、父を殺した罪の懺悔に、身心を粉に砕いて、半生を苦しみ抜いている。しかも、自分が一度名乗りかけると、唯々として命を捨てようとしているのである。かかる半死の老僧の命を取ることが、なんの復讐であるかと、実之助は考えたのである。

実之助は敵を討ちたかった。でもその敵は、心の底からの憎悪をぶつけるに値する相手であってほしかった。自らの悪行を悔やんでなどいてほしくなかった。世のため人のために働いていてほしくなかった。老醜を晒してほしくなかった。命を進んで差し出すような真似をしてほしくなかった。
復讐とは、激情のままになされるべきもの。

実之助は、憎悪よりも、むしろ打算の心からこの老僧の命を縮めようかと思った。が、激しい燃ゆるがごとき憎悪を感ぜずして、打算から人間を殺すことは、実之助にとって忍びがたいことであった。

ということなのです。打算をしている時点で、すでにそこには打算をするだけの理性があります。それによって敵を殺したとしても、それはただの利益のための殺人行為であり、恨みを晴らすための復讐とはなりません。恨みという激情を昇華させるには、その激情のままに復讐を果たす必要があるのです。
このように、一度は萎えてしまった実之助の激情ですが、再び燃え上がります。

その時であった。洞窟の中から走り出て来た五、六人の石工は、市九郎の危急を見ると、挺身して彼を庇かばいながら「了海様をなんとするのじゃ」と、実之助を咎めた。彼らの面には、仕儀によっては許すまじき色がありありと見えた。
「子細あって、その老僧を敵と狙い、端なくも今日めぐりおうて、本懐を達するものじゃ。妨げいたすと、余人なりとも容赦はいたさぬぞ」と、実之助は凜然といった。
 が、そのうちに、石工の数は増え、行路の人々が幾人となく立ち止って、彼らは実之助を取り巻きながら、市九郎の身体に指の一本も触れさせまいと、銘々にいきまき始めた。
「敵を討つ討たぬなどは、それはまだ世にあるうちのことじゃ。見らるる通り、了海どのは、染衣薙髪せんいちはつの身である上に、この山国谷七郷の者にとっては、持地菩薩の再来とも仰がれる方じゃ」と、そのうちのある者は、実之助の敵討ちを、叶わぬ非望であるかのようにいい張った。
 が、こう周囲の者から妨げられると、実之助の敵に対する怒りはいつの間にか蘇えっていた。彼は武士の意地として、手をこまねいて立ち去るべきではなかった。

この時、なぜ彼の情に再び火がついてのでしょう。
単純に考えれば、邪魔されたがゆえに、その反抗として燃えたのでしょう。ですが、それ以外の理由もあると思います。
それは、市九郎が周りの人間に慕われていたことです。
実之助の家は、三郎兵衛が殺されたことで取り潰しにあい、実之助は縁者の家で育てられました。13の時に父が殺された家は取り潰しにあったことを知らされ、爾来「無念の憤りに燃え」「即座に復讐の一義を、肝深く銘じ」たのです。多感な時期を剣の修行に費やし、19歳からの8年間を漂泊の旅とした実之助。その半生は、決して温かいものではなかったはずです。にもかかわらず、彼の敵である市九郎は、人々に慕われて生きていた。誰とも知らぬ刀を持った男の前に人々がその身を投げ出せるほどに。
だから彼が激情に再び駆られた。父の敵への憎しみと同等かそれ以上に、自分と相手の落差に怒りを燃やして。
自分はこんな孤独な人生を送っているのに、なぜおまえは人々に囲まれて生きているのだ。慕われているのだ。幸せそうにしているのだ。俺の父を殺しておきながら。
そんな怒りです。その怒りゆえに、復讐の念は再度燃え上がったのではないでしょうか。
翻ってヒルドとトルフィンの対峙を見てみましょう。彼女が出会ったトルフィンは、傷跡こそあるものの壮健に育っていました。自身の罪を認めはしたものの、自らヒルドの矢を受けようとはしませんでした。一緒に旅をする仲間がいました。その仲間は、我が身を晒してトルフィンをかばいました。
復讐を胸に生きてきたヒルドにとってトルフィンは、憎悪を燃やすに足る相手だと言えるでしょう。
それでも彼女が復讐を仮にとはいえ止めたのは、呑まれた激情の奔流から浮かび上がり冷静さを回復させ、その時にエイナルやトルフィンの言葉を聞いて、己の中で引っかかっていたた父や狩りの師匠の言葉を思いだしたからです。
エイナルの言葉の前に彼女が激情を忘れ冷静さを取り戻したのは、皮肉にも、彼女自身が始めた一対一の勝負ゆえです。トルフィンを敵だと認識する前から、クマとの戦いを見ていたヒルドは、トルフィンの運動能力の高さを理解していました。狩る側と狩られる側という圧倒的に不均衡な立場とは言え、トルフィンを狩るには相応の集中力が必要であり、その集中力を出すには激情に駆られたままではいけません。「お前の心には怒りがある 怒りは目耳をくもらせる 山どころか何も見えんようになる」と言ったのは、彼女の師匠でした。狩りをするのに怒っていてはいけません。トルフィンを確実に狩るために、彼女は嫌でも冷静にならなくてはいけなかったのです。
それがいいことだったのかそうでなかったのか、冷静になったがゆえに、彼女はエイナルやトルフィンの言葉を聞く余裕ができてしまいました。激情の流れから浮かび上がった彼女の無意識は、トルフィンを赦す理性を得たのです。
復讐に燃える者が、その滾らせた憎悪や怒りを治めるには理性が必要で、その理性のためには冷静さが必要となります。冷静さを生むものが、敵の姿や振る舞いなのか、敵と対峙したときの状況なのか、はたまた別の何かなのか、それはケースバイケースというしかないでしょう。ただ、「赦し」のためには、それが確かに必要なのです。それがなければ、激情のままに復讐を遂げる。復讐の果てには何もない、とは使い古されたフレーズですが、それは激情に駆られた人間には届きませんし、果たしてそれは本当なのか、復讐を果たさなかったことで常に幸福が生まれるものなのか、それすらも実のところわかりません。復讐を果たしたことでそこからまた復讐の連鎖が生まれてしまうことと、復讐を果たした当人の気持ちはまったくの別物です。
上でも書きましたが、道を作り終った後の市九郎と実之助のその後は明らかにされていません。復讐は果たされたのか否か。そして、ヒルドの復讐は果たされるのか否か。
人の心に正解はないように、物語にも正解はありません。ただ、答えがあるのみです。私たち読み手は、描かれる答えを座して待つことにいたしましょう。



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