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漫画の話です。

『ヴィンランド・サガ』クヌートの愛と強い意志と孤独な道の話

さて、以前予告しておいた『ヴィンランド・サガ』の、クヌートと愛に関するお話。

愛についてはクヌート初登場の3巻以来、何度となく登場しましたが、彼が真に愛について感得したのは、6巻での、僧ヴィリバルドとの問答のなかでした。

「もうこの地上に私を愛してくれるものはいなくなった」
「それは大いなる悟りです だが惜しい
ラグナル殿のあなたへの思いは愛ですか? 彼はあなたのために62人の善良な村人を見殺しにした
殿下 愛とはなんですか?
(中略)
彼は死んでどんな生者よりも美しくなった 愛そのものといっていい
彼はもはや 憎むことも殺すことも奪うこともしない すばらしいと思いませんか?
彼はこのままここに打ち捨てられ その肉を獣や虫に惜しみなく与えるでしょう
風邪にはさらされるまま 雨には打たれるまま それで一言半句の文句も言いません
死は人間を完成させるのです」
「………………愛の本質が… 死だというのか」
「はい」
「……ならば親が子を… 夫婦が互いを ラグナルが私を大切に思う気持ちは 一体なんだ?」
「差別です 王にへつらい奴隷に鞭打つこととたいしてかわりません
ラグナル殿にとって王子殿下は 他の誰よりも大切な人だったのです・・・・・・・・・・・・・・・・ おそらく彼自身の命よりも…
彼はあなたひとりの安全のために 62人の村人を見殺しにした 差別です」
「わかってきた…… まるで 霧が晴れていくようだ……
この雪が… 愛なのだな」
「…………そうです」
「あの空が あの太陽が 吹きゆく風が 木々が 山々が…
……………………………………………………………なのに……………………
なんということだ…… 世界が……… 神の御技がこんなにも美しいというのに…
人間の心には愛がないのか」
(6巻 p29、30、59〜66)

この巻を読んで以来、何か重要なことを言っているはずなのにその具体的なところがいまひとつとらえきれない、そんなモヤモヤをずっと抱えてきていましたが、最新刊を読んで、既刊を読み返して、なんとなく見えてきたものがある気がします。
この愛についての問答で、作中の他の箇所とのリンクになるキーワードは2点。1つは、「死んで」「愛そのもの」となった人間は「憎むことも殺すことも奪うこともしない」ゆえに「すばらしい」ということ。もう1つは、「神の御技がこんなにも美しい」ということ。
前者については、17巻で、ヒルドの狩りの師匠が彼女に「山読み」の秘訣を語る際に口にされました。

獣はいい 食ったり食われたりしとっても 怒りも恨みもない
怒りを捨てろヒルド 山には要らん
(17巻 p133)

復讐を胸に秘めるヒルドに対して、師匠は「怒りを捨てろ」と言います。「怒りは目耳をくもらせ」「山どころか何も見えんようになる」と。怒るヒルドと対照的に、「獣は」「食ったり食われたりしとっても 怒りも恨みもない」のだと、彼らを評価します。
後者は、14巻で、王となったクヌートの前に和平交渉へ単身赴いたトルフィンを評して、クヌートが言った言葉です。

なんの切り札もないのか! 寸鉄も帯びず 散々殴られ 農場接収をやめろと言いに来ただけか! ハハハハハ!
面白い… これほどくだらない和平交渉は初めてだ…
だが……
美しい男だ……
(14巻 p137)

力でもって脅すでなく、知恵でもってやりこめるでなく、何の策も何の裏もなく自分の前に立って要求を告げただけのトルフィンを評して、クヌートは「美しい」と言いました。「あの空が あの太陽が 吹きゆく風が 木々が 山々が」「世界が」「神の御技」が「美しい」といい、それと対比するように「人間の心には愛がない」ことを嘆いたクヌートが、です。
上記の2点は、愛についての問答の中の「愛の本質は死である」という不穏な答えに対して、新たな補助線を引いてくれました。
まず1つめについて。
「死んで愛そのものになった人間」=「すばらしい」(∵「憎むことも殺すことも奪うこともしない」から)
というヴィリバルドによる式と
「獣」=「いい」(∵「食ったり食われたりしとっても怒りも恨みもない」から)
という師匠による式の類似は明白です。死んだ人間と獣がともによいとされているのは、彼らが他者から何をされても、ネガティブな感情または行動を起こさないからです。そこに差別なく応報を発生させないからです。
それは、以前の記事でも触れた「赦し」とは、似て非なるものです。「赦し」は、素直にされたことを受け入れるわけではありません。されたことに憤り、怒り、復讐心に駆られもします。でも、その上でそれらの感情を腹におさめ、「赦す」のです。決して感情が反応しないわけではないのです。
その意味で、「死んだ人間」や「獣」は非常に非人間的な存在であり、現に生きる人間と対置されているものなのでしょう。言い換えれば、人間的な反応こそ「愛」ならざるものなのです。
さて、ここで2つめの点が重要になってきます。
クヌートは問答のなかで、自然物に代表される「神の御技」を美しいと評しました。そして、策なく自分の前に立ったトルフィンも、同様に美しいと評しました。1つめの点で述べたように、神の与えたもうた愛に溢れたものとは、非人間的なものです。しかし当然のことですがトルフィンは人間です。にもかかわらず、クヌートは彼を美しいと、非人間的なものと同様な評価をした。これはどういうことでしょう。
素直に考えれば、このときクヌートはトルフィンを人間的とはみなかった、ということになります。
たしかに、屈強なヴァイキング戦士団に囲まれても死を恐怖するそぶりすら見せず、死んでもおかしくない暴力に身を晒しながらも一切反撃をしないトルフィンは、非人間的であると言えるでしょう。自己保存は、人間が生物である以上不可避の本能であり、それを最後まで抑えつけとおした彼の姿は、人間ならざる者に映ります。それゆえに、クヌートはトルフィンを自然と同質の非人間的な存在とみなしたのかもしれません。
しかし本当にそうでしょうか。
ヴァイキングの王となったクヌートは、かつてこう宣言しました。「この地上に楽土を作る 生き苦しむ者達のための理想郷を」と。そしてその企みは「神への叛逆」であるとも。「罪を犯し迷い続ける人間の姿そのもの」であるヴァイキングの王として、彼らを救うための楽土を作ろうとしているのです。
そう、クヌートは神の叛徒なのです。死んで愛そのものとなり、神の御元で無窮の幸福を得られるようになった死者ではなく、神の与えたもうた愛を失っている生者、現に生きている人間を救おうとする、叛逆者なのです。
そんなクヌートが、感極まった涙で美しいと評した「神の御技」と違い、清々しい笑顔でもって美しいと評した生者であるトルフィン。果たして彼は本当に非人間的な存在なのでしょうか。
むしろ、逆にこうも考えられるでしょう。つまり、生物に必ず備わっているはずの本能すら抑えつけられる意志を持っているのは、人間以外有り得ないだろうと。
「美しい男だ…… ヴァイキングの中からこんな男が生まれ得るのか……」
これが、トルフィンを評したクヌートの正確な言葉です。
クヌートはヴァイキングを、「混乱と破壊の担い手」「恐怖の略奪者」であり、それゆえに「罪を犯し迷い続ける人間の姿そのもの」と言いました。ヴァイキングとは美しさの対極にある存在であり、だからこそ救う価値があるとクヌートは考えていましたが、そんなヴァイキングの中から、美しさを持つ存在が生まれた。
私は、クヌートはここにヴァイキングの、人間の可能性を見出したのだと思います。自分とは違うやり方で、人間を救う可能性をです。
「混乱と破壊」「恐怖」をもたらすヴァイキングは、本能のままに生きていると言えますが、それと対置される、本能に打ち克つ意志をもつ者。それがトルフィンでした。そして重要なことは、クヌート自身も強い意志をもつ者だということです。「神への叛逆」を公言し、蛮勇荒ぶるヴァイキングを統べることなど、意志薄弱な者ではできません。彼は現世に楽園を作ることを企図する「孤独なる羊飼い」なのです。
おそらくその孤独さは、上でも触れた「赦し」のもつ孤独さと無縁ではありません。憤怒や復讐心といった強いネガティブな感情を呑みこむには、それを暴走させない強い意志が必要です。赦すためには強い意志が必要であり、赦した者は孤独にならざるを得ません。言ってみればクヌートは、神を赦したのでしょう。神は人間を作り、しかしそこに愛を与えず、にもかかわらず人間はそれを追い求めずにはいられず。結果人間は、終わりのない苦悩を生きる運命を背負いました。クヌートはその真実に絶望し、その上でそれを呑みこんで、楽園を作ろうと決意したのでした。絶望を受け入れてそれでも前へ進もうとしたクヌートの心。そこに強い意志を見ることは難しくないはずです。そして、他者には受け入れがたいその事実を受け入れてしまったことで、クヌートは孤独にならざるを得ませんでした。
でも、そんな彼と同等の強い意志を持つ男が眼前に現れ、自分とは全く違う選択肢を示した。平和への道を示した。このときのトルフィンの姿は、「神の御技」とは反対側にある、ヴァイキングの対極にあったと言えるかもしれません。「人間の姿そのもの」であるバイキングを中心に、一方の極には「神の御技」が、もう一方の極にはトルフィンが。その美しさは「神の御技」に迫るものでありながらそれと正反対のものだったのではないでしょうか。
トルフィンもまた孤独な道を歩む者です。しかし、クヌートの横にウルフがいるように、トルフィンの横にはエイナルがいます。孤独な人間が生涯孤独であるわけではありません。その孤独の基となった意志を共有できる人間がいれば、その道に刻まれる足跡は二つになるのです。
神が作った愛。人間にはない愛。それゆえに救われない人間。ヴィリバルドにとって、人間にはない愛は思考の終着点でした。「愛の本質は死」という救いのない彼の結論はそれを象徴しています。彼にとってその事実は絶望であり、呑みこんで前に進みには重すぎる事実でした。しかしクヌートは、そこを行動の出発点にしました。神が作った人間には愛がないから救われない、ならば神ならぬ自分が人間を救う楽園を作る、と。
ヴィリバルドとクヌートにとっての愛の違いは、それが終着点か出発点か、ということだと言えるのでしょう。


これで少しすっきりしました。でも本作には「本当の戦士には剣はいらない」という、数多くのキャラクターに感銘を与えてきた、そして私にはいまだに不明瞭の霧をまとわりつかせているトールズの言葉があります。いつか物語が進んだときに、この言葉の意味を把握できたら、また書きたいなと思います。



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