前回の記事で、木村紺先生の擬音使いについて触れましたが、それからちょっと派生して、木村先生のフキダシの使い方について少々。
フキダシと言えば中に文字を書いてセリフを表すものと相場が決まっていますが、それも使い方次第で色々な視覚的効果をもたらします。
まず一つに、前回書いたように、フキダシの中に擬音を入れることで、音と音を発生させたものに心理的な距離を感じさせる、あるいはその擬音があるキャラクターに固有のニュアンスを持って聞こえていることを表すことができます。
(神戸在住 5巻 p60)
(神戸在住 7巻 p114)
(からん 1巻 p141)
これについては、前回の記事とコメント欄のARRさんのコメントに詳しいです。
次に、コマを越境してフキダシが書かれるというものがあります。
(神戸在住 8巻 p28)
(神戸在住 9巻 p110)
前者の例は、小さめのフキダシがいくつも連鎖しており、その中に断片的な言葉、強く口語的な言葉が書かれることで、発話者の戸惑い、気後れ、迷いの入り混じったセリフが零れるように吐露されているのが表れているかと思います。
後者は、コマを越えてフキダシが繋がることで、発話の連続性が保たれていますね。
そして、フキダシで絵が区切られている、つまりフキダシがコマ枠の役を担っているものがあります。
(からん 2巻 p148)
(巨娘 1巻 p126)
(神戸在住 10巻 p112)
明確な直線でないフキダシで絵が分かたれること、そしてフキダシの中を読んでいる内にカメラの視点がいつの間にか変わっていることで、視点移動が気配の少ないさりげないものとなっています。「からん」の例が、それが綺麗に表れているんじゃないでしょうか。
「神戸在住」や「巨娘」で、コマ枠の外に地の文(前者では一人称、後者では三人称)を書くという特異な文字分野のスタンスをとっている木村先生ですが、フキダシの使い方もまたなかなかに気を遣われているようで。
余談ながら、コマにかかるフキダシなんかは、釣巻和先生の作品も面白かったりします。
「くおんの森」に見る、越境する絵、混交する頁 - ポンコツ山田.com
一言コメントがある方も、こちらからお気軽にどうぞ。