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漫画の話です。

夢の無い少年が流れ着いたのは、未知の世界の農業高校 『銀の匙』の話

中高一貫の進学校の中等部から、突然農業高校に進学した八軒勇吾。中学の担任に勧められるままに進学した農業高校は、その学習内容、学校生活、生徒や教師の面々、規格外の広さ等々、進学校にいた八軒の想像を遥かに超えるものだった。この三年間で、彼は一体何を学んでいくのか……

銀の匙 Silver Spoon 1 (少年サンデーコミックス)

銀の匙 Silver Spoon 1 (少年サンデーコミックス)

ということで、『鋼の錬金術師』で御馴染み荒川弘先生の新作、少年サンデーで連載中『銀の匙 Silver Spoon』のレビューです。
舞台は北海道の農業高校・大蝦夷農業高等学校。高校の敷地面積としては全国一を誇り、またクローン研究や受精卵移植のできる施設もある、農業関連としては非常に先進的な高校です。入学する生徒達も、北海道という土地柄、家業を継いだり、獣医を目指したり、新しい農業や畜産、酪農関係の業種を立ち上げたりと、なにかしらの夢を持っている生徒がほとんどです。
そんな高校に入学したのが、主人公の八軒勇吾中高一貫の進学校から、何をしたいという夢もないまま農業高校へ。夢はないけれど、とにかく家から出たい。家庭に対して何かコンプレックスがあるようですが、それはおいおい具体的に語られるでしょう。とにかく、進学校からはドロップアウトしたけれど、八軒にとって勉強そのものは一つのバックボーン。学年一番を目指し、実際それを可能とするのですが、その学力を将来どう活かすかのかについて何も思いつけない。そんな彼と違い、他の生徒は当たり前のように自分の未来を考えていて、満遍なく学力があるわけではないものの、自分の興味のある分野では八軒を越える点数をとる。その現実に圧倒され、八軒は強い劣等感を覚えます。

…なんだこの…… 
「夢持ってなきゃダメ人間」みたいな空気は……
(p34)

例えば実家の酪農家を継ごうと考えている御影。例えば獣医を目指す相川。例えば世界に伍する農業経営を学ぼうとする多摩子。クラスメートにはみな夢があり、それを一直線に目指すために、農業高校へ入学した。
周りの人間には夢があるのに、自分だけそれがない。そういう状況はひどく肩身が狭いものです。それが多感な高校生ならなおさら。劣等感は焦燥感を呼び、焦燥感は中身の伴わない徒労感を呼ぶ。そして空回りは、また劣等感をかきたてて。このスパイラルに巻き込まれると、いつかは絶望感がやってきます。入学早々そのとば口に立ってしまった八軒でした。
でも、そこから少しずつ八軒の意識を開かせるのも、農業高校そのものです。農業高校と言っても、その内容は農業科学、酪農科学、食品科学、農業土木工学、森林土木と多岐にわたっていますが、そのどれもが自然を相手にするもの。それまでの進学校で八軒が学んできた机上の論だけでは、立ち行かないものばかりです。
八軒の入学した酪農科学科。畜産の世話をするためには畜産のリズムで生活が回るので、朝五時起きなんてのも当たり前。基本的に動物は、生物的には人間より遥かに強いですから、彼らの習性を知らないと簡単に怪我をする。でも、そんな自分とはまるで違う存在と付き合うからこそ、見えてくることがある。

この感覚は、ただ高いところに登っただけでは得られません。馬に協力してもらって初めて得られるものです。
自分と違う種族・価値観・生まれ育ち… 未知のものと出会ったからこそ、得られるものがあります。
ですから我々人間は一人では見ることのできないこの景色を見せてくれる家畜に感謝して、日々お世話をするのです。
(p95、96)

八軒の入部した馬術部の顧問・中島の言葉です。初めて一人で馬に乗った八軒に、馬上から見たその景色と一緒に深く染み込みました。
また、畜産を学ぶ上で当然、人間の都合による動物の生き死にを目の当たりにすることになる。卵を産むために育てられているニワトリも、産卵率が下がれば群れごと総処分。ばんえい競馬の競走馬も、勝てなくなったらすぐ処分。そもそも畜産自体、人間が食べるために育てられているわけで。
相川が目指している獣医でさえ、動物を治すのだけが仕事ではありません。
ある獣医は言います。

殺れるかどうか。
特に経済動物を相手にしてる家畜獣医なんて、しょっちゅう命の選択を迫られるしね。
獣医になる夢を持って農大に入って、その選択を迫られた時に「やっぱだめだ」ってなる人はやはりいるよ。
だからと言って獣医になるのをあきらめた人がダメって事は無い。
世の中にはそういう「殺せない・殺させたくない」って優しい人達が頑張ってるから助かってる命がたくさんあるんだ。
どんな事でもね、叶うにしろ叶わないにしろ… 夢を持つという事は、同時に現実と闘う事になるのを覚悟する事だと思うよ。
(p134,135)

今まで自分が考えることのなかった世界。その世界に「覚悟」を持って携る人たち。そんな人や世界、動物達との出会いは、八軒をどう変えていくのでしょう。


とまあこんな具合の第一巻。実際に農業高校で学んだ荒川先生の経験が色々つまっているようです。将来と自分に自信のない少年を、『ハガレン』以上に勢いのあるコメディを交えつついかに描くのか、楽しみです。
一巻最終話で、学校掃除の最中になにやら面妖なものを発見した八軒たち。これで『タカヤ』レベルに話がぶっ飛んだら笑いますが、まあそれはどうかな。
ちなみに、タイトルになっている「銀の匙」。作中では食堂の入り口の上にそれが飾ってあり、他の生徒はその意味が分かっているようですが、八軒にはわからない。私も、「銀の匙」に関する言い伝えは、西洋では、銀のスプーンをくわえて生まれた赤ん坊は幸せになると言われている、くらいのものしか知りません。そこから何か繋がっているのか、あるいはまた別の風習があるのか。中勘助も関係なさそうだし。

銀の匙 (岩波文庫)

銀の匙 (岩波文庫)



荒川先生が農業高校で学んだと上で書きましたが、エッセイ漫画『百姓貴族』でそこらへんの話は描かれています。本作中で描かれているエピソードもいくつか見られますね。あわせて読むと、尚面白いかと思います。
百姓貴族 (1) (ウィングス・コミックス)

百姓貴族 (1) (ウィングス・コミックス)

「百姓貴族」に見る、荒川弘の人間観のルーツの話





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