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漫画の話です。

『銀の匙』知識の「闇ナベ」の話(縦横につながる学問の話 その2)

妙なタイミングの発売だなと思ったら、実写映画の公開にあわせてなんですね、『銀の匙』。

進級を間近に控え、八軒たちがいよいよ寮から離れることとなった11巻。引っ越しの荷物整理をする中で、男子の部屋からは、備えておいたはいいもののすっかり存在を忘れていた保存食が続々と見つかります。引っ越し先に持ってくのは面倒くさいし、かといって捨てるのももったいない。結果、彼らが考え付いたのは楽しい処分方法。すなわち闇鍋。
もちや米、コーン、肉などの安牌どころはともかく、豆科牧草、納豆、イカの塩辛、熊の胃、ヨーグルト(男湯に沈めて発酵)、ジンギスカンキャラメルなどの劇薬レベルのものまでぶっこまれたモザイク処理必至のソレに、男(漢)たちは覚悟をもって箸を突っ込むのですが、意外や意外、びっくりするほど美味い。
彼ら曰く「俺たちには闇ナベの才能が無い!」。
とまあ、一年間バカなことをやってきた男子どもを見て、嘆息交じりに女子らが言います。

「あいつら単体ではアホばっかだけど、集まるとたま〜に妙な天才力を発揮するよね。」
「普通アホ同士ってのは「混ぜるな危険」よね。」
「「「「「なに?」」」」」
いや、あんたら闇ナベみたいだなあって。
(11巻 p139)

その言葉を聞いた男子たちは悪口を言われたかと被害妄想に囚われますが、文脈的にはこれは、むしろ褒め言葉。なんかようわからん奴らが集まって、なんか知らんけど妙にいいものができる。それがこの場合の「闇ナベ」。
さて、このシーンを読んで思い出したのが、以前自分で書いたこの記事。

そして、様々な分野を研究していると、ある分野において、一見まったく関係のなさそうな分野の考え方が使えることに気づくことがあります。ある体系の中に異物とも呼べるものが闖入することで、それまで見過ごされてきた糸口が見つかることがあるのです。
『銀の匙』縦横につながる学問の話 - ポンコツ山田.com

ここでは、既存の体系への異物の闖入という話でしたが、そこが体系でなくとも、いや、体系でないからこそ、全く関係のなさそうなもの同士が出会うことで、「闇ナベ」のように、予想もしなかった面白いものを生み出すことがあるのです。
記事自体は二年前ですが、最近読んだ故スティーヴ・ジョブズについての記事でも、これと通ずることが書かれています。

「半年もすると、そこに意味を見いだせなくなりました……ドロップアウトした瞬間興味のない必修科目とはおさらばして、面白そうな授業に潜り込むようになりました」。ジョブズはカリグラフィの授業に潜り込んで「その面白さに魅了された」と語る。
「これらがわたしの生活になんら役に立つはずもありませんでした。ところが10年後、最初のマッキントッシュをデザインしているときにそれが戻ってきたのです。もっていた知識をすべてMacのなかに盛り込みました。それは美しいタイポグラフィを内蔵した初めてのコンピューターとなりました。あの授業に潜り込むことがなければ、Macがマルチプルタイプフェイスも非固定ピッチフォントも手にすることはなかったでしょう。そしてウィンドウズがそれをコピーしたことで、それをもたないパソコンは存在しないまでになったのです」
もし大学をドロップアウトして、カリグラフィの授業に潜り込むことがなければ、コンピューターが「美しいフォントをもつことはなかったかもしれない」と、彼は語る。
「これらの点を未来に向けて繋げることはできません。過去を振り返ることでのみ、それらが繋がっていることがわかるのです。ですから、これらの点がやがて未来で繋がることを信じていなくてはなりません。何かを信じなくてはいけません。根性、運命、人生、業、なんでもいいんです。なぜならいずれ点が繋がると信じることが、己に忠実に生きる自信を与えてくれますし、たとえ月並みな道から足を踏み外したとしても、それは大きな意味をもってきます」


ハングリーであれ、愚かであれ – ジョブズが遺した14のレッスン【14】 from 『WIRED』VOL.2

カリグラフィとコンピューターという、一見無関係なものが出会ったケミストリーによって、Macのマルチプルタイプフェイスや非固定ピッチフォントといったものが生まれ、そしてそれは、いまや世界中のパソコンに浸透しているのです。思いもよらないものが出会う知識の「闇ナベ」は、時として世界規模の発明すら生み出します。
また、「これらの点を未来に向けて繋げることはできません。過去を振り返ることでのみ、それらが繋がっていることがわかるのです」というジョブズの言葉は、学校という場で学ぶことそのものに繋がってきます。
学校、特に義務教育である小中学校では、多くの生徒が、今現在自分が学んでいるものが将来どんな役に立つのかわからないまま、勉強に向かっています。しかしそれは当然のことなのです。今現在の自分、すなわちまだ10代前半の人間にとって将来何が役に立つかわかるほど、人生は単純ではありません。
国語の文法が何の役に立つ、社会の歴史が何の役に立つ、理科の化学反応式が何の役に立つ。そんな疑問に答えられるわけはないのです。だって、将来それぞれの生徒がどんな人間になるか、誰もわからないのだから。
だから、あえて答えるならこうなるでしょう。
「なにが役に立つかわからないのだから、やっておけ」
ついでにもう一言言っていいのなら、こう言ってやるでしょう。
「なんだ、お前の人生は15歳の今でどうなるかわかってしまうものでいいのか」
未来の自分に役立つもの。それは現在から未来を見てわかるものではありません。ジョブズの言葉通り、「過去を振り返ることでのみ」(未来における)今の自分に何が役立っているのかわかるのです。
また、八軒の担任・桜木は11巻でこんなことを言っています。

学校ってのはさ八軒、おまえらのためにある畑なんだよ。そりゃ規則があって窮屈な所もあるけど、どこ耕してもいい宝の畑だ。
頭で学ぶも良し。胃袋で学ぶも良し。筋肉で学ぶも良し。機械から学ぶも良し。動物から学ぶも良し。人から学ぶも良し…
そういう人たちとのつながりを作るのに丸々3年費やしても良し。どこを耕すかは自由だ。
(11巻 p98,99)

この言葉は、額面通りに受け取っても十分大事なのですが、これが学校という場についてのものだと考えると、その裏側も非常に重要になってきます。つまり、学校というものが大人数で一定の作業を共同で行う場である以上、何かを意図して学ぶその傍らで、意図しないで学んでいるものもある、ということです。
桜木先生の言うとおり、学校は、各人が「どこを耕すかは自由」になっている場所で、当然自分と違う分野を耕す人間がいるわけです。文系理系のクラス分け、部活、委員会、小中学校の先輩後輩など、クラスや学年を越えた人間関係は見つけようと思えば意外に見つかるもので(実際に八軒は、「断ら(れ)ない男」の異名を背負うこととなった振る舞いのおかげで、科の違う上級生にも多くの知己を得ています)、そういうつながりを通じて、自分だけでは目のいかなかった分野に興味を持ったり、知識を教えてもらったりできるのです。そういえば八軒も、11巻の中で「人のつながりって作っておくもんだなぁ…」(p76)としみじみ言っていますね。
意図しないものを意図しない形で得ることができる場所。それが学校だと思うのです。
無論のこと、得たものが将来役に立たないこともしばしばあります。今から学生時代を振り返って、「あれが何の役に?」と思うことも多々あるでしょう。けどそれもやはり、今現在という時点から過去を振り返ったときに、繋がっていないということであって、今からさらに未来を考えれば、どうなるかわかりません。畑の土作りが何年もかかるように、過去に蒔いた知識の種が芽を出すのも、今ではなくもっと先かもしれないのです。
ま、もちろん死ぬまで芽が出ない可能性も十分にあることも確かなのですが。
なんでもかんでも勉強すればいいってものではないけれど、興味があるもの、面白いと感じたものには精力的に取り組むと、それをやって楽しい今だけでなく、未来にも何か芽が出るかもしれませんね。



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