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漫画の話です。

言葉以外で与えられる、強さや「天才」の説得力の話

もう将棋漫画なんだかなんだかわからないところに行き着きそうなくせにどうにも面白い『ハチワンダイバー』。

ハチワンダイバー 20 (ヤングジャンプコミックス)

ハチワンダイバー 20 (ヤングジャンプコミックス)

もうひょっとしたら行き着いてしまっているのかもしれないけれど、それでも将棋の対局が魅力的なのには違いない。金銭を賭けるシンケン勝負がいつの間にか、誰かを自分に従わせる権利、オリンピックの開催権、果ては端的に生命まで賭ける勝負になっている。金銭だって、金額がかさめば平気で人の命に関わってくる。趣味とか仕事とか、そんな生易しい世界ではもうハチワンダイバーこと菅田たちは将棋を打っていない。
一国の命運さえ賭けるような次元でキャラクターたちは将棋を打つ。それを見て歓声をあげる将棋狂の観客にとって、彼らはまるでスターやアイドルのように魅力的に映る。「まるで」ではなく、スターそのものなのだろうけど。
実際、作品を外から読んでる自分だって、菅田の対局姿には心打たれる。スターやアイドルなどのようなストレートにポジティブな印象ではなくても、恐れ入るというか、唾を飲むというか。端的に言えば「こいつやべえ」。コミックス最新刊の段階では、菅田が最後に対局したのは「日本で一番ケンカの強イ男」ジョンス・リー。持ち時間50時間ずつ、合計100時間ぶっ続けでの対局。100時間。丸4日間でもまだ足が出る。「コレハ…将棋なんですか?」と菅田が問うのも無理はない。法外なんて言葉でも追いつかない。キチガイ沙汰でもまだ足りないか。既にそれは、将棋以外の何かだ。でもリーは即答する。「将棋だ」と。疲労困憊。風前の灯。それでも菅田は勝った。負けたらその瞬間に死ぬんじゃないか。そうリーに言われても、勝った。その姿に観客も自分も熱狂した。
現段階で将棋の強さランキングをつけるとして、菅田はどのあたりにランクインするだろうか。とりあえずそよよりはまだ下だろう。必然的に谷生よりも卑弥呼よりも下だろう。鈴木八段よりも下だろう。チッチはどうだろうか。彼女は筐体に負けてるから菅田の方が上かもしれない。でもまだチッチの本気は出てないからわからないか。ただ、澄野より強いかもしれない。三匹の鬼よりも上かも。ともあれ、最上位グループかその一つ下くらいだろう。すごいぞ菅田。いつの間にここまで強くなった。
この作品中には何人も天才的な強さを持ったキャラクターがいるが、菅田はその一人だと言っていいだろう。初めから最強クラスの力を持っていたそよと違い、菅田はそよと出会って以来急速に実力をつけている、つまりその成長過程が見える強さだ。将棋は何ができるようになったから強い・上手いという指標がない分野なので(プロの段位は一つの指標だが、裏の世界である真剣師にとってはあまり関係がない。もちろんタイトルホルダーは別格の強さを誇るのだが)、菅田の強さは別の強者を倒すことで見ることができる。じゃあその別の強者とやらの強さは何で担保されているか。それはもう伝聞としての強さ、強いと看做されているから強いという堂々巡りに陥ってしまう。つまり、菅田の成長を描くには、その堂々巡りにどのようにして説得力を持たせるかが肝要になってくる。
その一つの到達点が、間違いなく17,18巻でのジョンス・リー戦だ。100時間ぶっ続け将棋という狂気の沙汰で、限界ギリギリまで追い込まれながら勝利する。ただの頭脳戦ではなく、かといって体力があればいいというものでもなく、常人の殻を破らなければ成立さえしないであろう勝負での勝利だからこそ、菅田の成長、様々な意味での強さは説得力を持つ。ありえないような勝負の設定。そして、以前も書いた『ハチワンダイバー』の読み手を吸い込む表現(『ハチワンダイバー』の持つ読者の吸引力)。それの合わせ技として、菅田には強さと一緒に人を引き込む魅力が付与された。菅田の対局を見た観客が我知らず雄叫びを上げたように、読み手も彼の姿に心打たれる。
この有無を言わせぬ設定と描写。物語の域を超えた絵としての説得力。それは、バレエの「天才」を描いた作品『昴』でも見られる。
昴 (1) (ビッグコミックス)

昴 (1) (ビッグコミックス)

主人公・昴はバレエの「天才」であり、それについては以前も書いたが(『昴』に見る、「天才」の人間関係の話 前編/後編)、彼女の見せる常人を越えたパフォーマンスは、ただそういうものだという言葉だけでなく、彼女のパフォーマンスを生まれて初めて見るものと感動する観客。そしてその観客の感動に説得力を持たせる、実際に紙上で形を持つ昴のダンスの描写。この二つが合わさることで、読み手には昴の天才的なパフォーマンスに言葉以上の説得力を覚えるのだ。
天才と呼ばれるキャラクターは多くの作品に出てくる。特に芸術方面の天才であると、彼/彼女のパフォーマンスの天才性は、何かの賞をとったという事実や、そのパフォーマンスに感動する受け手を通して描かれ、実際にそのパフォーマンスがどのような凄みを持ったものであるかまでは描かれない。つまり、その埒外なパフォーマンスの高さは作中の人物しか実感することはできず、作品の外にいるこちらまでは漏れてこないのだ。
ハチワンダイバー』も『昴』も、その設定と描写により、作中に留まらないキャラクターのパフォーマンスの高さを描き出している。特に『昴』におけるダンスの筆致は、正に有無を言わさないものだ。これはすげえと唸らざるを得ない。「天才」が「天才」として存在していることを、作品世界を飛び出して読み手の説得にかかる。「天才」には人格が在ると以前書いた(日本橋ヨヲコ作品に見る人格としての天才の話 「駆り立てるもの」が繋ぐ「天才」と「狂気」の話)けれど、結局のところパフォーマンスが伴わなければそれは、下手の横好きでしかない。好きこそものの上手なれ。下手の横好き。ものは言いようだけど、高いパフォーマンスを出さない人間に「天才」の称号が与えられない。
強さ。「天才」。言葉だけではない説得力を与えられたそれらを持つキャラクターは、光って見える。



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