- 作者: 羽海野チカ
- 出版社/メーカー: 白泉社
- 発売日: 2009/08/12
- メディア: コミック
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私は羽海野先生の絵がとても好きで、各話の表紙絵がどれも多幸感に溢れている印象深い絵なので、話の中に川本家が登場していなくても、ついついいる気になっていました。
前半は川本家との交流を描いた「家族」パート。後半は棋士との対決を軸にした「将棋」パート。閉じていた零の心が「家族」に触れて少しずつほぐされていく前半の優しい空気がある分だけ、きりきりと心を引き絞るような後半の「将棋」の世界の厳しさが強調されているようです。特に二巻ではそれが顕著でしたね。
「家族」も「将棋」も零の人格形成の大きな要因だと思うのですが、今日はその二つの関係やら何やらを掘り下げて考えてみたいと思います。
最初の「家族」と「将棋」の役割
まず零君の年少時代。
彼は「近所でも学校でもいじめられっ子で どうしても友達が作れなかった」のですが、「将棋は苦手だったけれど 忙しい父と一緒に過ごせる大事な時間だったから 一生懸命がんばって」いました。
友達付き合いの上手くなかった彼の年少時代を支えてくれたのは、家族と将棋、そしてもう一人、父の友人で後に零の師匠となる幸田です。
父の友達なのに そのヒトが来るとボクは なぜか そわそわ うれしくなった
(中略)
盤をはさんでのそのヒトの言葉は ちゃんといつもボクの中に沁みてきた
大人なのにちゃんとボクは「語りかけて」くれてるって
――それがわかった
そんなヒト 家族以外ではただ一人だった……(1巻 p151,152)
この頃の零と濃密なコミュニケーションをとれていたのは、家族と幸田の計四人。いわばその四人が彼の世界であり、そして将棋がその世界と自分とをつなぐよすがでした。
ですが、零が小三の時に悲劇が襲います。彼以外の三人の家族、両親と妹は、飲酒運転のトラック事故の巻き添えになり、帰らぬ人となってしまいました。
世界のほとんどを喪い、同時に「『ほっとできる時間』も365日の中で一瞬も無くな」ってしまうのを寸でのところで救ったのが、残った世界である幸田であり、それを結びつけたのもやはり将棋でした。
零にとって、将棋は決して楽しいものではありませんでした。零にとっての将棋はあくまで世界と自分を繋ぐ糸、目的に対する手段でしかなかったのですが、喪った「家族」を再び別の形で得るために、彼は嘘をついたのです。
「……君は 将棋 好きか?」
「……はい」
嘘だった…… (これが契約の瞬間だった)
人生で初めての (将棋の神様と僕の)
生きるための (醜い嘘でかためた)
――そして決して戻れない……(1巻 p164,165)
この時、零にとって将棋は手段から目的へと昇華しました。それがたとえ嘘で塗り固められたものだとしても。
「家族」を喪った零は「将棋」で「家族」を再獲得するために、「将棋」が目的であると詐称したのです。
二度目の「家族」と「将棋」の皮肉な功罪
幸田の家へ内弟子として住み込み始めた零は、幸田を「お父さん」と呼びます。「家の中で師匠と呼ばれるのも落ちつか」ない幸田が「将棋のお父さん」だからとそう呼ばせたのです。
零は養子ではないので、幸田は法律上の父親ではなく、また幸田家も法律上の家族ではないのですが、それでも零にとっては幸田は父であり、幸田家は家族でした。その二度目の「家族」の一員であるために、零は将棋に打ち込みます。手段から目的に差し替えられたはずの将棋は、内面ではいまだに手段に過ぎなかったのです(それは幸田家の子どもである香子や歩においても、それほど事情は変わらなかったのですが)。
ですが、「家族」であるための手段だったはずの「将棋」が、目的である当の「家族」から彼を追い出す原因となってしまいました。内弟子に過ぎない(本当の子どもではない)零に将棋で追い越された歩と香子は自らの道を見失い始め、それが幸田家全体の歯車をも狂わせていったのです。
零は決心しました。家を出よう、「家族」から離れようと。
家を出よう
一刻も早く 出なければ…
僕が あの家の人たちを 父さんを喰いつくす前に…
僕はカッコウだ
おしのけた命の上に立ち
春を歌えと 呼ぶ声をきく(1巻 p178,179)
家を出る零の心は二つに引き裂かれています。
「家族」が好きだ。でも、好きだからこそ壊しつくしてしまう前に離れなければいけない。
皮肉にも、「家族」から離れざるを得なくなった理由であるはずのの将棋のおかげで、彼はプロ棋士としてお金を稼いで、一人でも生きていけるのです。
零から「家族」を奪った「将棋」が、これ以上の「家族」の崩壊を止めてくれる。皮肉以外の何物でもありません。
「将棋」から離れた三度目の「家族」
幸田家を離れ一人暮らしを始めた零。時期は明らかになっていませんが、おそらくプロ棋士(四段)になり中学を卒業してからすぐのことでしょう。1話の時点で、零が高校1年(一年遅れ)の初夏ですから、さらに一年以上前ですね。
あるいは、さすがにカーテンも無しに一年以上というのも無体な話ですので、高校に編入してからのことかもしれません。この問題はどうとも取れる情報が多いので、確定が難しいところです。
まあそれはともかく、一人暮らしを始めた零は「カーテンもテレビも無い部屋で まるで電池が切れたみたいに 対局と時々学校に行く以外では 毎日 毎日眠り続けてい」るような生活を続けていました。
二度目の「家族」の崩壊を食い止めるためにプロになって幸田家を出た零は、その時点ではこれ以上何をしようという気力も無く、希望を持たない代わりに絶望も味わわない、停滞を選択します。
泳いで
泳いで 泳いで 泳いで
泳いで 泳いで 泳ぎぬいた果てに
やっと辿り着いた島――
ここまで来ればもう大丈夫だ
ここにさえ着けば…
ここにさえ居続けられれば…
あれもこれもと多くを望まなければ
停滞を受け入れてしまえば
思考を停止してしまえれば
もうここはゴールで
そして
もう一度 嵐の海に飛び込んで 次の島に向かう理由を僕は もうすでに 何ひとつ持ってなかった(2巻 p20〜22)
希望はいらない。だから絶望もいらない。
もう一度「家族」を求めることもしない零はルーチンワークのような楽しみのない生活を続けますが、そんな彼が出逢ったのはあかり、そして三度目の「家族」である川本家でした。
川本家は、直接「将棋」をよすがとして出会ったものではありません(遠因ではありますが)。路上で酔いつぶれている零が面倒見のいいあかりに偶然助けられ、それが縁で川本家とのつながりができました。
あかりが動物を拾ってくるのには慣れっこだった川本家も、人間を拾ってきたのにはさすがにビックリしたものの、すぐに零に親しくなりましたが、当の零はその輪(和)の中に諸手を挙げて飛び込むことができず、余所余所しさがしばらくついて回っていました。
推測でしかありませんが、二度の「家族」の喪失(それも片方は自分自身のせいで)を経験した零が、「家族」を得ることに臆病になってしまったからでしょう。
決して「家族」が欲しくないわけではありません。ただ、過分なものを望んでまた喪ってしまうのが怖いのです。だから、小さな分だけ喪ってもそれほど傷つかない幸せで満足してしまおうとしています。
なんだか 「おいで」と言ってもらえる場所ができただけで……
そのコトバだけで
うれしくて おなかがいっぱいで
もう 充分な気がした(1巻 p73)
さて、将棋とは関係のない世界で出会った川本家を機に、零は「将棋」についても「家族」についても今まで気づかなかったことに目が向くようになっていきます。手段と目的として結びついていた「将棋」と「家族」を、別々に考えられるようになっていったのです。
その夜は あったかいごはんといろんな出来事で おなかの中がフワフワして なかなか眠くならなくて
遅くまで詰将棋の問題をえんえんとき続けた
・・・ふと気づくと 6階の僕の部屋まで 水の匂いと 波の音がのぼって来ていた
(きいてみたかったんです)
彼が僕に訊いたように 僕も誰かに尋ねることのできる日が来るとしたら
いつか
その目に映ってきた景色を 嵐の向こうにあるものの話を
――そう
ゴールの向こう側について語られる物語を
僕はまだ知らない(2巻p53〜55)
あかりさんのその言葉でよぎったのは父の面影だった
(中略)
そうだ 何で忘れてたんだろう 僕は今 父さんがこがれた棋士の世界に
立っているんじゃないか……
なんで…
なんで忘れていられたんだろう こんな大事なことを(2巻 p98〜101)
これは零の大きな変化です。「ゴールの向こう側」を見る彼は、停滞からの脱却を指向していますから。詐称でしかなかった目的としての「将棋」が、「家族」から分離して名実共に目的、目指すものとして意識されたのです。
手段としての「将棋」。目的としての「家族」。
この鎖に縛られていた零は、川本家に出会うことで少しずつ自由になろうとしています。
手段として将棋をしなくてもいいんだ。なにかを捧げることで家族を得ようとしなくてもいいんだ。
将棋はただ将棋であるために目指してよいのだし、家族は目的として得ようとしなくてもよい。
零を停滞に縛り付けていた呪縛は、川本家によって少しずつ解かれようとしているのです。
3巻まで読んで初めてこう考えることができたのですが、ほとんど2巻までの内容ですね、これは。
3巻では、零は「家族」と「将棋」についてより深く感じるところがあるのですが、それを意識して初めて「家族」と「将棋」の関係性について考えられたようです。
長くなってしまいましたので、「家族」と「将棋」それぞれについてはまた個別に書きたいと思います。
あ、余談ですが、スミス先輩って日本人だったんですね。
白色人種のプロ棋士を出すとは大胆なりと思っていたら、「三角龍雪」って、バリバリの日本名じゃないか。なんだよ、スミスはあだ名かよ。
あと、島田八段を見て「ハチクロ」の根岸さんを思い出したのは俺だけじゃないはずだ。
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