- 作者: ツジトモ,綱本将也
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2009/07/23
- メディア: コミック
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「GIANT KILLING」で登場するチーム名は、基本的に実在するプロチーム名からとっていますが(東京ヴェルディ→東京ヴィクトリー、ガンバ大阪→大阪ガンナーズ、名古屋グランパス→名古屋グランパレスなど)、その例外が主人公チームであるETUこと「East Tokyo United」です。
好きに弄繰り回す必要のある主人公チームですから、架空のチーム名になるのは当然と言えば当然ですが、ではなぜそのチーム名がETUになったのでしょうか。
架空のチームなのですから、好きに作っていいはずです。マッカチン高崎でも、津オキシドールでも、先斗町ポチョムキンでも、ディズニー浦安でも何でも。あ、最後のは色々まずいか。
全国津々浦々の地名を退けて、チーム名を「East Tokyo United」にしたのは、具体的な名前を出して余計なプラスもマイナスも与えないようにするという配慮以外になんらかの意図があったのでしょうか。
「GIANT KILLING」には、最初から提示されるキーワードの一つとして「地元」があります。
それは「故郷」と読み替えてもいいのですが、第一話の時点から、有里(この名前もなんだか象徴的ですが)や達海の口から、
そっか……/わかりました
この町が/居心地のいい理由……
似てるんです
私たちのクラブの町の人達に
(中略)
だから/なんだか温かいんだ(1巻 p54,55)
いーねこの町……/気に入った
(そうかそうか/どこがいい)
何か似てたんだ……/俺の好きだった町の人間に
(……お前さんの故郷かね?)
故郷?/はは
ま……/そんなとこかな(1巻 p62,63)
などの言葉が出ています。
また、10巻のカレーパーティーの話でも
何も起きてないよ/皆で仲良くカレー食べてら
選手も
フロントの人間も
地元の人達も
食堂のおばちゃんもジュニアのコーチも/皆一緒になってひとつのことを共有してる
これがクラブだよ後藤
ピッチに立ってるのは11人……/でもそれだけじゃリーグ戦の長丁場は戦えない
ベンチ/フロント/サポーター/クラブにかかわるたくさんの人……
その全てが同じ方向を向いて/同じ気持ちで戦うんだ
それができりゃ/ETUはもっと強くなる(10巻 p41〜43)
と達海は言い、それが繋がっての川崎戦でも
俺達は11人で戦ってるんじゃない/ETUってクラブチームで戦ってるんだ
特に今日の試合はそういう意味でメンバー選んでっからね/クラブってもんをよくわかってる連中さ
(え/どういうことですか?)
カレーパーティーやったじゃん
(あ…はい)
今試合に出てんのは/そんときよく働いてくれた奴らだよ
(中略)
食堂のおばちゃん手伝ったり/フロントの人間と一緒に何かやったり/地元の人達としゃべったりサービスしたり……
そういうのがクラブの結束を高めるんだ
ボール蹴るだけが仕事だと思ってる奴には出来ないことだよ(11巻 p78〜80)
と発言しています。
このように、「GIANT KILLING」では「地元密着」や「クラブの結束」などの点を強調しているのですが、このような点を名前の上でも印象付けるために、「East Tokyo United」と名づけられたのだと思います。
では、なぜこのネーミングでそれが印象付けられるのかということを、「幻想」の観点から考えてみましょう。
「幻想」。唐突にでてきた単語ですが、映画を例にとって説明していきます。
ジブリの名作「となりのトトロ」や、数年前に公開された「ALWAYS 三丁目の夕日」などをご覧になった方も多いかと思いますが、その作品の情景を見て「懐かしい」と思った人も同様に多いのではないでしょうか。「トトロ」の田舎の田園風景や、「ALWAYS」の下町情景など、「これぞ郷愁」といったシーンがてんこ盛りです。
で、それを一気にぶっくら返すことを言えば、それらのシーンを真実懐かしいと思える人、つまり、かつて実際に親しんだ情景を作品を見ることで想起している人は、ほとんどいないはずです。
「トトロ」の田園風景は
時代設定は昭和30年代初頭とされているが、宮崎は「テレビのなかった時代」と述べており、特定の年代を念頭に置いて演出したわけではない。
宮崎は、トトロと主人公たちが住んでいる緑豊かな集落のイメージの由来について、かつて在籍した日本アニメーションのある聖蹟桜ヶ丘、親族が女将を務めており子供の頃よく遊んだ鶴巻温泉(神奈川県秦野市)の元湯・陣屋、子供のころに見て育った神田川、宮崎の自宅のある所沢、美術監督の男鹿和雄のふるさと秋田など様々な地名を挙げており、作品の風景はこれらが入り混じったものであって、具体的な作品の舞台を定めたのではないとしている。(Wikipediaより)
とあるように、公開当時にしても30年前。その光景(類似した光景)を実際に眼にした層はけっこう限られますし、メインターゲットであるちびっ子(当時の自分含む)にしてみれば、テレビなどの記録でしか見たことのない世界です。
現代ならなおさら。なにしろ50年以上前です。日本中を探せば、まだあのような風景もあるのかもしれませんが、それにしたってほとんどの人間は味わっていないことに変わりはありません。
「ALWAYS」も「トトロ」とほぼ同時期の下町が舞台。それを味わえた人間も同様に少ないですし、単に田舎である「トトロ」と違い、「下町」(東京で言う、山の手(武蔵野台地東端部分)の周辺をなす崖線より下側の地域)という括りのある「ALWAYS」の方がさらに数を減らすのではないでしょうか。
これらの作品を見る殆どの人間は、これらの光景を実際に見ていることはない。にもかかわらず、人はそれを見て懐かしいと思える。それが「幻想」の力です。
「幻想」はその名の通り現実のものではありません。正確に言えば、現実である必要のないものです。現実に存在しようとしまいと、現実に体験しようとしまいと、その「幻想」が存在することに同意さえすれば「幻想」は意味を持ちうるし、それが大多数の人間に承認されれば、その「幻想」が幻想であること、つまり実体を持たないことに異議を挟む意味もなくなるのです。
「トトロ」の例で具体的に説明すれば、「トトロ」は(大人も楽しめるものではあっても)子どもをターゲットとした映画ではあるでしょうが、その製作、宣伝、公開の過程はほぼ100%大人の手によってなされたものですし、また、子どもが実際に映画館で、あるいは家のテレビで観るときには大人がそばにいるのが常でしょう。子どもが「トトロ」を楽しむ時には、作品そのものを子どもの感性のみで味わうことはできず、そこには意図的にしろそうでないにしろ、大人の感性がつきまとわざるを得ないのです。
それは、作り手の「昔はこのような情景があったんだよ」というものかもしれないし、宣伝の中での郷愁を煽るキャッチコピーかもしれないし、一緒に見た大人の「昔はこういう情景があったんだよ、なつかしいな」という感想かもしれません。なんにしろ、「今はないけどかつては確かにあった古き良き情景」という外からもたらされる感性込みで子どもは「トトロ」を観て、「今はないけどかつてはこのようなものが確かにあったんだ」と刷り込まれ、「幻想」の再生産に加担するのです。
こうして、実体を知られないままに「幻想」はその存在の同意署名を増やし、社会に流布していくのです。
そして、子どもに刷り込みを与えた大人でさえ、「幻想」の実体を知っている必要はありません。子どもが「トトロ」を通じて「幻想」を刷り込まれたように、大人もまた別の形で「幻想」を刷り込まれていればよいのです。
「シグルイ」風に言えば、「幻想」は、少数の実体を知っているものと多数のそれに同意したものによって構成されている、ってとこですか。まあ最終的には実体を知るものがいなくなっても「幻想」は存在できるんですがね。
折りしも戦後復興から高度経済成長を経たバブル絶頂期。当時の大人たちも、映画ほど壮大な田舎ではないにしろ、あれよあれよという間に姿を消していく自然を目の当たりにしていたと思われます。そこに寂しさを感じていたのか、あるいは経済成長の証しとして快く思っていたのか、当事者でない私にはわかりませんが、事実としての自然の減少は確かに実感していたことでしょう。それに自分で意味をつけることもできますが、上手くできた「物語」はそこに実によくできた意味を与えてくれます。「トトロ」はまさにその好例で、自然の中で仲良くのんびり暮らす家族の姿は、今はもう簡単には見ることのできない「古き良きもの」としての意味を与えるのです。
同様に「ALWAYS」も、
昭和33年(1958年)の東京の下町を舞台とし、夕日町三丁目に暮らす人々の暖かな交流を描くドラマに仕上がっている。(当時の港区愛宕町界隈を想定している。)
(中略)
山崎貴監督によると当時の現実的情景再現以上に、人々の記憶や心に存在しているイメージ的情景再生を重視したようである。(Wikipediaより)
のように、「現実に当時の東京の下町がどのような光景だったか」よりも、「当時の下町を想像したときにどのようなものを思い浮かべるか」を重点的に作った、つまり「幻想」を活かすことを重視したのです。
そして、この「下町」の「幻想」こそが、「GIANT KILLING」の「East Tokyo United」に繋がるのではないでしょうか。
「East Tokyo」、つまり東東京ですが、具体的に東東京と西東京をどこで分割するのかは異論がありそうなので一例として高校野球を出すと、「東京23区のうち、中野区、練馬区、杉並区を除いた20区と伊豆諸島、小笠原諸島に所在する東京都の学校」とのことです。「ALWAYS」の港区も含まれますし、ETUのホームタウンである台東区*1も含まれます。ちなみに「下町」の対義語となる「山の手」は時代と共に変遷するのですが、昭和30年代では、23区のさらに郊外が東急田園都市線などの多摩丘陵開発により、「山の手」と呼ばれるようになったようですので、当時の港区や現在の台東区を「下町」と呼ぶことに問題はないようです(現在の港区を「下町」と呼ぶのは違和感がありますが)。
「ALWAYS」で見られるようなご近所づきあい、地域凝集性の高さは、達海監督が目指す「選手もフロントの人間も地元の人達も食堂のおばちゃんもジュニアのコーチも 皆一緒になってひとつのことを共有してる」クラブと強く通じるところのあるものです。その達海監督の理念を象徴的に表すものとしての「下町」を、なるべくお洒落な言葉で言い表したものが「East Tokyo」だと思うのです。
実際に「下町」を体験したしないにかかわらず、「下町幻想」に同意さえすれば、「ALWAYS」の「下町」感に共感することはできますし、映画が全国的にヒットしたことを鑑みれば、多くの人間が「下町幻想」に同意署名していると考えて差し支えないでしょう。北海道に住んでようが沖縄に住んでようが、戦前生まれだろうが平成生まれだろうが、「下町」を「下町の幻想」として追体験することができるのです。
つまり、「East Tokyo」という「下町」感のある言葉をつけることで、達海監督、ひいてはチーム、さらにひいては作者たちの目指す「選手もフロントの人間も地元の人達も食堂のおばちゃんもジュニアのコーチも 皆一緒になってひとつのことを共有してる」クラブを、ネーミングの上でも受け手に伝えることができるのです。
これが「ETU」が「ETU」である理由だと私は思います。
大学の友人が卒論で「スポーツによる地域凝集性」(名前は絶対違うけど大筋はあってるはず)について書いていましたが、規模の大きなスポーツが地域振興に繋がるのは世界中で見られる現象です。
それはスポーツを単体で見ていてはつかめないものですが、確かに存在するものです。サッカー単体ではなく、その周辺部も含めた人の動きを描いているのが、「GIANT KILLING」の面白さの理由の一つかなと思ったり。ちょっとした「サカつく」気分なんでしょうか。やったことないけど。
選手の係累でないサポーターをきちんと描いてるってのはあんまない気がしますがどうなんでしょね。予告を見る限り、12巻ではそこらへんをさらに掘り進めそうですし。
ああ再来月が楽しみだ。
一言コメントがある方も、こちらからお気軽にどうぞ。
*1:1巻p79