前回の記事(俺はなぜ「百舌谷さん逆上する」をまだ語れないのかという話 - ポンコツ山田.com)の冒頭とコメント内で、「語りえぬものを語るときの態度」について触れたけど、その話を突き詰めていくと「オリジナリティ」というものにぶち当たるように思う。
世の中には便利な言葉がある。「面白い」、「かわいい」、「むかつく」、「きもい」などあって、その双璧は「すごい」と「やばい」だと思うのだが、これらの言葉は非常に広範な感情や印象をカバーできるので、発作的に口にするのに適していると言える。それがプラスの方向であれマイナスの方向であれ、感情が揺れた時に「やばい」と言っておけばまあどうにかなる。少なくとも、その人間の感情が揺れたことはわかる。
けれど、その感情が「どのように」「どれくらい」揺れたのかということについて、「やばい」は何一つ教えてはくれない。
「今のマジやばいっすよ」
さあ、これで彼が何を言いたいのかわかるエスパーがどれだけいるだろうか。
すれ違った女性の美しさが「やばい」のかもしれない。飲んだ青ジソペプシの不味さが「やばい」のかもしれない。読んだ漫画の面白さが「やばい」のかもしれない。自分たちを追い越していった車のスピードが「やばい」のかもしれない。どれを選んでも決して間違いにはならない。
「やばい」はなんでも表せる。何でも表せるだけに意味がわからない。汎用性の高さというメリットは、同時に個の埋没というデメリットを生み出す。
便利な言葉ばかりで埋め尽くされた文章は至極簡単に作れるが、具体性を有せずに意味が閉じる。明確なイメージを結ぶことなく右から左へ流れていく文章は、ニワトリでなくとも三歩で忘れてしまう。
自分の感じたことを、自分の考えたことを言葉で表現する時に、便利な言葉に依存してはいけない。感想を「すごい」とのみ表現した時、その作品はただ「すごい」だけのものに成り下がってしまう。それ以外に感じ取ったはずの微細な心の動きは、「すごい」という名の大きな波に打ち消されてその痕跡ごと消し去られてしまう。
「ワンピース」を「すごい面白い」と思った心と、「ハチミツとクローバー」を「すごい面白い」と思った心の様相はまるで違うはずだ。かたやファンタジーの冒険活劇。かたや青年男女の人間ドラマ。「面白い」ことは共通しても、むしろそれ以外に共通点などないほどの隔絶がある。
だが、その違いを詳細に言葉にする前に「すごい」で片付けてしまっては、大きく隔たったはずの両者はただの「すごい」作品として同じフォルダに放り込まれてしまう。確かに両者とも「すごい」作品には違いないだろうけれど、いざそのすごさを説明する段になって「いや、とにかくすごいんです」と力説するのでは、聴き手は「はあそうですか」と薄い反応を返す外ないだろう。その説明からはまるで作品の像が結ばない。「あなた」がその作品でどのように心動かされたのかがちっとも伝わってこない。その説明では、「その作品はろくな言葉も浮かばない程度にしかあなたの心を動かさなかったのか」と思わせてしまいかねない。
それが嫌なら言葉を見つける。作品に自分なりの名前をつけてやる。草野正宗流に言えば「誰よりも立派で誰よりもバカみたいな」やつを。
「言葉は常に言い過ぎるか、あるいは常に言い足りないかだ」の言葉の通り、自分の感じたもの、考えたことを100%過不足なく表すことは不可能だ。どこかに必ず蛇足があるか、穴があるか、そしてたいていはその両方か。この脅威に常に晒されざるを得ない。
けれど、その己の不能性を覚悟した上で言葉を紡いでいった先にしか、他人を、そしてなにより自分を納得させられる文章は書けない。
そして、この「不能性の先にある文章」、「不満を残しながらも自分を納得させる文章」こそ、「オリジナリティ」のある文章の一つの形なのだと思う。
みんな違う人間だけどみんな同じ人間だ。考えることは違うようで、その実大筋はたいして違わない。大同小異という言葉が当てはまってしまうことに嫌悪感を覚えてしまう、我の強さを自認する人間(皮肉をこめて言えば、自分は個性的だと思っている人間)もいるだろうが、それは逃れられない事実だ。
だが、それでも他人から独自性を見出される人間がいるとすればそれは、自分の思っているものを漸近的にであれどれだけ100%に近づけて表現できるかを常に自問自答している人間だろう。大同小異の「小異」の部分にどれだけディティールをこめられるかが、「オリジナリティ」の有無を分ける重要な一線の一つだ。
人は大同小異ではあるが、逆に言えば「小異」の部分は個々人で完全に異なる。そして、「小異」があるにもかかわらず「大同」であるからこそ、自分とは考え方、感じ方の違う文章でも共感することができるのだ(もしくは、共感できなくとも納得できるのだ)。
その意味で「オリジナリティ」の一つの形として、「誰でも理解できるけど誰もぱっと思いつかない」ものと言えるのではないか。
というか、それは「オリジナリティ」の一つの理想形だろうか。共感と驚嘆を同時に喚起できるものに「オリジナリティ」の言葉は相応しいと思う。
「オリジナリティ」は目的として存在するものではない。自分を納得させるものを作り出した結果として副次的に存在するものだ。
「オリジナリティのあるものを創りたい」と頭を悩ませて、他人の創作物ばかり眺めているのは本末転倒だと思う。もちろん他人の創作物を鑑賞することで、心に揺らぎが生まれることはままある。それが「小異」をより細分化することに寄与するのに異論はない。だが、「オリジナル」がどこにあるかと言えば、結局は自分の中の「小異」なのだ。それに素直に耳を傾けずして「オリジナリティ」は出てこない。*1 *2
さて、補足として付け加えなければいけないことだが、世の中には「すごい」で表現するしかないことは確かに存在している。自分の中の語彙をかき集めてみてもどれも当てはまらないような感動を受けた場合、広汎に適応できる「すごい」を使うしかない。
だが、その様なケースで「すごい」を使うときには必須のものがある。それは疚しさだ。
自分が使った「すごい」は、自分の感動を適切に表してはくれていないが、それでも今の自分にはこの感動を表すのに「すごい」以外の言葉を知らない、というような自分の不能感、言葉の不全による疚しさがなければ、その今まで感じことのなかったものであるはずの感動は、いつかただの「すごい」に回収されてしまう。
嘘をついたときはその嘘に疚しさを覚えていない限り、いつかその嘘に逆襲されてしまうものだが、それと同じで、「すごい」を使ったことに疚しさがなければ、その感動はいつか普通の感動に成り下がってしまうのだ。
例えば「ハックス!」。主人公みよしは二話で、新歓アニメに触れたときの感動を「すごい」でしか表現できていないけれど、「すごい」でしか表せていない自分の不能感がありありと描かれている。
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以前の記事で触れたときはまた違う視点からの話になっているけれど、言わんとしているところは同じだ。己の不能感がにじみ出ているからこそ、逆説的に自分の感動の強さが表れている。
冒頭でも紹介した前回の記事でも「疚しさ」という言葉を使っているけれど、この疚しさ、不能感、飢餓感などのものが、きっと人間の「オリジナリティ」を亢進するのだ。
届かないからこそ届きたい。
不可能だからこそやってみたい。
欲望を煽るのは欲望の不充足感だ。空腹の時にカツ丼を食いたいと思うともう矢も盾も止まらなくなるが、その欲望が最高潮に達するのは、食堂に飛び込んで血走った目で注文し目の前に出てきたカツ丼をいざかっ喰らわんと箸をのばすまさにその瞬間だ。口の中にカツ丼を運び、身体中にカツ丼が巡るにつれて欲望は急速に萎えていく。空になった丼を前にげっぷをしているときのカツ丼欲はすずめの涙ほどもない。欲望は満たされてしまえばもう欲望の態をなさない。
だが、決して満たされることのない欲望は、その欲望を捨てない限り延々と身を焦がし続ける。やってもやっても満たされない欲望は、その度に欲望の炎を燃え上がらせる。
その渇望感そのものは決して心地いいものではないだろう。だが、その不快さこそが人間の「小異」を磨いていく。その不快さに耐えられものこそが、報酬として「オリジナリティ」を獲得することができる。
まあとは言っても、どう書こうが勝手なのが素人のブログのいいところで、「オリジナリティ」なんか特にいらないよと言う人だってごまんといるだろう。それになんら問題はない。好き好んで不快なことに飛び込むのは、それを好き好める人に任せればいい。自堕落に文章を書くことになんの不味いことがあろうか。
あなたはあなた。わたしはわたし。みんな同じ人間だけど、みんな違う人間だ。
ただ、どうせ読むなら自分は「オリジナリティ」のある文章の方がいいなという話。
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*1:まあ創作物、特に商業ベースの創作物ということなら、先行作品との比較はどうしても必要な面もある。「大同」が余りにも似通ってしまえば、いくら「小異」の差異を言い立てても「パクリ」の謗りを受ける可能性はある。個人的には、意図的に剽窃したのでなければ、どれだけ似ていてもそれはパクリではないと思うのだが(「小異」にこそ意味があるからだ)、商業ベースに乗せた場合はやはり難しい。先行作品と類似はしてもパクリとは呼ばれない程度には差異を明確にしなくてはいけない。
*2:漫画や音楽、絵画などの創作物(芸術作品)だと、感想や論評文と違い、自分の思っていることなどを素直に形にするわけではないが、それでも自身の「小異」に忠実になるという点は変わらない。自分を納得させる作品の作り方が結果的に自分の「オリジナリティ」を形作る。