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漫画の話です。

よしながふみ作品に見る、二次元から漂う美味しさ

きのう何食べた?(2) (モーニング KC)

きのう何食べた?(2) (モーニング KC)

よしながふみ先生の最新刊です。過去のレビューはこちらから。
きのう何食べた?/よしながふみ


料理を扱った漫画は、けっこうあります。料理全般を扱う有名どころなら「美味しんぼ」とか「クッキングパパ」ととか。分野を限るなら、「華麗なる食卓」とか「将太の寿司」とか「中華一番」とか。子供向けなら「オーマイコンブ」とか「ミスター味っ子」とか。劇画系なら「包丁無宿」とか「ザ・シェフ」とか「孤独のグルメ」とか「極道めし」とか。
ですが、これらの漫画ででてくる料理が、どれも美味しそうというわけでは決してありません。


これらの作品群を別の角度で分ければ、食べることがメインか、作ることがメインかでも分けられますし、本気で料理を描いているか、多少のギャグ(誇張)はしょうがないかで分けることもできます。*1
その上でよしなが先生の料理を扱った作品(「きのう何食べた?」、「西洋骨董洋菓子店」)を分類すれば、料理を「食べる」ことを「真面目に」描いた作品と言えるでしょう。とはいえ、調理シーンにけっこう紙幅を割かれているので、大幅に「食べる」側に傾いているわけでもなく、メーターの真ん中あたりに針がある感じですが。
個人的に、一番美味しそうな食事を描く漫画家だと思うよしなが先生ですが、さて、その源泉はいったいなんなのでしょうか。

描かれた料理の真実。



はっきり言ってしまいましょう。単純に絵で描かれただけの料理というのは、別に美味しそうではありません。

きのう何食べた? 二巻 p29)

極道めし 二巻 p114)
いくら精密に描かれていても、特にモノクロで描かれた物では、美味しさはいまいち漂ってこないのです。同じ二次元でも、絵に比べれば写真や映像の方が、遥かに美味しさを受け手に送ることができます。「どっちの料理SHOW」で映像を作っているのは、「タモリ倶楽部」でもおなじみのハウフルズですが、光の加減や色合い、シズル感をあそこまで鮮明に浮かび上がらせ視聴者の喉を鳴らすのは、もはや職人芸です。「dancyu」などの食べ物雑誌でもその写真家の心意気は変わらず、「如何にこの料理の美味しさを損なわず、否、現物のこれ以上の美味しさを読者に届かせるか」という気概を胸に秘めて、彼らも被写体に臨んでいるはずです。
もちろん漫画家だって、「極力美味しそうな絵にしよう」とは思っているでしょうが、やはり単純に被写体の精密度を上げることに関しては、実物の色合いをそのまま持ってこられる写真などに軍配が上がります。というか、漫画絵の精密度を純粋に向上させようということは、それは「写真に近づける」ということと同義であり、その点においてははっきりと「写真」>「絵」なのです。
上の二枚の例にしても、「きのう〜」の方は比較的あっさりと、「極道めし」の方は比較的精密に料理の絵を描いているわけですが、白黒で精密に描こうと思えば思うほど、その絵はなんだかグロテスクになっていきます。世の中にはこんな実験をした人がいますが(単色弁当 −デイリーポータルZ)、色味の少ない食事というのは、思いのほか食欲をそそらないものなのです。

料理と食事の違い。



では、なぜ漫画を読んでいて「こりゃたまらん」と思うぐらいにその料理を食べてみたいと思うことがあるのでしょうか。
ま、それは簡単な話で、よく聞く話でもあるんですが、描かれた料理を「美味しそうに食べる」シーン、つまり食事シーンがあるからこそ、読み手はその料理に食欲をそそられるのです。
漫画家の画力は飯の描写で分かる VIPPERな俺
これの123でも言われていますね。
極道めし」なんかはまさにその典型で、この作品は、塀の中の受刑者たちが、今まで自分が食べてきたものの話をして、話を聞いた人間の喉をどれだけ鳴らせるか、ということを延々としている作品です。ここで肝なのは、話に出す料理が自分にとってどれだけ美味しかったものであっても、それを聞き手に想像させることができなければ、聞き手の喉は鳴らせない、ということです。
どういうことかといえば、それがどんなに美味しかったとしても、ベトナム料理「ピナクベト」の話をしては、そんな料理を食べたことのないほかの人間にしてはまるで味の想像がつかないし、あるいはお好み焼きのような、各人で「どこどこのお店がよい」などのような個人的な思い入れが強くなる料理では、想像はさせられても共感はさせられないわけです。実際高得点をとった料理は、「駅の立ち食いそば」だとか「寒い日に鍋から直で食うインスタントラーメン」だとか「炊き立てご飯に産み立て卵のタマゴかけご飯」だとか、誰でもわかるし、塀の中では食べられないものばかりなのです。


このように、ただ美味しそうな料理を見るだけでなく、美味しそうに料理を食べるところを見ても、人は食欲をそそられるのです。

よしなが作品の食事シーンは。



よしなが先生の作品で食事をしているシーンがあると、登場人物はみな一様に幸せそうな表情をしています。

西洋骨董洋菓子店 一巻 p32)

きのう何食べた? 一巻 p70)

(愛がなくても喰ってゆけます。 p78)

(同書 p100)
よしなが先生の作品の中で、料理はあくまで料理です。それは日々の糧であり、生物ならば必ず摂取しなくてはいけないものです。ですが、不可欠なものならば楽しめた方がいいだろうというのが人情。多かれ少なかれ、料理・食事に情熱を燃やしている登場人物たちがいるのです。彼らにとって、食事は目的であり、同時に手段でもあります。「美味しい料理を食べたい」という目的は、「美味しい料理を作る」または「美味しいお店に行く」という手段によって達成されるのですが、それすらも同時に一つの目的となっているのです。
例えば「美味しんぼ」や「クッキングパパ」なんかでは、料理は時折手段でしかなくなっています。「美味しいものを食べればなんでも解決」というご都合主義は、漫画である以上いいのですが、問題は料理がただの手段になってしまった時、その美味しさの感動は、物語の中では、目的達成の二の次になってしまうことです。相手に勝つとか、二人の仲を取り持つとか、誰かを元気付けるとか、そちらが物語のゴールになってしまう以上、料理の美味しさはどうしても一段落ちる位置づけになってしまいます。それは物語が意味を持つ以上、避けられない構造なんです。
このように、ある意味不純ともいえる要素のない、純粋に美味しい料理を食べて喜んでいる人を描くからこそ、よしなが先生の作品には美味しさが溢れているのです。

また、よしなが先生の作品内の料理は、一般的な人間が接する料理の延長上にあることもあげられるでしょう。特に「きのう〜」なんかは、「MOTTAINAI」をモットーとする40の男性が作る日々の夕食のお話ですから、それがありふれたものになるのは当然です。わりとざっくりめのレシピも載っていますから、普通の主婦くらいに料理ができる人間なら、見当つけて作れるものばかりで、実際私なんか、よくお世話になっていますし。一巻の「ナスとトマトと豚肉のピリ辛中華風煮込み」と「イチゴジャム」は美味しかった。
そんな日常的に食べるものばかりだから、味の感想も日常的なものです。「トウガラシがピリッときいていた美味い〜」だの、「あまり甘くないミルクかんに黒みつのタレがたっぷりで美味し〜」だの。でも、料理をしているところもしっかり読んでいるから、その味に想像がつくんです。

「愛がなくても〜」は、お店食べ歩きエッセイ漫画なので、料理法はほとんど出ず、もっぱら食事している人間の感想のみですが、食べている人間の幸せそうな表情や仕草で、もうその料理に猛烈に引き込まれるんですよ。
「西洋〜」で描かれる料理は、お店で出る甘味物ばかりで、その手のものだと盛り付け等も食欲には重要な要素になりますが、表現上の工夫で言葉による外見の説明を自然に入れているので、その点のフォローもばっちりだし、「どのような味わいか」というのもしっかり言語化されているので、読んでて猛烈に脳味噌が砂糖に侵されます(詳しくはこちらで。美味しいお菓子を読みたいなら「西洋骨董洋菓子店」 - ポンコツ山田.com)。


美味しそうに食べるシーンと、日常的な言葉遣いで表されたその味付け。読み手に食欲を喚起させるには、それでいいのです。「シャッキリポン」なんて表現は、食事の表現には別にいりません。よしんばその表現が的確だったとしても、それに頷けるのは実際に食べたことのある人間のみで、それを食べたことがないであろうほとんどの読者に届けるためにそんな表現を使うのは、不適当だといえるでしょう。




料理は料理、食事は食事。変にありがたがるのは、むしろ無粋です。日常の糧だからこそ、楽しんで、そして感謝して食べる。そんな姿勢がよく見えるよしなが先生の作品の中の料理は、本当に美味しそうです。








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*1:「作る」メインは「将太の寿司」など、「食べる」メインは「孤独のグルメ」など、「本気」サイドは「クッキングパパ」など、「ギャグ」サイドは「ミスター味っ子」など