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「おお振り」に見る、代弁者の不在による葛藤の長期化の話

現在15巻まで刊行中の『おおきく振りかぶって』。ずいぶん前に友人の家にあったのを初めて読んで「おもしれーなー」と思ったのですが、そのとき友人は「面白いけど、三橋の性格がアレ過ぎて腹立つかも」と笑いながら言ってました。

おおきく振りかぶって(15) (アフタヌーンKC)

おおきく振りかぶって(15) (アフタヌーンKC)

実際読んでみたらその通りで、非常に面白いのだけど、主人公のピッチャー三橋のウジウジした性格、挙動不審さなどが1巻から延々と描写され続け、読んでて三橋の女房役・キャッチャー阿部のイライラに共感するのですな。
14巻での美丞大狭山戦の最終回でようやく少しだけ前向きになり、チームメイトは自分に頼ってもらいたいと思えるようになれた三橋。自分が大丈夫なら皆も大丈夫、と声を張り上げたシーンは個人的に屈指の名シーンなのですが、これが出てくるまで実に長かった……。
中学時代に、理事長の孫ということで監督からエースの座に縛り付けられ、それを不服とするチームメイトから無視され続けた三橋の心の傷の深さを表すには少々過剰すぎやしないかと思わなくはないですが、考えてみれば連載期間は6年以上経っていようと作中時間ではまだ4ヶ月。中学三年間でこびりついた辛い記憶が、そう簡単にはとれませんか。
まあそれはそれとして、少し視点を変えて、どうして三橋のウジウジがここまで長きに亘って維持され続けた、維持しえたのか、ということを考えたいと思います。そこにはこの作品の構造的な理由があるのではないか、ということです。
端的に結論を言ってしまえばそれは、この作品に三橋の代弁者がいないから、ということだ思います。
代弁者。つまり、三橋の内心を彼自身による承認を論拠としながら説明する役どころ、です。
三橋のコミュニケーションの苦手さは、中学の苦い思い出以前の幼少期からしっかり発現してるものですが、生来のはにかみ屋である彼には、確認できる範囲では中学時代から、無条件に胸襟を開ける相手というものが存在していません。ですから、自分がどう思っているか、何を迷っているか、どう悩んでいるかを自分の言葉で、明確に誰かに伝えることができないのです。
三橋の内心は、折に触れて描写されます。古巣・三星学園との練習試合や桐青戦、上にも書いた狭山戦など、心に負った傷と試合の最中に向き合い、独白します。そして、その様子を見てチームメイトたちは、話に聞く三橋の過去を参照して、彼の内心を推し量るのですが、三橋とチームメイトの間では、その情報の開陳・交流・照合がないのです。読み手には三橋の内心やチームメイトの推量が開示されていても、作中のキャラクターたちはそれを互いに知ることができず、情報の統合ができません。断片的なままにおかれる情報は、読み手にとって三橋の理解になっても、当人である三橋の承認がなければ、作中世界での共通認識にはならないのです。
これは、三橋を気遣うとはまた別のものです。誰かを気遣うのは、あくまで内心の推量に留まります。気遣って、推し量った相手の内心を何らかの形でそれが適切なものであると明示化することで、初めて代弁となるのです。
実のところ、最初の三星戦では、試合の直前に阿部が三橋の内心を推量し、それを三橋自身にぶつけているシーンがあります。

(1巻 p137)
その流れで阿部は他のチームメイトに三橋の葛藤を教える、代弁者の役を担っているのですが、如何せんそれは初期も初期。掲載当時にここまで連載が続くと制作サイドが想定したかどうかは定かではありませんが、序盤(三星戦)のストーリーを支えるフックとして投入されたこのシーン、どんどん物語が延びるにつれ、そこで触れられた三橋の内心の澱が相対的に小さくなり、現段階から振り返れば、「まだ三橋の葛藤は語りきれていない、癒しきれていない」ということになるのです。そして、以降代弁者が再び現れることはなく、描かれ続けた三橋の心の澱は溜まっていく一方、次に三橋が誰かと胸襟を開きあうのは、15巻での狭山戦で怪我をした阿部を見舞った時までまたなければなりません。

(15巻 p87)
内心に何らかの澱(この場合は特に、物語の進行を駆動する原動力となるもの、ということで)を抱えるキャラクターがいる場合には、その澱みを理解・共感し、あるいはそうあろうと努めようとし、それを他のキャラクターに知らしめる役どころとなるキャラクターがいるものですが*1、『おお振り』にはまだその役どころにいるキャラクターがいない。将来的に可能性のあるキャラクターはいても、現時点ではその役どころは空席です。ために、三橋の内心の開陳は遅々として進まず、読み手にじらしを越えたフラストレーションを与えかねなくなると思うのです。
この代弁者の不在が、三橋の心の傷をよりきつく描くためにひぐち先生が意図的に設定ものなのかどうかはわかりませんが、この長期にわたる三橋の屈折を物語の構造・役割という観点で見た場合には、そういう考え方ができるんじゃないかなと思うのです。その役どころがいないことには、ことファンタジー色の薄い作品、少年誌的じゃない作品では、内心の葛藤を解放するのは難しいのかな、と。




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*1:例えば『ハチクロ』は、山田・竹本・真山が、主に代弁者としての役割を担っています。はぐの、森田の、理花の、あるいは他の場所では代弁者となっているキャラクターたちの真情を推し量り、それに彼/彼女を得て、他のキャラクター(そして読み手)に知らしめるのです。