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漫画の話です。

『亜人ちゃんは語りたい』デュラハン京子 見本のないものの描き方の話

ペトス先生原作のアニメ『亜人ちゃんは語りたい』の放送が始まりました。
TVアニメ「亜人ちゃんは語りたい」公式サイト
とりあえず視聴してみようかと思いチャンネルを合わせました。初回は一時間スペシャルとのことだけど、実のところ、前半30分は声優陣によるただの番宣だったことはご愛嬌ということで、本編はなかなか面白く仕上がっているなと思いました。原作の漫画はキャラクターの動きはあまり多くない(キャラクターの動作にあまり重きを置いていない)ところ、場面転換などを多く使って、キャラクターをよく動かしているのが印象的でした。
で、その中で最も強く印象に残ったが、デュラハンである町京子でした。

頭部が胴体から分離している亜人である彼女は、移動の際は腕などで頭部を抱えて運ぶ、座っているときは膝や机などに載せるなど、ヴァンパイアや雪女、サキュバスなど他の亜人より、見た目の点で大きな特徴があります。
漫画で見ている分にはなるほどそういう特徴なんだと普通に受け止め、また漫画では主に亜人の彼女らの内面にスポットが当てられることが多いため、京子の外見的特徴にはさほど気にしていませんでした。ですが、いざアニメになって、動く京子、すなわち、静止画の連続である漫画と違い、走ったり歩いたり教室で椅子に座って他の人間と話したりするなど動画として動く彼女を見て、デュラハンの特徴がいかに他の人間と違うかというのが強烈に伝わってきたのです。
たとえば、教室内で着席してクラスメートと会話をしているシーンでは、彼女の正面と右側に座る二人の女生徒がいるのですが、机の上にクッションを敷きその上に自分の頭部を置いている京子は、発話する相手が変わる度、手で頭部の向きを変えているのです。そもそも原作では、単行本に収録されている話までではそのようなシーンはないと思うのですが、仮に描くとしても、置いた頭部を動かすことで話者の方へ視線を変えるという動作をシームレスに表現することは不可能で、連続するコマ、複数の静止画でもってそれを表現するしかありません。頭部が胴体から分離しているデュラハンなら当然であるその仕草も、実際にそう動いているのを見ると、見慣れていない限りは確かに違和感なのです。
また、否定の仕草として首を振る時も手で頭部を動かしている点や、話している女生徒は、人間相手であれば胴体の上にある頭部へ視線を向けるところ、机の上にある京子の頭部へ視線を向ける、すなわち通常と比して不自然に視線が下がるという点も見逃せません。アニメの中で会話している女生徒ら同様、テレビの前で視聴している私たちにとっても、京子の存在は、明らかに(慣れていないという意味で)違和感のあるものなのです。そして、その違和感が、原作でも後に語られるような、亜人と人間の付き合い方、距離感というテーマへの導入にうまくつながっていくことでしょう。
この、原作にはない京子の動作を描くにあたり、アニメスタッフはかなり検討を重ねたのではないかなと思います。手で首を振らせるとか、普通の人間で考えれば不自然極まりないですが、デュラハンにしてみればそれが当たり前。自分にとっての普通じゃないことを当たり前としている者を描くのは、かなりの検討と、そして思いきりが必要だと思うのですよ。なにしろ、今回でいえばデュラハンですが、それついて見本がありません。正解がありません。そういうものについて、これでございと自分の思うところを表現するには、十分な検討を重ねて自分を納得させた上で、それでも「これでいいのだ!」と公開するときには一つの思い切り、覚悟がいるのです。いやあ、納得させられましたけどね。
今後も、このいい意味での違和感をどう描いていくのかということを確認すべく、視聴していこうかなと思ってます。



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