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漫画の話です。

『3月のライオン』心の毒を予防する「逃げなかった」記憶の話

"Fight or Flight."
「闘争」か「逃走」か。うまい日本語訳もあったもんですね。
ブルーハーツの「やるか逃げるか」も佳曲です。
だれしもあるであろう、逃げた記憶、あるいは逃げなかった記憶。
後者の逃げなかった記憶については、『3月のライオン』序盤に登場した、零が高校に通いなおした理由の中で言及されています。

僕は本当に将棋にしか特化してないんです 人付き合いも苦手だし
勉強は好きだけど 学校にはなじめませんでした
人生を早く決めた事は後悔していません…
でも 多分
「逃げなかった」って記憶が欲しかったんだと 思います
(2巻 p48,49)

Fight or Flight.
一度は背を向けたものの、「『逃げなかった』って記憶」のために高校に入りなおした零が、じゃあ高校に通ってそれを得られたかどうかというと、10巻で言葉にされました。

結局何も変わらなかった
「クリアしなきゃ」と何度も体当たりして
いっぱいケガして泣いたクエストは
ラストまさかの
「ま もういっか」っていう
考えてもみなかった着地点におさまった
(10巻 p56)

「ま もういっか」
Fight or Flightの選択の結果としては、拍子抜けともいえる言葉です。まさに着地点で口にされたこの零の言葉は、当初の欲していたものに適っているのでしょうか。「逃げなかった」という何かに抗するような、立ち向かうような言葉の印象と、「ま もういっか」というある種あきらめも感じられる言葉には、いささかの距離があるように感じられますが、そこを深掘りしていってみましょう。

そもそも、零の「『逃げなかった』って記憶」を欲する真意はどこにあったのでしょう。
この言葉を零から引き出した、ひなの幼馴染である高橋は、零の思いを聞き、彼なりの言葉としてこう解釈しました。

「逃げたり」「サボったり」した記憶って 自分にしかわからないけど…………
ピンチの時によく監督に「自分を信じろ」って言われるんすけど
でも 自分の中にちょっとでも「逃げたり」「サボったり」した記憶があると
「いや…だってオレあの時サボっちゃったし…」って思っちゃってそれができないんです
だから 上手く言えないけど
そういうの失くしたかった……って事ですよね
(2巻 p50,51)

このような高橋の解釈に対し、零は「通じた」と感動します。その意味で、高橋の捉えたところは、零の真意と深いところで通じているのでしょう。
だとすればこの解釈は、「ま もういっか」という零の気持ちと、どうつながっていくのでしょう。


つまるところ、零にとって重要なことは、「逃げなかったことにより何ができたか」という結果ではなく、「逃げなかったこと」それ自体なのだろうということです。
もともと零が高校に通いなおした理由は上記引用の通りですが、それは見方を変えれば、彼は高校に通わないことを「逃げ」だと捉えていたということになります。高校に通わないという選択は逃げになるから、そんな選択=記憶を作らないために、高校に通うことを選びました。もちろん、高校に通わないことが「逃げ」だなんて、別に誰も言っていません。あくまで零が、自分の中でそれは「逃げ」だと捉えていたのです。

学校に通うことが苦手の塊だった零には、中学の内にプロ棋士になって、高校に通わずとも食べていける、一人で暮らせるようになることは、願ったりなことでした。
それ自体は、なんらおかしなことではないでしょう。生きるのに苦手な場所をわざわざ選ぶことはありません。魚が木の上で暮らす必要はないのです。学校が苦手で、学校に通わないで生きていけるのなら、それでいい。
でも問題は、零がそれを「逃げ」だと思ってしまったこと。つまり、高校に通わないことが合理的な選択の結果ではなく、感情的な忌避だと思ってしまったこと。その結果、(理由は明確でありませんが)学校に通わないことに罪悪感を抱いてしまったこと。
罪悪感。
これが彼の心の奥底に、どっかと根を張ってしまったのです。

罪悪感。言葉を変えれば引け目でしょうか。こう換言すれば、高橋の言った、「自分の中にちょっとでも「逃げたり」「サボったり」した記憶があると 「いや…だってオレあの時サボっちゃったし…」って思っちゃってそれができない」というセリフもわかりやすくなります。引け目があると、大事な場面で覚悟が決まらない。心の踏ん張りがきかない。そんなことは誰しも経験があるのではないでしょうか。
「人事を尽くして天命を待つ」とは、やるだけやったら運任せ、というやけっぱちな意味ではありません。自分ではもうできることはすべてやったのだから、失敗してもそれはもうそういうものだと受け入れるしかない、という至極前向きな諦念なのです。わかりやすく言えば開き直りですね。開き直った状態とは、心がどっかと落ち着き前を向ける精神です。それになるときに、自分が自分を甘やかした罪悪感、引け目は大敵なのです。

罪悪感は毒になります。自分を甘やかして逃げたその時は一時の解放感で安楽を得られますが、時が経つにつれ、じわじわと心を蝕んでいく毒になるのです。
それを避けるには結局、「逃げ」ないことです。上でも書いたように、合理的な選択として(すなわち自身で納得づくの選択として)障害を避けることは問題ありませんが、そこから背を向けることで罪悪感を抱えることがわかっている困難からの逃走。そこから毒はしみこんでいくのですから。
そしてまた大事なことは、「逃げ」ないこととは「立ち向かうこと」と同義であり、決して「負けないこと」や「最後までやりきること」とは同義ではないということです。
逃げたくなる困難に立ち向かい、その結果、「こりゃこれ以上やってもしょうがないな」と思うこともあるでしょう。その時に改めて逃げるのなら、それでいいのです。それは、いわば戦略的撤退であり、合理的な選択です。そこから逃げることには、罪悪感はないはずです。だって、逃げた方がいいと自分ではっきりと思えているんだから。毒が生まれるのは、逃げたい気持ちと逃げるべきではない気持ちが競っているのに、前者を選んでしまった時なのです。

「ま もういっか」の言葉を零から引き出した元担任の林田は、そんな零を評してこう言いました。

お前がクリアしたかったのは
エスト自体じゃなくて
多分
気持ちのおさまり場所だったんだろうな
(10巻 p56)

この言葉はまさに、「負けないこと」や「最後までやりきること」を零が望んでいたのではないことの証左です。零は「クリア」しなくてもよかったんです。「クリア」しなくてもよいと思えるところ、零自身の言葉を借りれば「落とし所」まで自分の気持ちを持っていくことが、大事なことだったのです。そこまでいければ、「情けない幕切れ」ではあっても、「不思議と晴れ晴れと」した気持ちになれるのです。

やれることはやったから、ここから先はもういいや。そんな前向きな諦め。そんな「落とし所」。
人事を尽くすときにどこまで尽くすかはその人次第で、他人から見れば「え、そこまで!?」と驚かれるような場所で立ち止まっても、当人がそれで十分と思えればそこでいいんです。零にとって主戦場はあくまで将棋。そこで尽くすべき人事は人の一生程度では足りないのでしょうが、罪悪感を抱かないためにいったくらいの高校生活なら、修学旅行や課外授業に行かなくてホッとする程度にしかなじめなくても、自分がいいと思えればそれでいいんです。
Fight or Flight.
戦えでもなく、逃げろでもなく、戦うべきときに逃げるな、なのでしょう。



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