家。それは人の集まる場所であり、明日への活力を養う場であり、人の夢を投影する箱であり、資産でもあり簡単に変えられるものでもあり、そしてなにより人が暮らす場所。
居酒屋チェーンで正社員として働く沼越幸は、暇を見つけてはショールームや不動産を回り、自分の家を探している。まだ若いのにとか、独り身なのにとか、この先どうするのとか、俺らみたいな収入じゃ無理っしょとか、口さがない世間は色々言いもするけれど、そんな言葉には耳を貸さず、彼女はひたすら探し続ける。たった一つの自分だけの家を。
そんな、女性たちの家にまつわる、幸せと寂しさの物語……
- 作者: 池辺葵
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2015/06/26
- メディア: Kindle版
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それはそれとして、新年一発目の更新は、池辺葵先生『プリンセスメゾン』のレビューです。
この作品もレビューを書こう書こうと思ってなかなか書けなかったのですが、作品としてのきりは全然よくないもののこのままずるずる延ばしてもなんなので、思い立ったが吉日と手を付けた次第です。
さてこの作品、最初に書いたように、自分の家を買おうとする沼越幸をメインストーリーに、家を買う人、家を手放した人、一人で暮らす人、家族で暮らす人など、家と女性というテーマで様々な話が語られていきます。
家を買う。それは、普通に考えれば並大抵のことではありません。まずなにより、金額が並大抵ではない。新築で買おうと思えば、8桁に届くのは当たり前、場所によって文字通り桁が違うことも。そして、家を買えば、賃貸や投資目的でもなければ普通はそこに自分が住む。住むということは生活が発生するということ。新しい家から職場に通い、新しい生活圏で買い物をし、新しい隣人と付き合いを構築していく。もし生活の中で不具合、たとえばお隣さんがとってもいけない感じの人だとか、土地の地盤がゆるゆるだとか、そういう穴が見つかっても、一度買った家をおいそれとは手放せない。なにしろ高い買い物。賃貸なら引っ越しもそこまで大変ではありませんが、ローンを組んで登記もして、人生最大レベルの決断を下して晴れて自分のものとした不動産を手放すことは、むしろ買う時以上に大変なことでしょう。そんな話は、少し周りの人に聞けば、いくらでも耳に入ってきます。買う前から人は、その覚悟を試されるのです。
でも、主人公の沼越幸は、ひたむきに家を探します。
26歳。
居酒屋チェーンの正社員。
年収270万円。
独身。
恋人も無し。
両親鬼籍。
彼女を知っている人は、不思議に思います。なぜわざわざ家なんか買うのかと。
彼女の同僚は言います。「俺らみたいな年収でマンション買うとか無理っしょ」と。
でも、彼女は言います。努力すればできるかもしれないこと、できないって想像だけで決めつけてやってみもせずに勝手に卑屈になっちゃだめ、と。
彼女の友人は言います。「ほんとに頑張り屋さんだね マンション買うなんてすごい大きい夢に迷わず向かっていって」と。
でも、彼女は言います。大きい夢なんかじゃありません、家を買うのに自分以外誰の心もいらないんですから、と。
彼女にとって家とは何なのか、作中で明確に語られはしません。
亡くなった両親と一緒に住んでいた思い出の場所。自分で所有している自分の居場所。自分が幸せに暮らせる場所。自分が自分でいられる場所。自分が自分を納得させられる場所。
何ともでもいえるでしょう。
彼女は夢想します。一人で暮らす自分の家を。日々の仕事で疲れた体をひきずって帰り、ほっと一息つく家を。友人たちが集まる家を。
それはきっと彼女の幸せの形。彼女が望む未来の形。それが生まれる場所が、彼女の家なのです。
彼女の未来図に、自分の家はあっても、家族はいません。これから先、それは変わるかもしれないけれど、今の彼女の具体的な幸せとは、自分の家。そしてそれの根っこにあるのは、おそらく「自分の人生をちゃんと自分で面倒み」ること。「誰かと生きるのはそのあと」だし、「そんなの夢のまた夢でしょうけど」。
誰かと生きられるのは幸せなことです。でもそれは、一人で生きることが不幸せであることを意味しません。ライフスタイルの多様化だの自分らしく生きるだのと言ってしまうとだいぶしゃらくさいですが、性別を問わず信条を問わず、公共の福祉に反しない限り、自分にしっくりくる生き方をかつてより選びやすくなったことは間違いないでしょう。配偶者を持たなくても、どこかに定住しなくても、親のぶっといすねをかじっても、自分の性的自認に合うよう身体をいじっても、それがしっくりくるなら、それでいい。もちろん誰かと暮らしても、同じところに一生住んでも、それもまたしっくりくるのであれば。
きっと人は、どんな人でもさびしいのです。家族のある人も無い人も、お金のある人も無い人も、友人のいる人もいない人も、職が安定する人もしない人も、幸せな人もそうでない人も。
幸せとさびしさは関係ないのです。他の人から見ればどんな人でも、幸せに見えるときもあるし、不幸せに見えるときもある。満ち足りているように見えるときもあるし、ひどく淋しそうに見えるときもある。ある人がどう見えるは、その人が実際どうであるかというよりも、その人を見る側がその人の生き方暮らしぶりを自分に当てはめたときにどう思うか、なのです。
ある人の生き方がさびしく見える人は、そういう生き方を淋しいと思う人なのだし、幸せに見える人はそれが幸せだと思う人なのです。
そして、それはそれとしたうえで、その当人にしても、自分が幸せであろうとも、ふとした瞬間にさびしさを感じることもあります。一人で充足していようと、温かい家族を築いていようと、ある瞬間、心に隙間風が吹くことは避けられない。きっとそれは、ありえた他の幸せが存在する世界線から吹いてくる風。可能性だけでしか存在しなかった、ありえたかもしれないだけの別の現在に、誰しも一瞬だけ心がつながることがあるのです。この作品に描かれている幸せとさびしさは、そういうものであるような気がします。
フードコーディネーターとして本も出している女性が、友人らとのホームパーティーの後に一人床について、自分の死を思う。
旅を趣味とするテレアポの女性が、旅から帰り働く日常の中で、どこで生きようかと清々しい笑顔でひとりごちる。
夫と赤ん坊と暮らす主婦が、マンションの直下の部屋で一人暮らす女性が作った、奇矯な生活と裏腹にとでもいうべき美しい染物を見て、その暮らしに思いをはせる。
婚活に疲れた公務員の女性が、将来の自分の姿を想像して、そこに描いた姿のためにマンションを買う。
彼女らの姿には、自分のしっくりくる暮らしを生きる幸せと、その充足とは無関係に吹き込むさびしさ、両方があります。その二つこそが、この作品の最大の魅力だと私は思うのです。
彼女らに楽しさが描かれ、そしてそれを読む私が楽しさを感じる。彼女らにさびしさが描かれ、そしてそれを読む私がさびしさを感じる。そして、私はいま幸せか、自分の生き方にしっくりきているか、どこにさびしさを感じるかと、自問します。自答できるかは、時によりけりですが。一人で生きる楽しさと寂しさは、まさに今の私に訴えてくるものであり、私はそれに救われ、傷を触られ、自分のしっくりくる身の置き所はどこかと、つい見回してしまいます。
一人の楽しさとさびしさ。それはまるで、作中で何度も描かれる、ごちゃごちゃしながら美しい、東京の街並みのようです。そこにいる人たちより、ずっと大きく描かれる東京の街。街という大きなキャンバスの中で、人は寄り添ったり一人で歩いたりしています。どう歩こうとも街は街。好きなように歩けばいい。誰をも放っておくような無関心で無機質な街が、本作の世界では、とてもやさしく、冷たく、そして美しく見えます。
そしてこの作品には、もう一つの大きな魅力があります。
恋人も持たず独り暮らしのためのマンションを買おうとする幸に、彼女の友人は言います。
「私も買いたいけどこの先、結婚もしたいしそしたら家って邪魔かなーとか思うし、ローンも先を考えるとなんか怖いしなー」
それに対して、幸は言うのです。
「…すごく勝手なんですけど私はそこまで先は考えてなくて… 両親とも40代で亡くなってますし、私だっていつまで生きられるかもわからないし、この先どうなるかわからないからむしろ今しかないって。いつくるかわからない日を待つよりは、今のベストをつかみたいんです」
それが幸にとってしっくりくる生き方です。
今と未来を秤にかけて、どちらにどれだけ錘を載せるか。
未来の究極とは、言ってしまえば死です。誰の下にもいつかは必ず訪れる、人間の唯一の平等である死。いつどこで口を開けるかわからない底なしの落とし穴に、いつ落ちると考えるのか。いつ落ちてもいいと考えるのか。他の人と同じくらいまでは歩いて行けると考えるのか。もう自分は落ちている最中であると思うのか。
自分の人生には必ず死が待っていること。
メメント・モリ。死を想え。
他の人の感想はどうかわかりませんが、私はこの作品に、ひどく乾いた、余計な情のない死の匂いを嗅ぎとります。具体的な表れとしては、上で引用した幸の言葉などなのでしょうが、それだけにとどまらず、物語の端々に、どこかしら。上手く言葉にできないのが残念ですが、その匂いが、私にはとても魅力的に感じられるのです。
やわらかスピリッツで、第一話からいくつか読めますので、まずはそちらをご一読。
やわらかスピリッツ-プリンセスメゾン
第一話を読んだ後最新話を読むと、幸の頭身の変化にびっくりします。
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