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漫画の話です。

『亜人ちゃんは語りたい』誰かに頭を預けるデュラハンの信頼感の話

今現在唯一、どころか、ここ数年レベルで唯一視聴継続しているアニメ『亜人ちゃんは語りたい』。

6話Bパートでは、放課後に雨が降ってきたために、高橋先生のいる生物準備室で親の迎えを待つデュラハン町子の姿が描かれました。両親が諸事情で迎えに来られなくなったため、代わりにひかりの父が来てくれたところ、一緒に帰ろうとするも、鞄を教室に置きっぱなしだったので、それを取りに行こうと京子は自分の頭を抱えようとしましたが、ひかりの父がその役をかって出て、「揺らさないよう頭を抱えるのも練習だから」と、京子の頭を抱えて教室に向かったのです。
で、このシーンを見てふと意識されたのは、このような行為、すなわち自分以外の人間に頭を持たれるというのは、生半可な信頼感ではできないことだよな、ということです。
だって、第三者に自分の頭を抱えられたまま、自分の身体から離れた所へ移動されたら、もしそこでなにか起こった時、頭だけでは対処のしようがないんですから。抱えた人間に悪意があった場合はもちろんのこと、もし偶発的な事故が起こった場合でも、自分自身ではそれに一切対応できないまま、その状況に巻き込まれるしかないなんてのは、想像するだけで絶望と無力感でいっぱいになってしまいます。
油性ペンで額に「肉」と書かれようとも、散々嫌がっていた歯医者へ連れていかれようとも、正面から10tトラックが突っ込んでこようとも、頭だけではどうしようもできない。せいぜい助けを呼ぶことくらいですか。ただ、それすらも猿轡なりなんなりで簡単に封じられてしまうし(手がないから抗いようがない)、突っ込んでくるトラックにはあまりにも無力です。
自分以外の誰かに頭を持ってもらう。その信頼は、たとえるなら、全盲の人が足元の点字ブロックの先に落とし穴なんてないと信じるようなものでしょうか。視覚さえあれば見て避けることのできる落とし穴も、全盲だとそれができない。もしそれがなされていた場合、自分ではどうすることもできない悪意に対して、「そんなことはしない」と作った誰かに全幅の信頼をおくことで初めて、視力のないままに点字ブロックの上を歩けるのだと思うのです。
私は以前、ダイアログ・イン・ザ・ダークというイベントに参加したことがあります。それは、大きなホールなどにしつらえられた完全な真っ暗闇の空間で、人工的に作られた草原や森を歩いたり、丸木橋の上を渡ったり、田舎の縁側で寛いだり、バーでなにか飲んだりと、五感の一つを完全に閉じた状態で種々の体験をするイベントです。その空間に入った当初は、今までに味わったことのない完全な暗闇、顔を撫でられてもわからないとはこのことかというほどの真っ暗闇に尻込みし、へっぴり腰でおっかなびっくり歩いていたのですが、次第に何も見えないことにも慣れ、そこには危険なギミックなどないと理解して、ようやく状況を楽しめるようになりました。また、参加者グループを先導してくれたアテンドと呼ばれるスタッフ、この人は全盲なのですが、そのアテンドが的確に参加者たちの状況を把握し、助言などを言ってくれたため、落ち着くことができたというのもあるでしょう。
ダイアログ・イン・ザ・ダークの話を詳しくすると非常に長くなってしまうのでこのくらいにしておきますが、その体験で、暗闇の中を歩くことには、視覚以外の空間把握や白杖の取り扱いなどの単純な能力だけでなく、自分の周りの世界への信頼という、精神的な強さも必要なのだとわかったのです。
京子の場合、頭を抱える誰かという具体的な人間を信頼することになるわけですが、なんであれ、その信頼感というのはとてつもなく強いものです。それこそ、自分の生き死にを任せてしまうほどに。
正直なことを言えば、原作にしろアニメにしろ、自分以外の誰かが自分の頭をもって自分の身体から離れる、という状況のリスキーさをそこまで深く捉えているとは思えないですし(そのリスキーさ、あるいは上述の強固な信頼感に関する描写が見られない)、私自身も原作を読んでいたときには考えつかなかったのですが、アニメでは非常に丁寧にデュラハンの動作を描いているため、ふと思いついたのでした。
そういうことも気づかせてくれる、まったくいい意味での違和感アニメだぜ。


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