前々回の記事で、『空が灰色だから』の女の子たちに心がざわつく理由を書きましたが、そこからさらに思いつくことがあったので、それを膨らませて一席。
- 作者: 阿部共実
- 出版社/メーカー: 秋田書店
- 発売日: 2012/07/06
- メディア: コミック
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『女たちよ』はリアル系とも違い、決して上手いとは言えない絵なのですが、その分妙な迫力があり、「この女性(女の子)がどうなってしまうんだろう」という保護者的な不安よりも、「この女性、いったい何をしでかすんだろう」という爆薬の周りにいるような不安が近いのです。
ポイントは、『空が灰色だから』の女の子たちには「どうなってしまうんだろう」と思い、『女たちよ』には「何をしでかすんだろう」と思う点です。
「どうなってしまうのか」と「何をしでかすのか」。これは端的に、そして大仰に言って、女性たちは運命に対して受動的であるか能動的であるかの違いです。
奇しくも第4話「イチゴ オブ ディスティニー」でこんなセリフがあります。
運命って奴は
自分の血と肉と骨で作られたこの手で
きり拓くものだ
(1巻 p47)
ワンピースを手に入れるべく恥も外聞もかなぐり捨て奔走する彼女ですが、結局「運命に弄ばれちゃったよお」と不貞寝する羽目に。こんな彼女を筆頭に、基本的にこの作品に登場する女の子たちは、運命に抗えない。抗っても思い通りにいかない。良くも悪くも。
一見ポジティブに終わっている第3話「空が灰色だから手をつなごう」も、あのエンディングを迎えても母子を取り巻く状況は一切変わっておらず、むしろ子供はそんなおもちゃで遊んでいるところを見られればいっそうからかいの対象となってしまいかねない。
第13話「僕の家の隣の家のお姉さんは」はコメディであり、読み終わっていれば特に後味の悪さもありませんが、みず姉の「いいお姉さんでいよう」という目論見はまったく無為に終わっている。
いくつかの例外はありますが(第15話とか第21話とか。むりくり理屈をつけることはできなくもないけど)、そんな具合の女の子たちなのです。
翻って『女たちよ』に登場する女たちは、自分の行動によって人生の舵をとっているように見える。それが良い方向に転がるにしろ悪い方向に転がるにしろ、そこには自分の選択が関与しているように見える。
この差が何に由来するのか、ということについてはまだまだ考える余地はありますが、運命に対する能動性/受動性というものを、『空が灰色だから』のポイントの一つとして挙げておきたいと思います。
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