ポンコツ山田.com

漫画の話です。

「駆り立てるもの」が繋ぐ「天才」と「狂気」の話

当ブログでは天才に関する記事をいくつか書いていますが、そこにいただいたコメントでこんなものが。

(前略)
山田様は、しばしば結びつけて考察される、「天才」と「狂気」についてどうお考えになりますか。
以前の、「神様との約束」羽海野チカの天才観の一類型の話の通り、天才は、なんらかの一線を越える、神様と約束をするという瞬間があるのだとして、普通は知覚しえないところのものを、現実を切り詰めて手にすることになるわけですから、ある種の狂気と隣り合わせになることもあるのではないかと感じます。(あくまで私の感覚でですが。)
確か『三月のライオン』には直接的に狂気ということは出てこず、宗谷名人などは遠い存在として認識されていると思います。
山田様は、羽海野氏の作品など描かれたものにかかわらず、現実の芸術家などにおいても、一線を越える、神様と約束するということには、狂気が存在するとお考えでしょうか。
(後略)

直接コメントへの返信となる内容にはならないかもしれませんが、「天才」と「狂気」の隣り合わせについて、つらつらと考えてみようと思います。
以前の記事で、キャラクターとしての天才の表現方法の一つに、内心の独白などの心理状況の描写を極力減らすことで読み手の共感を抑え、凡人から「遠い」存在である「天才」として塑型する、というものがあると書きました。
この「遠さ」。実に抽象的な言葉です。何が遠いのか。どのくらい遠いのか。そこらへんをまるっとすっ飛ばしているので、具体性が皆無なのですが、にもかかわらず、あるいはだからこそ、妙に納得させる力のある定義となっています。
ということで、なにをもって「天才」は「遠い」と感じられるのか。そこを考えてみましょう。
将棋を扱う『ハチワンダイバー』で、こんな言葉が出てきます。

俺は“天才”の存在を信じない “天才”なんて“馬鹿”と言った方が早い
この女も当然天才じゃない
将棋に対して
揺ぎ無い基礎が見える
「一生懸命やる」くらいじゃ… そのくらい・・・・・じゃ… こう・・は成らない
何を想ってか他人が想像もつかない日々を… ヒタヒタと ひたすら ただひたすら 将棋の日々を… 越えてきた


ハチワンダイバー 12巻 p9,10)

作中で最強の谷生に次ぐ強さを持つと目されるそよに対する澄野の言葉です。
また、紳士服を扱う『王様の仕立て屋』ではこんな言葉が登場します。

どんな道でも天才と呼ばれるようになるには 三度の飯よりその道が好きでなけりゃ無理だ
時計のことが忘れられないなら 無理矢理休ませてもむしろストレスが溜まるばかりさ
だったらストレスが溜まらない仕事振ってやった方が気分転換になる 俺も綱渡り仕事は随分やったが どんなに疲れても仕事を忘れられない因果は感じたねえ
職人てのは極道なもんさ その仕事を求める客もまた極道なんだ これからの人生 極道の間で踏ん張るのは覚悟が要るぜ お嬢さん


王様の仕立て屋 30巻 p60)

まだ若輩ながら独立するほどの腕を持つ時計職人・ハンネスの妻になろうとするフランシーヌに向かって、主人公・悠がかけた言葉です。
また、バレエを描く『昴』では、こんな言葉も出てきます。

努力…
シルエットで、表情はわからないけど、
なんだろう… このかんじ…
なんかヘンなかんじがする。
何もしないで2時間もただ立ってる… そりゃ… ものすごく辛くて汗だくで…
でも、
“努力”…?
プリンシパルのトップでいるための努力? なんか、ちがうかんじがする。
あのひとは。
やっぱり…
このひとはもう“努力”でこんなことをやってない。
ほんとにわらってるなんて。
ただ立ってるだけのことが 本気・・で楽しくてしょうがないって顔…


(昴 8巻 p130〜135)

世界最高峰のバレエダンサー・プリシラ・ロバーツが、何時間も足のポジションを確認しているところを見た、主人公・昴の言葉です。
これらはある天才を目の当たりにした上での言葉ですが(まあ澄野は「天才じゃない」と言っちゃってますが)、どれも共通しているのは、彼/彼女の根底には常人では計り知れない「駆り立てるもの」が存在している、ということです。これはこの記事で書いたことと共通しますが、「やらなくちゃいけない」「やらずにはいられない」という焦燥、『昴』ではそれを「やらされている・・・・・・・系」と表現していますが、自分ではどうしようもないものに衝き動かされている「天才」たちには、そのようなものがしばしば見られるのです。寝食などの生存本能、集団で生きる人間としての社会性さえ越えて、自らを衝き動かすもの。それが、凡人とは違う「天才」の「遠さ」です。凡人が「人間的」な生活をしている間に、「天才」はそれらにかかずらわることなく、駆り立てられてある道を邁進する。止まっている自分と走り続けている彼/彼女。その彼我の差に「遠さ」を感じさせ、時として彼らは、「凡人」には「狂気」とさえ感じるような振舞いを見せます。
「狂気」とは何か。極々簡単に言えば、「なんかこいつヤバイ」という印象です。自分の理解の及ばない振る舞い。そのようなものを指して、「狂気」と呼び得ます。理解を絶した此岸と彼岸。それは「凡人」と「天才」の関係によく似ています。
ハチワンダイバー』のそよ。幼少期の彼女は、誰もいない将棋道場で一人、将棋盤を挟むようにして父と兄の遺影を置き、一手一手彼らに問いかけながら将棋を打っていました。メイド姿で。うつろな目で。「なんかこいつヤバイ」と感じさせる十分「狂気」的なシーンですが、それは「『一生懸命やる』くらいじゃ」とても辿り着くことのできない境地の発露であり、その「狂気」ゆえに彼女には「将棋に対して揺ぎ無い基礎」が備わったのです。
何かに没頭する。その姿は見る人の心を打つものでしょう。ですが、度を越えればそこには「狂気」が感じ取られるようになってきます。『G戦場ヘブンズドア』の町蔵が、トイレで吐きながらも、今思いついたことを忘れないようネームを切っているシーンでは、彼を心配する周りの人も次第に気味悪がりだしました。人格としての天才。何かに駆り立てられる天才。そこには時として「狂気」が現出しうるのです。
そして、ある振舞いを「狂気」と見るか、畏怖と見るか、憧憬と見るか、親近感と見るか、その評価のグラデーションは、評価する人間自身の「駆り立てるもの」の大きさ、あるいは有無に因ってきます。美術に没頭し、同時に苦しむはぐ美に距離=「遠さ」を感じる山田と、親近感を覚える森田がいい例です。陶芸に能力を発揮する山田ですが、何かを作る彼女に切迫感はありません。それゆえ彼女は、指先の感覚を喪うか否かの瀬戸際で息を飲むような強さを見せるはぐに「遠さ」を感じ、やらなければいけない焦燥に背中を押され続けていた森田は、絵に対するはぐの苦しみを誰よりも理解し、「描かなくていい」と言ったのです。
はぐにしろ零にしろ、対人コミュニケーションが不得手で、学校という規格的な人間を作る場では共に浮いていました。絵や将棋に没頭していたから不得手だったのかあるいはその逆か、ニワトリタマゴの話かもしれませんが、そんな彼/彼女は、逆に学校に十分馴染めているものにとって、「おかしなやつ」と見られたでしょう。この「おかしなやつ」こそが、「狂気」の前段階です。学校で誰とも喋らないくらいなら「おかしなやつ」でしょうが、授業中、休み時間、食事の時間問わず、教師に注意されようとも、絵を描いていたり将棋を打ったりしていれば、そこに「狂気」を感じられることもあるでしょう。これは程度問題であって、「駆り立てるもの」の程度をかなりソフトに描いているために、はぐや零は「おかしなやつ」止まりだったのだと言えるでしょう。


天賦の才。ギフト。人間の上位存在から与えられたそれは、与えられなかったものにとっては与り知らぬものであり、未知ゆえに恐れ、未知ゆえに畏れます。「天才」と「狂気」は、ギフトを与えられた人間のどこを誰が切り取るかで恣意的に変わってくる、表裏一体のものだと言えるのではないでしょうか。


文章中でちょこっと引用した『昴』は、「天才」についてゴリゴリと描いた作品なので、あとで改めて記事を書こうかと思います。たぶん。




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