今月発売の4巻で終わりを向かえた「ハックス!」。とても好きな作品ですので、色々思うところはあるのですが、今日はまず、主人公・みよしの最終話での台詞について考えてみたいと思います。
- 作者: 今井哲也
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2010/05/21
- メディア: コミック
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で、そのときのみよしの台詞が
やりましょう
こうしてう……
お
いる場合ではないですよ 私たち!
(4巻 p202)
この台詞は、入部したてのみよしが部室で新歓アニメのセル画を発見した時の台詞と対応しています。
なんか……
すごいですね!
こうしておる場合ではないですよ私たち!
(1巻 p84)
1巻のこの台詞は、1巻裏表紙での梗概に使われるくらいに印象的な言葉で、新歓アニメを見て感動し、さらにそれが実際に自分の先輩達が作ったものなのだということがわかって、なんかもううずうずしてどうしようもないみよしの気持ちを端的にあらわしている台詞です。
見ればわかるように、1巻の台詞と4巻の台詞では細部が微妙に違っています。ほとんど同じだけれど僅かな違いがあるというのは、能楽「鞍馬天狗」に出てくる張良への兵法伝授のエピソードが教えるように、「そこには何か意味がある」というメッセージです。では、この4巻の台詞の陰にある「意味」とは、いったいなんでしょうか。
先にも少し触れましたが、入学間もない新入生歓迎会で見たアニメに強く心揺さぶられたみよしは、ほぼ活動休止中のアニ研に駆け込み、熱い演説をぶち上げます。
アニメ作りませんか!
たぶん みんなでアニメ作ったら すごい面白いです
アニメのすごい…… すごい!っていうエネルギーを使ってアニメを作るんです!
それでそれであのフィルムも助けられたら最高じゃないですか!
なんか
そういうのってなんか
すごいですよ!
(同書 p53,54)
感情がまとめきれず、拙い喋り口ながらも長口上のこの演説、前半は省略しましたが彼女の熱い気持ちは伝わると思います。
ここから、みよしの滾る情熱と、同じく新入生の美少年・児島泰樹の表面上はクールながらも裡で燃える「映像作品を作りたい」という熱意が怠惰な三年生を動かして、アニ研の活動が始まります。
まずみよしはノートにパラパラ漫画を自主的に描いてきました。その作成は彼女一人の手によるものです。ですが、それが「ノートの隅に描かれたパラパラ漫画」から「パソコンに取り込まれたアニメ」になるには児島君の手助けが必要でした。
さらに、ニ○動(ニコ動にあらず)にうpするための作品を作るのに、三年生のアニメ部員も手伝い、また演劇部の三年生にも出演を要請しました。
文化祭で発表するための作品では、アフレコのために放送室も使い、手伝ってくれた演劇部員の数も増えました。
作品の数が増えるにつれ、観てくれる人も増え、作品を介して繋がる人の輪が大きくなっていきました。
「あ そだ 弓部の先輩でもすごいアニメ好きな人いたよ」
「ああ」
「へえっ」
「みよしのアニメ教えたら喜んで 今度見るって」
「え…… え――! やああ 困るなあ」
「あはは喜んでる喜んでる
でも なんか本当 けっこうね みよしのアニメ見せると みんなわりとすごいって言うよ
すごいね! よかったね みよし」
(3巻 p40,41)
作品を作れば作るほど、みよしはアニメにのめりこみ、どんどんアニメを作ることが楽しくなっていくのです。
ですが、繋がる人が多くなるというのは、決していい面ばかりではありません。人が増えるということは、それだけ人の思惑も増えるということです。
アニ研の付近にいるものの「俺はアニ研じゃねーし」と薄ら笑いながら言う三年生・三山の立ち位置の危うさは当初から見られましたが、それがはっきりと顕在化してきたのは、3巻での「しゅーらるー」アニメ製作エピソードでした。口を開くことが非常に少ない彼が描かれるとき、しばしば三点リーダしかないフキダシも一緒に描かれています。以前の記事で「三点リーダしかないフキダシの背後には、言葉にならない/できない/しにくい感情がある」というようなことを書きましたが、この場合の彼もそれで、他の三人がアニメ製作に没頭する中、一人だけ疎外感を覚える彼の居心地の悪さ、所在無さ、どうしていいかのわからなさ、自分がどうしたいかのわからなさを、三点リーダしかないフキダシが何も言ってないのに雄弁に語っています。
それがついに爆発するのが4巻での文化祭用アニメの製作エピソードで、演劇部に手伝ってもらって作ったアフレコデータを、三山は家でMADを作りたいからとコピーして持ち帰ろうとしたところ、誤って消去してしまいました。のらりくらりとして謝ろうとしない三山に、児島と、滅多なことでは不快感を表さないみよしまでもが苦言を呈しますが、彼は
――へっ わかったよ
結局おめーらによ 俺の気持ちなんかわかんねーだろうよ
へっ ンだよ やってられっかよ
(4巻 p167,168)
捨て台詞を残して去っていきました。
この事件は、みよしの心に暗い影を落としました。自分は楽しくアニメを作ってたけど、他の人はそうじゃなかったんだろうか。他の人は何か我慢してたんじゃないだろうか。今まで自分がやってきたことは、独り善がりなことだったんじゃないだろうか。
自分がアニメを作ってるのは楽しい。とても楽しい。でも、そのせいで他の人が楽しくなくなってしまうのはいやだ。とてもいやだ。
自分を低めてでも「仲間」をある種過剰に思いやるみよしの性向は、cut.19の過去エピソードで語られていますし、そういう面では冷淡な児島との対比でも描写されていますが、彼女の「思いやり」とアニメに対する情熱が、ここでは思いっきり対決してしまっているのです。いえ、対決というのも正確ではないでしょう。みよしのアニメに対する情熱は確固として前進していますが、彼女の「思いやり」はそれを横から邪魔している、情熱の歩みを鈍くしている。決して真っ向から対立しているわけではないのです。それを鮮烈に表しているのがこの台詞だと思います。
なんだかんだで
がんばってアニメ描いてる最中は 三山せんぱいのことも忘れちゃってます
ああ 私 イヤなやつだ
こんなにアニメ作るのが楽しくてしょうがない
(4巻 p191,192)
「思いやり」に邪魔されようとも、アニメ作りは楽しい。そこはみよしは譲れないのです。
やはり冒頭で触れましたが、最終話で、アニ研は最大の危機に遭遇します。文化祭のために今まで作ってきたアニメのデータを、映研の部長に消されてしまうのです。
意気消沈し、混乱するみよしのところにかかってきた一本の電話。それは、みよしがアニメを作るきっかけとなった新歓アニメの製作者・文野秋からのものでした。混乱しながら苦境を吐露するみよし。ひとしきり愚痴った後の文野の反応は、みよしにとって予想外のものでした。
ああ……
いや〜〜〜〜……
高校生だね――――……
いいな―――ー
楽しそう
(4巻 p213)
苦境と混乱に喘ぐみよしを余所に、とても楽しそうで、とても懐かしそうな文野です。彼女にしてみれば、十年経っても高校生は変わんないんだなあ、と感慨に溢れて溺れそうになっているところでしょう。文野自身、高校生時代にアニ研のOBと大喧嘩するなど、似たような経験があるわけです。
アニ研の、アニメーターの、そして人生の先輩として、文野は続けます。
アニメって あの―― みんなで一緒にいろんな人と作るじゃないですか
そりゃあその中で合う合わないって当然あるし 部活だと絶対ノリの違いっていうか やる気出す人と足ひっぱる人の差って出てきますよね(中略)大丈夫!それは あの――なんとかなります 今だけですよ そういうことで悩めるのも 1本完成させちゃえば全部いい思い出になりますから(中略)死にものぐるいで描いて1本完成させてやっとわかることって多いと思うんで
(中略)
結局ね……全員と仲良くってできないんですよ いや できるけどそうじゃないことのほうがひょっとしたら多い
でも じゃあそこでとにかく守るべきなのは 自分が楽しめること 自分が楽しくなかったら人も楽しいとは思わないですもん でも それじゃダメじゃないですか
もうね この人頭おかしいんじゃないかってくらい 楽しいことだけ考えたらいいんですよ 大変ですけど それでアニメはうんと楽しくなります
(4巻 p214〜222)
これがみよしには衝撃的でした。
わあ ごめんなさいみなさん
私 なんだかすごい 今
目からウロコでした
(4巻 p218)
ならば、なにがどう目ウロコだったのか。
今までみよしは、1巻での演説に見られるように、「みんなで」アニメを作ることが大事でした。もうちょっと言えば、「みんなで」「楽しく」アニメを作ること。できる限りこの二つを両立させたい。
けれど、作品を作っていくうちにまず「みんなで」が難しくなってきた。
「しゅーらるー」製作の途中で、絵が描けない自分に苛立ち部室を出て行った三山に、みよしは今まで考えたこともなかった可能性に思い至りました。もしかしたら自分のせいで三山がやりたいことを邪魔してしまっていたのではないか、と。普通に考えればこれは杞憂です。児島のような冷淡な反応の方が一般的でしょう。ですがみよしは過剰に反応してしまった。なぜなら彼女は、「みんなで」「楽しく」アニメを作りたいから。
さらに、いよいよ文化祭に向けて本腰入れようというときの、アニ研部長後藤の離脱。これは受験に備えて予備校に行きだしたからで、アニメ製作と受験を天秤にかけた結果ではありますが、アニメ製作がイヤだったからではありません。けれどみよしは、後藤が部活がイヤになってしまったのではないか、と不安に思うのです。なぜなら彼女は(以下略
そして起こった三山との衝突。この時みよしの発言には、「みんなで」よりも「楽しく」の方に重点を置きたい気持ちが表れています。
『ああ 私のバカ』
……あの せ んぱい
あの……声のやつは 演劇部の人がすごいがんばって録ってくれたやつで
今アニメ部だけじゃなくてすごい いろんな人が楽しみにしてくれてて だから あの――
きらいだからって
そういうのは
言わないでほしいです
『ああ もう バカ 今そんなこと言ってもしょうがないのに』
(4巻 p164,165)
『』の中は、みよしの心の声です。みよしは、「今そんなこと言ってもしょうがない」ことが、そのことを言う前にわかっているにもかかわらず、口に出してしまいました。自分の発言から決して事態は好転しない。そうわかっているのに口を突いてしまうこの心理(感情の昂ぶり)にはとても頷けるものがあるのですが、「楽しい」アニメ製作を邪魔した三山に、みよしは言わずにいられなかったのです。
「みんなで」と「楽しく」がうまく噛み合ってくれない歯がゆさ。それに歯がゆさを感じながらも、アニメ製作は「楽しく」感じてしまう自分の罪深さ。さらに、映研部長によって消されたデータがわずかに残っていたのは、自分が傷つけてしまったかもしれない三山のおかげ。なんだかもう何が良くて何が悪いか、何をするればいいのかわからない。ぐるぐる渦巻く負のスパイラルにみよしは飲み込まれていたのですが、そこに降って湧いた「そんなのどうでもいいからまず自分が楽しめ。とにかく楽しめ。そうじゃなければ面白いアニメは作れない」という文野のアドバイスでした。
ここで大事なのは、アドバイスをした文野が新歓アニメの製作者だったという事実もそうですが、彼女がすごく明るくあっけらかんとしていたことだと思うのです。みよしが深刻に悩んでいた歯がゆさと罪深さは、自分ひとりだけが抱え込んでいるものじゃないし、それで何かがどうなっちゃうようなものでもない。そんなことより野球しようぜ、じゃないですが、そんなことよりアニメ作ろうぜ、といういっそ能天気とさえ思える言葉がぽんと飛び込んできたことが、みよしにとって非常に重要なことだったんじゃないでしょうか。
「みんなで」「楽しく」の両方をやたらにありがたがることはない。そう思い至ったみよしの口からついに出るわけです。
やりましょう
こうしてう……
お
いる場合ではないですよ 私たち!
(4巻 p202)
1巻の時の彼女は、ただただ「アニメを作りたい」という熱情に突き動かされていました。そこには実際にアニメを作る時に必要な技術も理屈も設備も、そして大勢で何かを作るときに必然的に起こる諍いも、存在していません。純粋なままの熱情なのです。
4巻でみよしの兄・和義がさらりと言った台詞「おまえ……あれだなあ しばらく見ないうちに ずいぶん人間の言葉を話すようになったな」(p155)というのは示唆的です。無論冗談めかした台詞であるわけですが、以前のみよしの言動は、cut.19での中学校時代などを見てもわかるように、かなり突飛であることがうかがえますが、アニメ製作を通じて、自分のやりたいことをやる、それをする中で多くの人と繋がりができる*1、熱情だけではどうしようもないことにぶつかる、ぶつかった「壁」(これは最終回の1話前、cut.23のタイトルでもあります)を乗り越えるという過程を経て、熱情以外の諸々もひっくるめた上で再度獲得した熱情が、4巻での台詞にはあるのではないでしょうか。
1巻では三山が指摘したように女子高生は早々使わない「おる」という言葉が、一度口から出掛かるも「いる」と言い直されたのは、ある意味での社会性、人と繋がりをもって、その中で自分が情熱をもって行動するということの意味をみよしが知ったからではないかと私は思うのです。
「成長」で片付けてしまってはいささか陳腐ですが、というか一言で片付けたくないのでこうして長々と書いてきたわけですが、みよしが一皮剥けたのは確かでしょう。それがこの似てはいるが僅かに違う二つの台詞の裏に隠された意味だと、私は思います。
なんだかまたぞろ長くなってしまいました。でも、これではまだ終わらんのだよ。感想についてはほとんど触れてないし。
書くよ。まだ書くよ。
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*1:そこには1巻でみよしの友人である美和が言った「自分がちゃんと思ったこととか作ったものとか そういうのをちゃんと みんなに見てもらえるのって たぶん みよし初めてなんじゃないかぁ」(p197)という台詞に見られる、他人との繋がりができることへの喜びもあるでしょう