[連載]まんが難民に捧ぐ、「女子まんが学入門」第2回 関係性に萌える『スラムダンク』〜スポ根としての女子まんが序論(2)〜
漫画の読書量*1が漫画に対する批評能力の高さに直結するわけではないことを示す好個の例となる記事で、色々と賛同できない箇所はあるのですが何より気になったのは、「SLAM DUNK」の読解の方向性云々ではなく、この記事の筆者がやたらと男子の読み方/女子の読み方を強調している点です。
『スラムダンク』を
女子まんがとして 読み解くとき、そこにあるのは「関係性の快感」です。「関係性の萌え」と言ってもよいでしょう。
(傍点引用者 以下同じ)
男性読者の多くは 、やはり桜木や流川の「成長の快感」や、湘北の「勝利の快感」に目を奪われがちでしょうが、女子たちが見てきたのは そういった関係性であり、個人であったはずです。
一般的なスポ根、特に団体競技をテーマとしたものにおいては、カリスマ的な主人公(天才、もしくはアウトロー)がいて、彼/彼女の夢や目標(甲子園優勝、ワールドカップ優勝など)に引っ張られる形でチームメイトもスポ根化し、物語は進みます。そこにあるのは全体主義的な快感であり、それは
集団や組織を好む男性読者 の大好物でもあります。
『スラムダンク』の薫陶を受けた女性作家たちはみな、
男性的な快感 をも理解し、作品に織り込んだ上で、創作へと向かうことができました。
どうなのでしょう。性別というのは、果たして人間の読解の方向性を第一義的に規定してしまうものなのでしょうか。
こういうことを言うと、今はもう忘れ去られた感さえある懐かしのフェミニズムが、「女性は古来より男性的な読み方を強制されて云々」や「それはあなたが無自覚な典型的男根主義的差別主義者だからだ云々」などと牙を剥きそうですが、話はそんな次元ではありません(そもそも、フェミニズム言語論が日本語圏で簡単に当てはめられるのかというと私は疑問ですが)。
被引用記事の筆者が言っているのは、「物語」は色々な読み方ができるが、女性はまず女性的な読み方/嗜好を示し、男性はまず男性的な読み方を示すのだ、ということです。つまり、男性的な読みを女性が強要されているわけではなく、また、各々の性別が持つ読み方も固定的、独占的なものではなくて、他方の性別もそれを理解することはできるが、まず第一義的に意識される(無意識のうちに方向付けられる)読み方が性別によって異なる、と主張しているのです(その意味では、むしろ、フェミニズムの夢を既に達成していることになるのです。なにしろ、女子は女子固有の読み方を身につけることができているのですから)。
私はこの考え方には同意できません。
「SLAM DUNK」において、男子の読み手は「成長の快感」や「勝利の快感」にまず目を奪われ、女子の読み手は「関係性の快感」に魅力(萌え)を覚える、という被引用記事の筆者の主張の根拠が何なのかが私にはよくわかりません。男子だってキャラクター達の関係性に魅力(憧れと言ってもいいでしょう。私も桜木軍団ののらりくらりとした人間関係に憧憬を抱きました)を感じることはしますし、女子も桜木の急成長を内面化することで「成長の快感」を味わうはずです。この線引きは性差でなされるとどうしていえるのでしょう。読んだ時の年齢、人間環境、社会的背景など、複雑に絡み合った要因がいくらでもありますが、その内から「性別」のみをなぜ取り出せるのでしょうか。
そもそもそれらの感覚は常に独立し、シーンに固有のものではありません。あるシーンは「成長の快感」、あるシーンは「勝利の快感」、あるシーンは「関係性の快感」というように、シーンごとに固有の「快感」があるわけではありません。どのようなシーンでも、読み手は解釈次第でいかような「快感」を引き出せますし、その「快感」を同時に味わうこともできます。山王戦最後の桜木と流川のハイタッチも、「成長」の証でもあり、「勝利」の証でもあり、「関係性」の証でもあります。混在する「快感」の内のどれが強く前景化するかは各人の読み方に帰着しますが、その読み方が性別に左右されるというのは余りも大雑把で短絡的だと思うのです。
この男/女の無自覚な線引きは、【男/女】というよりも、昨今言うところの【それ以外/萌え】というものに近いように思えます。*2そうなると、男性はまず非「萌え」的に「物語」を読むが、女性はまず「萌え」的に読む、ということになりますが、やはりその根拠もないままに、無自覚のうちに採用されてしまっているようです。
性別というのは簡単に判別できるようでその実難しく、世界陸上の女子800mの金メダリスト・セメンヤ選手の性別判定も記憶に新しいところです。性器や乳房などの外的な身体的特徴で判断される水準(日常生活ではそれか)もあれば、染色体レベルで判断される水準(セメンヤ選手はそれ)もあり、精神性により判断される水準(本気の新宿二丁目とか)もあります。
そして、逆説的なことですが、一律に定義できないからこそ、外側から恣意的な枠組みを当てはめやすいということでもあります。一律に定義できないからこそ、その当てはめ方が「絶対間違っている」と言いづらいのです。判断基準が複雑であやふやだから、「じゃあこの定義が間違ってる証拠を見せなさいよ」と強く出られると言葉に詰まってしまいます。それを意識的にか無意識の内にか逆手にとって、堂々と無根拠な理屈を押し出すことがしばしば見かけられるのです。
昨今の「森ガール」とか「草食系男子」とかの噴飯物の枠組みも恐らく同根のもので、「性別で括っちゃえばとりあえずどうとでもなんだろ」という非常に大雑把な考え方が見て取れます。
自身の性別に違和感を覚えている人、性的マイノリティと呼ばれる人は確かに社会の内に一定数存在しますが、そうでない人が圧倒的多数だというのも事実です。つまり、社会の圧倒的多数は「○○男子」や「○○ガール」という性別上の括りを、とりあえず当てはめることができるのです。ある恣意的な定義の根本に性別を据えることで、母集団の内の半分をまず適用可能の範疇に納めるというのは、ずるいとも大雑把とも言えますが、巧いとも言えます。その根っこの上に、血液型性格判断のような、考えようによっては誰にでも当てはまりそうな、コールドリーディング的・ショットガンニング的な条件を付け加えることで、母集団の内の性別でカテゴライズされたグループに流布させるのです。
また、性別は自分以外の他人に対して容易に外から決め付けることができる(自分で恣意的に認識できる)特徴なので、性別でカテゴライズされるグループを当事者以外が勝手に呼び始め、当人達の自認を得ずともそれを使用することができるのです。「草食系男子」なんかはまさにその類ですね。「草食系男子」自身がそう自称し始めたのではなく、どこかの誰かが自分達に都合のいい認識のために、ある社会成員を恣意的に抽出した性質で括ってしまったのです。自分の都合のいい認識で括るという行為それ自体は誰しもやるものですが*3、それが普遍性を得られるものかどうかは本人が適切に意識しておくべきことでしょう。
【男性/女性】でなく【男子/女子】という言葉を使うのも思うところはありますが、これ以上長くなるのも何ですので割愛します。
きっと被引用記事の筆者には、「男子はこう読み女子はこう読むもの」という、彼女の知識や経験から導き出される偏見があるのでしょう。「萌え」や「腐女子」などの、近年の漫画に関するキーワードにその偏見が引きずられている可能性も強いです。*4
人には固有の経験があり、その意味で、各人は各人の偏見の虜囚となることから逃れることはできません。ですが、偏見の虜囚であることから逃れることはできなくとも、自分が偏見の虜囚であることを自覚することはできます。「自分の考え方には、自分の知識や経験から来る偏見や憶断がこびりついている」と自覚することが、その偏見と億段の被害を少しでも少なくする第一歩なのです。
ということで、私達が気をつけるべきことは、果たしてここで採用している性差は、本当に一般に適用できるものなのだろうかと注意することです。難しい事柄を簡単にしてしまうような考え方は、性に限らずとても危ういことだと思います。
一言コメントがある方も、こちらからお気軽にどうぞ。
*1:「自宅の6畳間にはIKEAで購入した本棚14棹が所狭しと並び、その8割が少女マンガで埋め尽くされている(しかも作家名50音順に並べられている)。」被引用記事の筆者のプロフィールより
*2:最近の「萌え」は、独立したキャラクターへの感情ではなく、キャラクター間の関係(性)を対象としたものである、という考えがありますが、それを踏まえての「萌え」だと思ってください。
*3:あいつは友達づきあいのいい奴悪い奴、というような認識だって、「自分にとって都合のいい」グルーピングです
*4:余談ながら更に言えば、最初に作品を読んだ時の感想は今読んだ時の感想と同じものであるという思い違いを、人はしばしば行います。人は自分の記憶など、現在を都合よく生きるために容易に改変するのです。それこそ私の憶測ですが、筆者の彼女も最初に読んだときの感想を今現在この記事を書くにあたって改変している可能性は充分あります。つまり、最初に読んだ時は「成長の快感」や「勝利の快感」を味わったのに、それを「関係性の快感」を味わったと無意識のうちに思い違えている、と。ま、これは完全に憶測ですけどね。