11 マロン名無しさん :2006/07/27(木) 08:07:35 ID:???
コマの外に落書き
改めて気づくが、これがとても興味深い。
何が興味深いって、作品が描かれている同じ一枚の紙(頁)の上で、たかだか枠線一本をひくだけで、紙の上に描かれているものの次元をずらすことができるってことだ。もうちょっと抽象的に言えば、作品が存在しているメディアに当のそれとは別の水準のメッセージ(情報)を、作品の進行と同時的に、そして容易に挿入することができるってことだ。
(幽遊白書 15巻 p27)
この「万死に値する」は、作品の外にいる作り手からのメッセージ(この場合は感想)だ。作中の誰が言ったでもなく、このメッセージがキャラクターに届いているわけでもなく、私たちと同じ現実世界のみに属するメッセージになっている。作品世界を対象とした現実世界からのメッセージと言ってもいい。明らかに、「万死に値する」は作品世界には関係していない。早い話、「万死に値する」がなくなっても作品内容には変化がないのだ。
(HELLSING 6巻 p93)
これなどは、完全無欠に作品から乖離した作り手から読み手へのメッセージだ。「漫画を作るのを手伝ってくれ」という悲痛なメッセージが、作品とは無関係に発信されている。*1
これは、手塚治虫に代表的に見られるような、作中のキャラクターたちが、自分達は作品内のキャラクターである(読み手や作り手の属する現実世界には属していない)ことを知っているように描かれているのとは少し事情が違う。コマ枠を自覚的に越えたアクションや、メタ的な発言などがなされる作品世界は、キャラクターがそう振る舞った瞬間に、「キャラクターが、自分達はキャラクターであると知っている世界」へと瞬間的にスライドされているのだ。二つの次元が同時的に存在しているのではなく、「キャラクターが、自分達がキャラクターであると知らない世界」と「知っている世界」が即座に入れ替わっているに過ぎない。作り手に擬されたキャラクターが作品世界に登場することもあるが、それは作り手が作品世界に進入した(属した)に過ぎず、次元の二重存立が起きたわけではない。それは作品世界の中だけでの出来事なのだ。
枠線の内側には作り手による漫画世界が広がっているのに、そこから少しでも外れれば、作り手による現実世界に属するメッセージが存在することに何の疑問も持たない。現実世界とは違う水準で構築された作品と、その現実世界にしかいない作り手からのメッセージ。この二つの次元が同じ紙の上で気軽にワンパックにされていて、かつ読み手が特に違和感も覚えないというのは、他のメディアの作品と比べて相当特異なことだろう。
もっとも、他の作品形態でもできないわけではない。例えばアニメなら、普通に放映している最中に監督がボソッと「こいつの台詞は我ながら腹が立つ」なんてことを言う。できないわけではない。不可能ではないが、やって面白くなりそうな気配はない。
基本的には同じ紙媒体である小説や詩などでも、やはりそのようなものは見られない。書籍として形になった作品には、本文(作品内容)以外のものも書かれているが(あとがきや謝辞など)、それは本文とは別の場所に、本文とは別のものであると一目瞭然になるように書かれている。
それでも考えてみて、作品とは水準の違うメッセージということで近そうなのは、海外小説に見られる註などだろうか。
「神は銃弾」にはこのような箇所がある。
ヘッドライトが照らすミルクのような白さの手前で、沈黙の巨大な荒野にとらわれ、暗い真夜中のゆがみを突き抜け、空気を入れるために窓を開け、決してこない変化を待ちながら、彼女はラジオの声にサイラスを聞く――”
彼は車の中で恍惚となってしまった (ビートルズの『ア・デイ・イン・ザ・ライフ』の一節』)”。神は銃弾/著;ボストン・テラン 訳;田口俊樹 文春文庫 p557
ルビは原文を読んでいるなら必要のないものだし、カッコ内のメッセージは、キャラクターによるものでもなく、物語の語り部によるものでもなく、作り手による補足説明だ(書かれ方としては、訳注のようにも思えるが、その記述はない)。作品を素直に楽しむためには不要な情報だが、フレーズの引用であることを明確にするために、「余計なお世話」として書かれている。作品(小説)本文そのものからは離れた、解説としてのメッセージだ。
ただ、これとて本文と全くの無関係のことが書かれているわけではない。というか、メッセージの次元は違えども本文に関係あることしか書くことができないのだろう。
ただ、メッセージの発信者が違えば、次元の異なるメッセージの並存は小説でも漫画でも見られる。それは雑誌媒体に限られるのだが、欄外に書かれる作者や同社内の雑誌の作品の宣伝などのことだ。あれは編集サイドからの読み手へのメッセージで、同じページ内の作品とは無関係だ。
映像媒体では、作品と無関係の宣伝は、作品とは別の枠を確保しなければならない。つまりCMだ。作品とは無関係のメッセージを作品と同時に発信しては、作品も宣伝もお互いがお互いのメッセージを毀損しあって、結局共倒れになってしまう。
宣伝の例が端的に示すように、作品を受け取る際に流れている時間が、受け手に大きく委ねられているか、それとも作り手に一律に管理されているかで、この差は現れている。漫画や小説は自分の好きなように読み返すことができるが、映像作品の鑑賞は時間の流れの中でなされなくてはならない。特に劇場で見る映画や生の舞台は一時停止や巻き戻しなどができず、その性格が極めて強くなる。
異なる次元のメッセージを同時に処理することは極めて難しい。私たちにできるのは、それぞれをなるべく早く個別に読解することだ。一つを読解し終わってからもう一つを。そのようなやり方でないと情報が錯綜し、混線する。
時間に引きずられる映像作品は、次元の異なるメッセージが同時に発信されると(例えば、アニメ本編を放映しながらCMも同時に流す)、片方のメッセージを読解している間にもう片方のメッセージが通り過ぎていってしまう。それではまずいので、映像作品からのメッセージは、次元が異なる場合はタイミングをずらさなければならない。
漫画から発信されるメッセージは、時間の流れが凍結(fixed)されている。受け手が読むことで初めて作品に時間は流れ(「物語」を読み取れ)、読むのをやめれば「物語」は時間軸のないただの絵と文字に戻る。時間(「物語」)の解凍と凍結はON/OFFの関係で、そこに時間差はない。ある次元のメッセージを読み取っている最中は、別の次元のメッセージは時を停め、それを解釈し終わり、またもとのメッセージの読解に戻れば再びそちらの時間が流れ始める。
漫画での時間は、現実のものではなく作品としての時間だ。漫画の時間は客観的には凍結され続けているのだが、読み始めることで、主観的には作品の時間が解凍され、時が流れ始める。
映像作品は逆に、現実に時間が流れなければメッセージを受け取ることができない。というよりは、メッセージの発信と時間の経過が不可分のものであるというのが正しいか。現実に時間が流れなければ、フィルムは動かず、音は流れず、メッセージはメッセージになることができず、受け手もそれを受け取ることができない。客観的な時間の経過と、主観的な情報の受信が軌を一にしている。
この、作品にとっての時間のありかたが、次元の異なるメッセージの並存の要諦だ。
ただ、これだと同じ紙媒体(基本的には)である漫画と小説の違い、漫画と違ってなぜ小説ではそれが一般的にはなされないのかがはっきりしていないのだけど、それに触れだすとさらに文章が莫大になるので、記事を改めて書こうかなと。
共に時間を凍結された作品形態である「小説」と「漫画」の、メッセージ(「物語」)を発信する形態としての質的な違いってのは、個人的にとても興味深いのです。
一言コメントがある方も、こちらからお気軽にどうぞ。
*1:まあ、「作品とは無関係なメッセージも包含している作品(シリアスなシーンにも、無関係なメッセージを入れてしまうような性格の作品)」というようにメタ的な解釈もできるのだけど、それでも次元の異なる情報が同一紙上に並立していることには間違いない