- 作者: あずまきよひこ
- 出版社/メーカー: 角川グループパブリッシング
- 発売日: 2009/11/27
- メディア: コミック
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我が身を振り返れば経験のあることと思いますが、楽しいことをしているときの一時間と、退屈なことをしているときの一時間は、同じ3600秒とは思えません。
「熱いストーブの上に手を載せた一分間はまるで一時間のように感じられ、かわいい女の子と一緒にいる一時間は一分間くらいにしか感じられない」とはアインシュタインの言ですし、最近ではこんな記事もありました。
「もしあと1時間しか生きられなかったら?」秀逸だと絶賛されていた回答
歳をとってからの一日と幼い頃の一日の長さも、本当に同じ24時間なのかと疑いたくなってしまうものです。
このように、客観的な時間が不変のまま流れていても、主観的な時間はその時の気分次第でいかようにも流れるスピードを変えてしまいます。
幼いよつばにとっては目に映るものが軒並み新鮮で、よつばの世界は私達のそれより遥かに不思議に溢れています。その不思議を存分に味わおうとよつばの意識はフル回転し、ほんの一つ一つの行為が意味深いものとなるのです。
コマ送り技法は、絵の地を動かさずによつばの行為を細かく分割することで、作中でそこに時間が経過していることを必要以上に示唆し、よつばの主観的な時間(密度の濃い時間)とリンクさせています。
(8巻 p50)
(9巻 p126)
(9巻 p182)
お子様セットを食べるよつば。バランスボールで遊ぶよつば。気球の上昇を眺めるよつば。絵の地を固定して、特定の対象のみを動かすことで、よつばが味わっている一瞬一瞬の密度を表しているのです。
最近ブログ内でよく書いていることとも関連するのですが、アニメや映画はそれを鑑賞する時に客観的な時間の流れに縛られますが、漫画や小説はそうではありません。前者の映像形態の作品(動の作品)は、キャラクターの動作や音声は実際の時間に従って動き、流れ、その制限を越えて受け手に「物語」を届けることはできません。翻って後者の文字や絵による作品形態(静の作品)は、「物語」が受け手に届くスピードは受け手の読むスピードに縛られ、それは受け手一人一人で違うものです。
これは、作品内の時間経過と受け手(現実世界)の時間経過は同じではないということで、例えば
(8巻 p38)
このコマの虎子の「おまえ一人で来たの?一人でこんなとこ来ちゃだめだろ」という台詞。この台詞が現実に読まれる分の時間を使わなくともこのコマを読むことはできますし、逆に、その分以上の時間を使ってじっくり読んでから次のコマへ進むこともできます。そして、読み手の時間が台詞分の時間と対応していなくとも、コマ内はその台詞分でしか時間は経過しない。*1
この作品世界と現実世界の時間のズレは、作品世界のキャラクター間でも主観時間の経過が違っていることを表すのに都合がいいのではないかと思うのです。
受け手が読む時間は、コマ内のキャラクターの動作や音声に左右されませんが(コマ内の情報量の多寡でいくらか変わりますが、同期するわけではありません)、キャラクターの時間の濃度はコマ割次第で変化する。逆に言えば、ある動作をするキャラクターのコマ数を増やせば、読み手はその分その動作を読む時間が増える、ということです。8巻p50の例で言えば、これを読む時、読み手は4コマ分の時間をかけて読むわけですが、もしこれが2コマで表されていれば2コマ分の時間で読んでしまう。つまり、ある動作にかけるコマ数を調節することで、読み手の時間をも調節することができるのです。
「よつばと!」では、普通に描いている中で、よつばの行動、あるいはよつばが対象としているものの描写に時折このようなコマ送り技法を使うことで、読み手の読む時間を遅らせ、他のキャラクターとは違うよつばの濃密な主観時間とリンクさせているのではないでしょうか。
それはそれとして、今巻であさぎのかわいさが確定されました。気球の回のあさぎがあまりにかわいくて、どうして自分のところに嫁に来ないのかと不思議に思ってます。
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*1:複数のコマを考える場合はまた別。あくまで音声(文字)のある一つのコマ内の話です