ポンコツ山田.com

漫画の話です。

嬉しい悲鳴は嬉しいけどやっぱり悲鳴でもあるという話と、文章のドライブ感の話

昨日の記事(「BLACK LAGOON」 「面白さ」を求めたロックは「夕闇」にいられたのかという話 - ポンコツ山田.com)の最後でもちょろっと書いたけど、本来書こうと思っていた記事は、「BLACK LAGOON」ロベルタ編を読んでて感じた、「正しさ」と「狂っている」の水準の話だったのだけれど、それをどういう論立てにしようかと考え、何度か書くも上手くまとまる気配がなかったので、まとめる上でネックとなっていたロックの印象の変化についてまず考える形になったものだ。9巻を読んで、改めてロベルタ編を読み直して、ロックがどんどん悪人面になっていくのが、何かこう、元々書こうとしていた話にそぐわなかったのだ。
だから、記事を書いている真っ最中でも、当のその記事がどんな結論に落ち着くのかが自分でわかっていなかった。なにせ記事のタイトルだって全部書き上げてからつけたのだから(まあ、他の多くの記事もそのケースが多く、初めからタイトルが決まっている方が稀)、どれだけ場当たり的に書いていたのかわかろうものだ。「夕闇」や「享楽主義」といったキーワードでさえ、後々ででっち上げたようなものだ。「そうか、この二つがどう関係しているのかが、ロックに関するもやもやの原因なのだな」と(実際は、両者は相互的に関係しているわけではなく、本来無関係なのに関係あるように見えたために、ロックの印象のすわりが悪くなっていたというのは、記事で書いたとおりだが)。まとめのようになった「読み手の眼は誰の眼か」のくだりは、書いていた自分自身でなるほどそういうことだったかと膝を打ったものだ。
そんな、ある意味では適当極まりない感じで生まれた記事だったので、読んでくださる方の反応は普段より薄いのだろうなあと思っていたのだが、ところがぎっちょん、むしろ普段以上の反応(とてもありがたいことに、概ね肯定的な反応)があり、青天の霹靂とはこのことだった。
作り手と受け手の評価にずれがあるというのは「吼えろペン」でもお馴染みのエピソードだが、当の自分の身に降りかかればやはりいくらか当惑してしまう。特にそれが、マイナスからプラスに跳ね返る反応ならばなおさらだ(逆の場合はそこに落胆が付随するので、遥かにマシだが)。自信を持って書いたものがいまいち評価されないのと、自信のないまま書いたものが評価されるのは、そりゃあ評価される分だけ後者のほうがいいに決まっているけれど、読み手との間で価値観の乖離があるということを思い知らされるのは、どちらにせよ気持ちのいいことではない。ま、それを糧にしてやろうと思えるくらいポジティブになれれば、今後更に価値観の擦り合わせができるということで丸く収まるのだが。
それはそれはそれとして今回の場合を考えてみると、結論も見えないまま場当たり的に書いたと上で書いたが(こうして取り出してみると、ずいぶんな態度だな)、それは裏返して考えれば、勢いのままに書いたと言うことができる。筆ののるままキーボードを叩くまま、どういう考えが出てきてどんな文章になるのか、自分で自分を把握できていないままに書いた文章は、書いた当人にとっても妙に新鮮に映った。そのくせ書いたものを読み返してみれば、「ああ、やはり自分の書いた文章だな」と思うようなフレーズや言い回しがてんこ盛りだ。「自刃する雪緒を見届けることで誓う、悲壮極まりない約束」や「日本刀による自死という凄惨な結末」、「対象の死という悲劇的結末を迎えた日本編では、「夕闇」に立ったロックはポジティブなもの(男前と言い換えてもよし)として映り、対象の生存というハッピーエンドのはずのロベルタ編では、「夕闇」に立ったロックは嫌悪されるものとして映った」なんて、なんとも自分らしい(と自分では思う)し、好きなフレーズでもある。
ただ、勢いで書くというのも勿論良し悪しで、好みのレトリックが生まれやすい代わりに、ロジックがどうしても薄くなる。そりゃあ結論が見えず、そもそも何を描きたいのかもよくわからずにある程度以上の量の文章を書けば、論理の一貫性は弊履の如くにぞんざいになってしまう。最後まで書き終わったあとでちょこちょこ手直しをして、なんとかぶれを少なくしようとするが、限界はある。
じゃあ問い立てと結論が出たのだから、改めて書き直せばいいのではとも思うが、果たしてそうしたときにレトリックは生き残れるのか。レトリックは単独で存在するものではない。特徴的な言い回しが違和感なく収まるかは、その前後の文脈の性格で決定される(すぐ上で、レトリック単独を抽出した人間のセリフではないが)。
勝ちの決まった賭け事が面白くないように、結論が確定してしまっている論理を形にするのはあまり楽しいものではない、という言い方だと語弊があるので言い直すが、結論が確定している論理を形にするときには、どこか安心感がつきまとってしまう。それは文章を書くという行為のライブ感にとって弱点となりうる。音楽の本質/根源がライブ(臨場/即応)であることに異論はないと思うが、文章にとってもそれは変わらない。自分は一つの記事は一度で形にしなければ気がすまない人間で、長時間をまたいでしまうと途端に続きを書く気がなくなってしまう。3,4000字程度なら、集中力の続くところで一息に書いてしまいたいのだ。きっとそれは、絵でもいくらか共通するところがあるのではと思うが。
とまれ、勢いに任せて書いたドライブ(D-LIVE)感たっぷりの文章は、普段のものより読み手を引き込みやすかったのかもしれない。結論(ゴール)が見えないままアクセルを吹かすのは実に危険だけど、実にスリリングだ。その危険と隣り合わせの感覚に溺れないまま乗り切れれば、結構面白い文章が書けるように思う。
最後に、昨日の記事の内容面で言えば、ロックの在り方についてのもやもやに一つの解釈の筋ができて、書いた自分自身すっきりして膝を打ったように、そのもやもやは読み手が共通して感じていたものだった、かつ読み手が自分の言葉で同様の解釈ができた、という可能性もあるだろう。物語の始まりからロックの在り方を炙り出していって、それを適宜腑分けしていって、最終的に(暫定的に)出した結論が、他の読み手にとっても腑に落ちるものだった、とか。
感覚に言葉を与えてやるのは好きなので、それが他の人とも共有しうるものになっていたというのなら、素直に嬉しい。




まあだらだらと昨日の記事の反応から感じたことを書いたけれど、元々書こうと思っていた記事をいざ書いて、昨日のものより反応が芳しくなかったら、それは充分自分を落胆させるのは間違いない。






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