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漫画の話です。

作り手が自らの作品に持つイメージなど受け手は知ったこっちゃないという話

島本和彦先生の「吼えろペン」11巻第43話「暗闇に向かっていけ!!」は、かなりギリギリなことを言っている話だと思う。
いや、「吼えペン」シリーズ自体相当ギリギリな話なのだが、この話が孕んでいるギリギリ感は、物語の創作に携わる人間にはかなり重く堪えるものだろう。
話の筋はこんなだ。ちょっと詳し目に書いておく。


相変わらず締め切りに追われている漫画家・炎尾燃は、作品のインスピレーションになるような何かを求めてレンタルビデオ屋の棚の前を右往左往するが、レンタルビデオ屋で目を惹くA級タイトルなんかは、大勢の意見やお金がかかっている分だけ突出する何かが削り取られているのではないかと危惧して「これだ」という一本を借りられない。そんな迷う時間を惜しんだスタッフが「ここでうだうだしているくらいなら封切られている映画でも観ましょう」と忠告したために、彼らは映画館へ向かった。
炎尾は映画館のホールで「パラダイス映画祭」を主催する男に話しかけられる。「パラダイス映画祭」とは、一足先に公開される話題作やなかなか劇場で公開されない作品を集めて上映するイベントなのだが、炎尾はその応援団長としてメッセージを寄稿してくれないかと頼まれた。そして、そのイベントのために募集されたアマチュア映画の中の優秀作二本の監督とトークショーをしてくれと。
大作と呼ばれる作品に(身勝手な)憤懣を抱いていた炎尾は喜んでその依頼に飛びつき、スタッフたちにご高説をぶち上げてくれる。曰く
「これからはアマだよ!!」
と。アマチュアはお金のない分、情熱や精神力、アイデアでぶつからなければいけない。作品とは心に響くかどうかだ、そこさえ間違っていなければ画面作りが稚拙だろうと、否、稚拙だからこそいいのだ。とかなんとか。
意気揚々とイベントに乗り込んだ炎尾は上映前に二人のアマチュア監督と会い、↑の意見に合致するようなことを言ってくれた二人の作品に否が応でも期待が高まる。
だが、いざ蓋を開けてみたら、これが駄作の一言に尽きるような代物だった。どれくらい面白くないかといえば「体調を崩すくらいに面白くない!!!」。絵は暗いし見づらいしとにかく単調。そのくせ話の筋が全くわからない。さらには音はズレズレ。上映中に炎尾はトイレに駆け込んで戻してしまうほどだった。
「どんなに面白くない映画を観た後でもいいところを見つけることができる天才」を自称する炎尾でも、トークショーで何をしゃべればいいかさっぱり思いつかない。それでもトークショーには出なければいけない。両手ぶらりのノーガードで臨むことを覚悟した炎尾は上映ホールへ戻ったが、丁度上映が終了したそこでは割れんばかりの拍手が鳴っていた。プロの漫画家である自分だけがこの映画を理解できなかったことに、炎尾はひどく落ち込む。
そして始まったトークショー。司会から感想を求められた炎尾は開口一番、謝罪をした。
「全然っわかりませんでしたー!!!」
呆気にとられる監督二人、司会者、アシスタントたち、そして観客。言いようのない緊張に包まれる映画館の中で、アマチュア監督の一人が炎尾の肩に手を掛けこう言った。
「大丈夫ですって!炎尾さん!!――そのうちきっとあなたにも……わかる明日がきます!!!」
トップダウンの)その言葉に深く感じ入った炎尾は監督たちになおも謝罪するが、彼らは鷹揚に許すのだった。
トークショー終了後、失意のうちに帰ろうとしていた炎尾を待っていたのは、「パラダイス映画祭」の観客たちだった。彼らは口々に炎尾を褒め称え、握手さえ求める。実は彼らも体調を崩すほどにまるっきり映画を理解できず、そのことを正直にカムアウトしてくれた炎尾に熱いシンパシーを覚えたのだった。
熱い涙を流した炎尾は皆に呼びかける。
「じゃあ……ここだけの話だが……体調不良を治すために、みんなでプロの映画でも観てかえろうかー!!!!」
改めて皆で観たプロの手による映画に、炎尾は深い安堵を覚える。内容なんてなくてもいい、きちんとした構図で、きちんとしたタイミングで音が出て、きちんとピントが合ってるだけで、それだけで癒されるものなのだ、と。それが理解できただけでもこのイベントはとても有意義なものだった、と炎尾は自虐的に振り返るのでした……


長くなったがこんなだ。
この話で何が物語の作り手に圧し掛かるかといえば、自信満々なアマチュア映画監督の二人だ。
彼らは自分の作品の出来について(話の中での描写上は)まるで揺らいでいない。傑作であることを一切疑わず、プロの作品にも劣らないと自負している。
だが、それを観た者の反応は一様にゲンナリだ。いや、ゲンナリを通り越してグッタリだ。健康すら阻害されている。仮にもこの彼らの作品は応募されたアマチュア作品の中から選ばれた優秀作なのだが、それを露とも感じさせない凄まじい出来なのだ(応募総数が書かれていないので、もしかしたら彼らの作品しか応募がなかったという可能性も捨てきれないが)。
作品に対する作り手の評価と受け手の評価の乖離。それが極めて誇張されてこの話には描かれている。
作り手(この場合は映画監督)の頭の中には、作品のイメージが確固として存在している。それは作り手が作品について全知であるというわけではない。「このシーンはこのため、あのシーンはあれにつながる、そのシーンではそれを表現したい」というような、作品の各シーンに対する意図が作り手にはあるということだ。
映画やアニメなど、視覚と聴覚が複合的に構成される作品では各分野で多くの作り手が携わっているため*1、各シーンの中に意図とはそぐわないものが偶発的に混入することがある*2が、それで意図そのものが阻害されるわけではない(そこまでひどいものであればリテイクだ)。あくまでシーンの解釈の余地が偶発的に広がるだけだ。
作品について全知ではないということは、そのような余地にまで責任を負えない、ということだ。それでもシーンに対する作り手の意図は確かに存在している。*3
それはつまり、作り手は端から作品に対して読解のコード(法則、約束事)を知らされているようなものだ。出来上がった作品の各シーン、各カットが、そのコードを知らない初見の受け手にとってはどれだけ意味不明に思えるものであっても、作り手はそこにコードによる補正をかけて読み解くことができる。それが上に挙げた話の中の、炎尾たち受け手と監督たち作り手の作品読解の差なのだ。健康を阻害されるほどに意味不明な映画であっても、その全体像を知っている作り手にとっては、意味不明なところなどないのだ。


このアマチュア映画監督二人の態度を少し敷衍してみよう。すなわち、アマチュア漫画家やアマチュア小説家にまで考えを広げてみるのだ。この際「アマチュア」という括りをとっぱらって、全創作者としてしまってもいっこうに構わないのだが、他者によるチェックが構造的に備わっているわけではない*4、かつ作品の製作工程が基本的に自分の理解の範疇で行われる分野*5として、アマチュア漫画家及びアマチュア小説家を挙げた。
彼らの脳内にどれだけ素晴らしい作品の構想があろうとも、それを受け手に発信するためには、漫画なり小説なり、それが実際に作品の態をなさなければいけない。そして、どれだけ素晴らしい構想の下に生み出された作品であろうとも、作品として態をなしていないのであれば、それは駄作の謗りを免れることは出来ない。いくら後付けで「このシーンはこういう意味がある、あのシーンはあれの伏線なのだ」と言い立てても、作品の中で効果を表さなかったその意図に意味はない。
作り手には、自らの作品読解に関するコードを意図的に忘れる能力がなければいけない。簡単に言えば、客観的に自分の作品を見る必要があるということだ。
作り手は、作品が出来上がった時点でその作品の全体の流れを把握しているということでもある。作り手において、作品が出来上がった時点で初見ということはありえない。また、作り手は製作を通じて、コードを反復的になぞっていることになる。作品が完成に近づけば近づくほど、作品のコードはより一層作り手自身に刷り込まれていくのだ。
ために、作り手がコードから自由になることはひどく難しい。難しいというよりは、原理的に不可能と言っていいだろう。
だから、作り手が出来るのは、そのコードがいかなるものであるのかということに出来る限り自覚的であることだ。
それは偏見に似ている。人間から偏見を取り除くことは出来ない。どんなに偏見のないように見える考え方であっても、それは「無偏見であるように見える」という偏見に過ぎない。
いわば、全ての考え方が偏見であり、偏見のない考え方、すなわち純粋で正当、無謬である考え方などないということなのだが、だからこそ各人がすべきであるのは、自分が持っている偏見はどんなものなのかという自覚的な把握なのだ。


これは物語の創造に限った話ではない。このような評論文でさえ、この軛と無縁であるわけではないのだ。
評論文の語り手にも、語るべきもののイメージが存在している。だが、受け手にそのイメージが共有されているわけではない。語り手が自らのイメージに一人よがっている文章は、つまるところ論旨の一貫しない文章、論旨の見えない文章、有り体に言えば駄文だ。受け手にはその文章が語るところが見えてこない。
自らが語るもののイメージと、それが形となった現実の文章。「自分が語りたかったことは何か」ということを明確にした上で、そのイメージを捨象しないと、作り手はコードの客観的な把握ができない。
この論が自分自身に向かっている刃であることを強く自覚しながら、日々の文章を書こうと思うばかりだ。






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*1:演出サイドで監督がいて、カメラマンがいて、音響がいて、BGMを作るスタッフがいてその他諸々。実際に映像に映るサイドで役者や大道具スタッフ、衣装係などなど

*2:役者の本筋とは関係ないちょっとした手振りやメイクの微妙な差異、大道具の作り手の癖、あるいはもっと広く雲の形など

*3:監督以外の、先述したそれぞれの作り手にも作品に対するイメージがあるため、作り手が百人携わっていれば百通りの作品のイメージが大同小異で存在している。その総体として作品が生み出されるため、現実に生み出された作品が監督のイメージと完全に合致することはない。その意味で監督のイメージが作品に対して完全に適合しているのではないが、大同小異として誤差の範疇で片付けられる。あるいは、完成作品こそがイメージだと、事後的に修正されているのかもしれないが

*4:プロであるなら、現実に公開、発表されるまでに何重ものチェックが構造的に存在しているが、アマチュアは特にそれがなくてもかまわない。あった方がいいに決まっているが、製作→発表の段階で構造的にチェッカーが内在しているわけではない

*5:広く音声を伴う動画作品は、監督が音声や作画、役者の演技など、どれかに通じていることはあっても全てに通暁していることはほとんどない。それゆえ、「こうしてほしい」とイメージを伝えることはできるが、実際にどうすればいいのかは自分ではわからない領域が存在している