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漫画の話です。

「バガボンド」と「極東学園天国」とスピノザと物語の読み

バガボンド(29)(モーニングKC)

バガボンド(29)(モーニングKC)

極東学園天国(1) (ヤンマガKCスペシャル)

極東学園天国(1) (ヤンマガKCスペシャル)

昨夜久しぶりに「極東学園天国」を読み返したら、以前は感じられなかったことが感じられるようになっていました。濃い物語は、時間を措いて読み直すとまた違う味わいを見つけられますね。本は変わらなくても、主体としての読み手が経験を得て変化するから、また違った読みができるというものです。今日はそれに関連する話を。

バガボンド」と「極東学園天国」のあるエピソード



先月新刊が発売された「バガボンド」では、武蔵は吉岡七十人との殺し合いから生き抜いたはいいものの、足に深手を負ってしまい、剣の道を諦めることを迫られています。七十人斬りの咎は咎として牢に囚われている武蔵は、獄中で沢庵の説教を聴きます。以下は、修羅の道、我執の道を歩む武蔵を諌めようとする沢庵のお話。

実は最近声を聞いた
それによると わしの お前の 生きる道は
これまでも これから先も完璧に決まっていて
それが故に
完全に自由だ
(中略)
それぞれの生きる道は
天によって完璧に決められていて
それでいて完全に自由だ
根っこのところを天に預けている限りは


バガボンド 29巻 「#256 声」「#257 矛盾」)

最初に読んだ時は「うん?」とわかるようなわからないような、それこそ武蔵の最初の反応のように首を捻りました。二、三度読んで「まあなんとなく、とりあえず……」くらいの気持ちで本を閉じました。
そして昨日読んだ「極東学園天国」のこの台詞。

「自由を信じているのかお前 いいな
でも 投げられた石が自由に飛ぶと思っているのと同じだな」
(中略)
「石投げたら飛ぶに決まってんじゃん なんのこっちゃ」
「引力で石は下に落ちる
自由には限界があって 運命には逆らえないってことじゃねえ?
それなら 楽しんだモン勝ちだね」


極東学園天国 1巻 COLOR.3「おれにだけはしてみてよ」)

これを読んでピピッと二つの話がつながりました。「そうか、そういうことだったのか」と。
正直、以前「極学」を読んだ時もこの台詞にはピンときていませんでした。今より若かった私は、「ふーん」となんとなくかっこいい台詞に頷きながらも、とりあえず流しておきました。
ですが、時を経て「バガボンド」のこの話を読み、そして改めて「極学」のこの台詞を読んだことで、両者の言っていることが同じなのだとわかりました。ことの順逆としては、
「『バガボンド』を読む」→「『極学』を読む→「『極学』の台詞を理解する」→「遡及的に『バガボンド』を理解する」
て具合です。

スピノザさんの言うことにゃ。



この二つの話が意味するところには、西洋哲学の見地で言えば、スピノザの汎神論が前提としてあります。
wikipedia:バールーフ・デ・スピノザ
wikipedia:汎神論
wikipedia:汎神論論争
あたりを読めばある程度の概説はわかるかと思いますが、この話に絡められるようにざっくりとまとめてしまえば、汎神論とは、文字通り世の中の全ての存在には神が宿っており、自然とはすなわちそれが神である、人間自身の精神も身体も神の属性(神の本質を構成すると我々から考えられる一側面)に過ぎず、それは同じものの二つの側面でしかない、そこから導き出される心身合一論の帰結として、意志とは自由なものではなく、必然的に決められているものである、ってな感じのものです。
誤解を招くことを恐れつつもっと過激にまとめてしまえば、私たちが自分の意志だと思っているものは、実は神さまの手の平の上でしかないんだよ、ってことです。宗教が違いますけど、お釈迦さまの手の平の上で飛び回っていた孫悟空とそう違いはありません。

けどそれは前提に過ぎない。この両者には先がある。



これが、「バガボンド」と「極学」の二つの話の前提。あくまで前提です。両者は、「だからこそ自由だ/自由にやるしかない」と言っています。そこの論理飛躍の一助となる言葉として、日本橋ヨヲコ先生のこの言葉を引用しましょう。

あきらめにも似た前向きさで
日本橋ヨヲコは今日も営業中です


(プラスチック解体高校 1巻 あとがき)

「あきらめ」ですか。別の言葉を捜せば「覚悟」ですか。「全てを受け入れる」と言ってもいいかもしれません。
違うかもしれませんがやはり同じことを言ってる気がする台詞なんですが、こんなのはどうでしょう。

夜明け前からずっと………空を見てた
漆黒から見たこともない深い青へと…
無限のグラデーションを経てゆく空の美しさに…見とれていた…
そうしたら不意に…空の青が落ちてきた
あるいは…私自身の体がコナゴナに爆裂して 心臓だけが天高く どこまでも加速して昇っていく…
そんな感覚だった!
私は私でなくなり 「空の青」と一体化し この世界いっぱいに満ちあふれた…!
それが数秒か……数時間のことか…わからない…奇妙で…強烈な体験だった…
今こそわかったよ 私は今までいろんな人間に会ってきた…わりきれないこと 悲しいこともたくさんあった…
でも
この世に無意味なものなんて何一つない 死んだ人間もひとりもいない


銃夢/木城ゆきと 7巻 「FIGHT36 空仰ぐ者等」)

これは「銃夢」のガリィの台詞ですが、彼女がこのとき感じた世界との一体感は、おそらく宗教的な法悦に近いものでしょう。世界にあまねく自分が満ちて、自分が世界であり、同時に他の全ても等価値に世界であると感じ、世界にある種の「許し」を覚え、世界を受け入れることができたのでしょう。この感覚の後でガリィは、「うす汚れた矛盾だらけの世界」で「必死に生きている人たち」のために戦おうと覚悟を決めます。
ちなみに、このシーンは今この文章を書いている最中にピンときました。「ああ、そういえばあのシーンはそういうことなのかもしれないな」と。やはりこの「銃夢」シーンも、前に読んだ時に意味を充分に掴んでいたとは言いがたかったのですが、この文章を書くという経験、ひいては「バガボンド」を読み、「極学」を読みという経験を通して、理解に一歩近づくことができたのです。

物語を知った私。経験していない私。変わる私。



ですが、今までより腑に落ちたのだとしても、私はこれらの思想・感覚について、十全に言葉にできるとは思いません。なぜなら、私はまだそれを納得できる経験をしていないからです。
複数の他者の経験(物語)を読み合わせ、かつ他の経験を経たことで、これらの物語が意味することは今まで以上に理解できましたが、それは「このようなことがある(はず)」ということを読み取れたからであり、それは私自身の経験とイコールであるわけではないのです。
ですが、世の中のだれもがそのような感覚を経験したり、思想に到達できるわけではありません。むしろできない人間の方が圧倒的に多いのかもしれません。それでも、他者の物語を読みとることができるような経験と読解力を身につけておけば、擬似的にでもその経験を追体験できるのです。それこそが物語の効用です。
漫画に限らず、小説でも、学術書でも、映画でも、絵でも、音楽でも、それは変わりません。物語は、読み手次第でいかようにも変化するのです(「G戦場ヘブンズドア 2巻 Air.11 マチガッテナイ」で、町田都の仕事場で漫画を読む町蔵は、まさにこの「読み手の変化」を体験しているのです)。
本棚やラックに眠っている物語たちをたまには日の目に当ててみると、意外な面白さを発見できるかもしれませんよ。








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