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漫画の話です。

ジャンプシステムはともかく、「サムライうさぎ」をもう一度読み直してみよう

サムライうさぎ 8 (ジャンプコミックス)

サムライうさぎ 8 (ジャンプコミックス)

前回の記事(参考;「サムライうさぎ」打ち切りをきっかけに、ジャンプシステムを改めて考えてみよう - ポンコツ山田.com)では、ジャンプシステムについて書いたため、「サムライうさぎ」そのものにはあまり触れませんでしたので、今回は作品をメインに記事を作ってましょう。

そもそもどんなスタートだったか。



この作品の物語の発端は、既存の武士社会の理念に共感できない下級武士の主人公・宇田川伍助が、己の理念を曲げずに済むようにと、天下一の剣術道場を作ろうとする、というものでした。
ここでいう武士社会の理念とは、作中で「講武館」という幕府お抱えの剣術指南所が露悪的に体現している、「武士にとって、体面(秩序)こそがもっとも大事なもの」というものです。「体面」は、「世間での評判」や「過剰な妻のないがしろ」、「士は農工商の上に君臨している」などに形を変えて、各編で姿を現します。
これに肯うことができない伍助の理念とは、講武館のそれの真逆を行き、「体面より、もっと大事なものがある(自分にとっては妻)」というものです(なお、講武館の理念では「(武士の)体面」と「(社会維持のための、武士の)秩序」がほぼ同義となっていますが、別に伍助は、秩序に対して物申しているわけではありません。むしろ彼は、「体面など気にしなくても、秩序は守れるだろう」というスタンスと考えられます)。ですから、「世間での評判」に対しては「そんなこと気にしなくても、妻と楽しく暮らせる」、「過剰な妻のないがしろ」に対しては「そんな生活が楽しいのか」、「士は農工商の上に君臨している」に対しては「身分に関係なく筋は通すべきだ」というような具合に、アンチテーゼをぶつけるわけです。


当時の武士社会をまっとうに考えれば、伍助の考え方は異端以外の何物でもなく、武士が「自分らしく」などと言い出して上の意見に逆らうというのは、正気の沙汰ではありません。以前、木村拓哉堀部安兵衛を演じた忠臣蔵のドラマで、上司であるところの浅野内匠頭大石内蔵助に向かって「大石さん、オレはあんたの考え方に反対だよ」となどと言うシーンがあったそうですが、もし現実にそのような言葉遣いでそのようなことを言った日には、討ち入りを待たずして打ち首か、いいとこ二度とそんなことが言えないようにした上で、お役御免でしょう。当時の封建社会の常識に、今の常識や感性をうかうかと当てはめることは、あまりにも危険なのです。
ですがそれは、時代考証の精度を要するような作品の話で、「サムライうさぎ」の根幹は、現代の感性に基づく精神性(つまり、伍助の「体面だけが全てじゃないはずだ」の理念です)を表現することであり、江戸時代の秩序紊乱者の物語を描きたいわけではないでしょう。この作品はあくまで精神性をテーマとするものであり、描きたいテーマをを際立たせるために、身分のくっきりした封建社会である江戸時代を物語のベースにしたのだと思われます。物語成立の順逆としては、「何を描きたいか(テーマ的な意味で)」がありきで、そのテーマを活かすために、真逆の過剰な理念がまかり通っていた(というフィクションにしやすい)江戸時代、そして下級武士という設定が生まれたのだと思うのです。

その設定から何が生じたか。



四民のトップである士とはいえ、上役の顔色を窺わなくてはいけない下級武士。そんな設定から生まれた主人公・伍助ですが、彼が自分の理念を通すために選んだものは、剣。武芸でもって出世し、力(武力としても、権力としても)をつければ、自分の理念を必要以上に曲げる必要もないし、なにより妻を喜ばせることができると考えたからです。
少年ジャンプというメディアで連載する以上、その根幹のテーマはともかく、表現上の派手さは欲しいところですから、ただの権謀術数で力をつけるわけにはいかないでしょう。それじゃあさすがにちょっと地味。剣術というアクション要素があったほうが、作品の見栄えはします。歳若い下級武士が身を立てるのならば、剣術をベースにするというのは、まあ漫画としては自然な流れです。
実際、中盤までは作品のテーマをしっかりと描き、見栄えの要素であるところの剣術(運動能力全般)は、要所要所にそのエッセンスだけをいれ、その派手さだけを上手いこと取り出しています。例えば3〜4巻の「借金返済編」では、伍助の剣術(運動能力)が披露されたのは、キクが運ぼうとしている材木を細切れにするところと、落ちかかった吊り橋を素早く亘りきって相手をぶちのめしたシーンぐらいです。また、「マロ編」のやまねこ道場との戦いも、基本コメディタッチで描いていますから、真面目に戦闘シーンを描く気はないのが読み取れます。片手に四本ずつ竹刀を持って戦う、天を突くような大男を出しておいて、まさか「真面目に戦闘シーンを描きたかった」とは言いますまい(「るろ剣」の「破軍の不二」とかはまあ措いておけばいいじゃない)。
ですが、その作品の見栄えとして必要とした要素が、後にバトル漫画化とするテコ入れに役に立ってしまうとは、なんとも皮肉な話ではあります(ま、そんな初めにあった要素とか関係なく凶悪なテコ入れの憂き目に遭った「タカヤ」の例もあるんですが)。

作品内でのテーマとテコ入れの葛藤。



本誌を読んでいたわけではないので、「サムライうさぎ」がどのように掲載順位を下げていったのかはわかりませんが、バトル要素を入れるのに福島先生が覚悟したと思われるのは、4巻の「二人きりの日」編の最中でしょう。

サムライうさぎ 4巻 p146)
このコマから発される空気は、バトルもの以外の何物でもありません。一度足を踏み入れたら二度と戻ってこられない、悲しみのバトル化道。福島先生が腹を括ったのは、まさにこのコマでしょう。
とはいえ、それでもしばらくは、バトル一辺倒に傾くことなく連載は続きました。御前試合の一回戦は「女子口説き」と、腕っ節がまったく必要ないお話です。実際この話の主役は、今までさんざん腕っ節の弱さをネタにされてきたキャラ・摂津正雪であり、彼の今までの努力と、それが叶わなかった無念、それでも諦めきれない悔しさにスポットが当たりました。それでも最後に剣術に物言わせたのは、まあお話上のお約束といえばお約束で、それ自体はいいんですが、問題はこのシーン。

(5巻 p116)
新キャラの二人が、「うさぎ道場」に来た理由を、完全に武力に求めています。当初の門下生、千代吉とマロは、道場の理念に心打たれて入ったのに。
このシーンは、次の話の展開が完全にバトルものに傾くことがきまってしまったために、その方向付けのためにあえてこのように描いたと見ていいでしょう。福島先生は、バトルに流れることが決まってしまった以上、それならそれで話を盛り上げなくてはならないと考え、こうしたのではないでしょうか。だって、物語の流れとしては明らかに浮いてますもの、このシーン。「いままで」ではなく、「これから」のために、涙を飲んで描いたシーンかと思うと、こっちまで泣けてきます。

そして物語は終わりへ。



結局、御前試合の二回戦、紙面の多くをバトルに費やした「流人」編が終わり、物語は残すところ四話となりました。この時点でもう打ち切りは決定していたでしょうから、福島先生は好き勝手にやり始めます。つまり、アンケートが奮わなかったであろう当初のテーマに回帰し、伍助と志乃の関係性に、きちんと一つの答えを出そうとしたのです。
いや、この最後の四話の話のまとめ方は、非常に上手いと思います。格別ページを増やされたわけでもなく、今までどおりの紙幅であるのに、話の密度が適度に濃く(詰め込みすぎという印象を全く受けない)、伍助と志乃がその答えに辿り着くのに無理がありません。
きっと、福島先生は、かなり初めの段階から(無論打ち切りを知らされる前から)終わり方にある程度の目鼻をつけていたのでしょう。終わり方の構造に、今まで物語を展開して生まれてきた要素を組み入れて、見事四話(最終話は、いかにも打ち切りエンドっぽい形なので、実質三話)で話に区切りをつけたのです。もちろんそれまでの話の展開もそうなのですが、この最終編を読むと、福島先生のネーム力はとても高いと思います。最初から最後まで福島先生の思うように物語が進められていたら、どれだけの良作に仕上がったのか、返す返すも残念です。

余談。



私は「後日談」がすごく好きなので、最終巻の巻末の「その後のうさぎ達」が大好きです。特に、摂津と薄雲の関係。シャツガーターに下駄で包丁を使う摂津が、とてもいい男。つーか、シャツガーターってセンス良すぎでしょ、福島先生。
あと、加代姉の顔だけなぜか、連載中全然安定しなかったなーと。初期の加代姉が一番かわいかったです。


最後にもう一度言いますが、福島先生お疲れさまでした。次の作品もがんばってください。








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