- 作者: 水上悟志
- 出版社/メーカー: 少年画報社
- 発売日: 2008/10/29
- メディア: コミック
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太郎が死んだー!!
ということです。
いや、彼が死んでしまうこと自体は、知ってしまっていたんです。本誌を追っているサイトを不用意に覗いてしまったら、さらっとそのことが書かれていて、絶望してしまいました。彼が死ぬことではなく、それを読む前に知ってしまったことに。
「シックスセンス」を一切観ることなくオチを知った過去を持つ私ですけど、別にそれはいいんです。どんな衝撃的なオチであろうと、観る気がなければただの情報ですから。しかし「惑星のさみだれ」は、集めているコミックスの中でもかなり上位にランクしているお楽しみ作品。確かに「死ぬるべき時節には死ぬがよく候」とばかりに、人がさくりと死ねる作品ですから、死亡フラグが忠実にこなされやすくはありますけど。そして太郎君は死亡フラグが立ちかけていましたけれど。
まあ過去を悔やんでばかりもいられないので、内容にも触れましょう。
この巻でのエピソードは、ざっくり分けて二つ。最初の一話のフクロウの騎士・茜太陽のものと、残り全ての太郎君にまつわるエトセトラ。もう少し分ければ、最後の二話はカマキリの騎士・宙野花子のものとなりますか。
最初のエピソード。茜太陽編。
実は敵方のポジションであることを小出しに明かされてきていた太陽ですが、この話で、その点に大きく踏み込み始めました。もともと世界に未練も愛着もなかったということで、ある意味主人公である夕日と似たような属性を持っていた彼。それは名前に「日」を冠する点からも察せられます(この作品では、登場人物の名前が、たいがい対になっています。書くとちょっと長くなりそうだから、また別項で 追記;「惑星のさみだれ」の名前についてあれこれ - ポンコツ山田.com)。ですが彼が夕日と違ったのは、彼に憑いた獣が戦いに飽いたフクロウだったこと。
夕日の場合は、前向きで熱い獣の従者ノイ=クレザント(トカゲ)が憑いたために、その性格に触れた夕日自身も前向きになり、過去の呪縛から逃れられる助けとなりましたが、世界に未練がなくなった似たもの同士が組んでしまった太陽は、その性根に変化がきたすことがなかったのです。
このエピソードでは、そんな孤独の太陽に、馬の騎士とトカゲの騎士がコミュニケーションを図っています。たかだか一回一緒にラーメンを食べたくらいでは、性格が一変することもありませんが、今まで何を食べても美味いと思えなかった太陽が、初めて食事が美味いものだという感覚を持ちえました。
「この人と付き合えるかどうか知りたかったら、一緒に食事をするといい。そこでご飯が美味しければ大丈夫。もし美味しくなければ付き合うべきではない」と内田樹先生はおっしゃいましたが、まあこのケースにも拡大解釈をして当てはめられるお話でしょう。今まで一人で食事をしてばっかりだった太陽は、実に久しぶりに誰かと騒がしくしながら食事をしたようで(小学生だから、学校給食があるんじゃないかとは思いますが)、そのことを意識したわけではなくとも、料理に味を感じられたようです。
このエピソード一つから彼の意識がどう変化していくかはわかりませんが、変化するきっかけくらいにはなると思うのです。それが今後の展開にどうつながるのか。彼は人間サイドに戻ってくるのか。気になるところです。
残りのエピソード。日下部太郎編。
今のところ、全巻通して最も泣かせてくれたエピソードです。
このエピソードの肝は、なんと言っても、一連の戦闘が終わった時のノイの台詞
「東雲殿や秋谷殿は敬われる人物だったが…/日下部太郎は…/皆から愛される少年だったのだな」
でしょう。
この台詞で、それまでの描写に、一気に強く意味づけがされます。意味づけと言うか、解釈の方向付け、と言う方が正しいでしょうか。
各登場人物それぞれに描写された、彼の死を悼む気持ち。彼との思い出(上でも書いた、既に人類側から離れている太陽でさえ、太郎との海水浴の思い出を想起しているのです)。再戦の際の揃った喪服。
普通に考えれば、この作品を離れ、物語の構造一般として考えれば、このような描写は、あくまで「(生存する)騎士が全員揃ってから初めて出た死者に対する弔意」に留まると思うのですが。このノイの台詞のために、「死んだのが太郎だから(=死んだ太郎は皆から愛される人間だったから)」このような描写がなされたと解釈でき、その解釈がさらにフィードバックして、「太郎は皆から愛される少年だった」という認識が改めてなされるのです。
おそらくこの台詞がなければ、途中に挟まれた皆が思い出す太郎関連の描写は、少しうるさくさえ感じられたでしょう。単純に悲しみや喪失感を表すには、付き合いの長い花子ならともかく、まで会ってそれほど経っていないキャラが思い出す描写がちょっと多い感があります。太郎が死んでからの以下三話、太郎の弔い合戦という意味合いこそあれど、三話出ずっぱりでその描写がなされましたから。三巻で夕日は、作中劇の「マジカルマリー」を観て「おじいさんを失ったマリーは数話で立ち直った」などという感想を持っていました。次の話で敵の泥人形を倒すならともかく、月刊誌の三話、つまり三ヶ月かけて倒すのですから、太郎の思い出を引きずり続けるのは下手をすればいやらしくなりかねません。
ですが、ノイの台詞でもって、これらの描写には全て「太郎は誰からも愛される人間であった」という意味合いがつけられ、うるささ、くどさは全て逆転して強い情動を引き起こすのです。なんというか、「ああ、そうだったのか」と腑に落ちる感じ。
記事を書くために何度となく見直しますが、そのたびに涙目になります。このエピソードは秀逸すぎる。
その他ちょっと思ったこと。
今回11番目の泥人形が登場しましたが、そいつは変身能力だけでなく、会話能力までもっていました。風巻の予想が正しいなら、泥人形はこいつを含めて残り二体。質的に一気にレベルアップした感がありますね。ていうか、泥の塊に戻った時に、どっから声を出したんだろう。まあカマキリやカジキマグロが喋ってる時点で、何を今更ってとこですけど。
六巻が終わった時点について。
最新刊を読み終わったところで、再び一巻から読み直してみました。最初の夕日はホントにニヒリズムですね。
キャラが増えてきて、夕日とさみだれ以外にページを割かざるをえなくなり、二人の内面描写も相対的に減りました。というか、最近さみだれが影が薄い。そもそも「地球を砕くのは、魔法使いではなく私」というのが二人の目標だったはずですが、それの描写がすっかり見られません。六巻読んでる間は完全に忘れ去ってました。
夕日自身性格が変わりつつあり、世界に愛着を持ち始めていますが(さみだれの下僕になってから、性格が変わり始める前からそれは言っていましたが、もっとまっとうな意味で)、今彼の内心はどんなものなのでしょうか。さみだれの内心はどんなものなのでしょうか。騎士たちは命を賭ける代わりに願い事を叶えてもらっていますが、精霊アニマの憑依者となっているさみだれにはそのような取引はなかったのでしょうか。即死でなければ完全治癒できるほどの効力を持ちうるのなら、現代医学がお手上げの病気であろうと一発で完治できそうな気もするのですが。とりついている間しか効果がもたないなら、ずいぶんと頼りないボスですが、あるいは「いや、聞けば今回の姫が強すぎるという感が…」という南雲の考えどおり、さみだれが特殊なケースなんでしょうか。
謎がまだまだ残っている「惑星のさみだれ」。続刊に乞うご期待だ!
p.s けどフクロウのタイムパラドックスの比喩は、詭弁だよね。
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