ポンコツ山田.com

漫画の話です。

わたしの宗教へようこそ! 『きょーだん!』の話

ミッション系女子校に通う十条真理(じゅうじょうまり)は、自身の誕生日が12月25日であることをどうこじらせたのか、自分は神であると思うようになり、日々布教活動に勤しんでいた。周りの人間は微笑ましく見てくれるものの、幼馴染みの狩追優(かりおいゆう)は、真理の暴走を止めるのに毎日四苦八苦。文系をこじらせたコミュ障娘・漁織架(すなどりおるか)や、理系をこじらせたぼっち娘・灰野上六季(はいのうえろっき)、ロックをこじらせたお嬢転校生・珠山トミ子と,どうにもなにかをこじらせているコミュニケーションブレイクダウンどもとの高校生活は、騒がしくも楽しくて……

きょーだん! 1 (アルファポリスCOMICS)

きょーだん! 1 (アルファポリスCOMICS)

ということで、額縁あいこ先生『きょーだん!』のレビューです。
アルファポリスで連載されていた(現在第一部完で中断中)4コマ漫画で、異世界チート系が席巻しているアルファポリスのなかで一服の清涼剤となっている作品です。
黒歴史とか百合とか中二病とか各種パロディとか、キャッチーな素材を宗教という鍋の中にぶっこんで、そこからできたのが、意外なほどオーソドックスな4コマギャグ漫画。テンションの高い奇矯なキャラクターの行動と、それをたしなめる常識人枠のキャラクターの行動。ときとして常識人枠のほうが暴走すれば、それを普段は止められる側の人間が冷静に半畳を入れる。テンポのいい掛け合いは,読んでて飽きません。
どこかをこじらせている登場人物たちは、そのこじらせゆえに周りのクラスメートらとうまくコミュニケーションがとれず、それを苦にしていたりいなかったり。オルカは中学時代に文芸部で俺女として過ごしていた痛い過去を引きずっており、高校こそは友人を作ると決心しているものの、もし中学時代と同じ轍を踏んでしまったらどうしようという不安に何度も襲われ、積極的にクラスメートと関わっていくことができません。
花火の美しさを炎色反応で説明したり、昼食を栄養サプリだけで済まそうとしたりと、ケミカルな自分がかっこいいと思っているロッキーは、その態度を貫いているがゆえに友達ができないことを理解しているし、そんな生活が淋しいこともまた自覚していて、実にやるせない日々を送っています。
そんな二人に対して、神を自称するマリは、本人の愛らしさと普段の振る舞いを裏切るハイスペックな頭脳のために、十全なコミュニケーションではなくとも他人と一定の関係性を持つことができているし、ロックに傾倒するトミ子は、「真のロックは大衆には理解できない」と都合のいいことを言い、他人から笑われても意に介しません。
そんな彼女らの間で苦労人然とした常識人・ユウが媒介になって、友達らしい友達関係が生まれています。一緒にいると楽しくて、軽口なんかも言えて、どこかに遊びに行ったりして、適度に気を遣って、たまには気まずくもなるけどすぐに仲直りできて。オルカやロッキーが憧れていた友達関係が、少しずつ形成されていったのです。自分は相手を友達と思ってるんだけど向こうはどうかなと不安に思ったり、遊びに行きたいけど誘っても迷惑じゃないかなと深読みしてしまったりと、そういうぎこちないところから少しずつ、いつの間にか距離が詰められていって、一緒にいるのが当たり前になったり、呼び方がフレンドリーなものに変わっていたり、二年生になる頃にはすっかり自他共に認める友達なわけです。
一見ふざけたギャグ4コマのように思えて、友人関係に悩んでいる思春期まっただ中の女の子たちが少しずつ仲良くなっていく過程が愉快に描かれている、すてきな作品です。私自身、内向きな小中学生時代を過ごしてきたので、人間関係の距離の取り方に悩むオルカに「そう!それっ!!」と共感してしまいます。第1話は、基本的にギャグで通してきたのにラストのオルカのセリフで一気に心温まる話にもってくのがすごい。どれだけ話をギャグ方面にふっていっても、オルカとロッキーが絡むと途端に、友達がいない(いなかった)人間が明るい態度の裏側に隠している一人ぼっちになる怖さが見えてきて、ちょっと切なくなるのです。なんだよ、面白くてグッとくるとか反則だろう。
アルファポリスのサイトで第1〜3話まで読めます。
アルファポリス きょーだん!
スラムダンクに次ぐ永遠の第一部完を見たくないので、早急な第二部開始が待たれます。マジで。


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癖のある級友たちとの癖のある会話劇と普通の日常『スペシャル』の話

田舎の高校へ転校してきた女子高生・葉野は、奇天烈な級友たちと出会う。いつもヘルメットをかぶっている怪力女子高生・伊賀。金に物言わせる金持ちの娘・大石。その大石のナチュラルボーンパシリ・谷。ガソリン大好き(ただしレギュラーに限る)、死んだらガソリンに遺骨を浸けてもらいたい女・藤村。気分を害すると他人をつねらずにはいられない危険な女・筑前。豆大好き・会藤。一癖も二癖もある級友たちに戸惑いながらも意外に馴染んでいく葉野。これはそんな彼女らの日常を描いたコメディである……

スペシャル 1 (torch comics)

スペシャル 1 (torch comics)

ということで、平方イコルスン先生の新作『スペシャル』のレビューです。
常識人(たぶん)がやってきた田舎の高校にはようわからん人間がいっぱい。上記のとおりの奇人変人、というには何か違う、癖のある奴らとの、癖になる会話劇が日常的に繰り広げられます。
イコルスン先生の作品の特徴はなにより、セリフ回しにおける言葉のチョイスでしょう。日常生活の中にあるのに日常会話ではまず使われない、基本的には文字表現でのみ見かけるような言い回し。もちろん漫画のセリフも文字表現なわけですが、それはあくまでキャラクターが口にしているという体なわけで、多少の整理修正はあるものの、漫画のセリフは基本的に現に私達が口にする会話の延長線上にあります。しかし、イコルスン先生のそれはちと違う。文語的とでも言おうか、文章的とでも言おうか、漢語表現の乱舞とでも言おうか。ひょっとしたら、今まで耳目に触れさせてはいたもののどこで使っていいかわからなかった表現を用いて、「会話表現を『脱臼』させている」と言ってもいいのかもしれません。ようやく使えたぞ、比喩表現の「脱臼」。あってるのか?
「ころせーっ」「わがサッカーは人を活かす活人球」
筑前につねられずして級友づらすんな …ってみんな思ってんで」「現地の慣習は事前に知りたいなぁ…」
「無理や! 俺の肉体にはとんでくる家電を受け止めるだけの規格が備わってへんし」「…谷がどんな衝撃にも耐えうる驚異の人材ならよかったのに……」
「頼む! 帰属させてくれーっ」「だめ」「帰属〜」「ノン帰属」
ノン帰属。なかなか言えないなこの言葉。
この、登場人物たちと同等かそれ以上に癖のあるセリフ回しが、素朴なデフォルメ絵柄のなかで展開されるのがまたステキ。絵が丸っこいから、これらのセリフがカッコいいとかイカした感じではなく、三枚目たちによる狂言舞台のようで、奇妙にリアルなフィクションになるのです。そう、この普通ではない会話が普通のものとして進められている感じは、舞台的といってもいいのかもしれませんね。
今までのイコルスン先生の作品は登場人物が単発であることがほとんどだったと思うのですが、本作は続きものなので、話が進むごとに登場人物の内面が深まっていきます。内面が深まるというと大げさですが、要はある人物の色々な面が日常のなかで少しずつ見えてくる、ということです。新たに見えた一面が新たな言葉づかいで描き出され、このキャラクターのこの振舞この性質がこんな風に表現されるのかと唸らされる。なんでもないはずの日常が、全然なんでもなくない言葉で表現されるこの面白さよ。
とりあえずこちらで試し読みができます。
トーチweb『スペシャル/平方イコルスン』
癖のあるキャラクターたちともっと癖のあるセリフ回しがつい癖になってしまう本作。気がつくと何度となく手に取ってしまっています。オススメ。
ところで、イコルスン先生の描く泣きじゃくる女の子ってかわいいですよね。15話の泣きじゃくる大石さんがかわいい。


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『GIANT KILLING』孤独の道を行きかけた達海と、行ってしまった村越の話

GIANT KILLING』最新刊の盛り上がりが「最高かよ……」って感じだったので、思わず全巻読み返してました。山田です。

で、その再読のなかでふと気がついたのが、今シーズン中盤までの村越と、現役時代の達海が、実は非常に似通っていたのだということです。
どういうことかといえば、村越も達海も、ある時期まで、チームの中心という役割を過剰なまでに担っていたのですな。責任感の塊のような村越と、ゴーイングマイウェイの権化のような達海。一見対照的な二人ですが、その実ETUというチームにおいては、フィールド上プレイヤーとしての振る舞いが不自由になってしまうほどに、周囲の期待で雁字搦めにされていたのです。村越は進んで、達海は嫌々ながら、けれど二人とも自分の意志で、その重荷を背負っていました。
村越のキャプテンとしての責任感の強さは、1巻から強烈に描写されていました。

あんたが出てったことで ETUは崩壊したんだ!!
二部に落ちて主力が抜けても俺は残った! キャプテンとしての責任があったからだ!
死にもの狂いでチームをまとめた! 4年掛けて一部に戻った!
俺は……
あんたが潰しかけたチームを………… 必死になって立て直してきたんだ!!
(中略)
チームを第一に…… そのために自らだって犠牲にしてきた
自分のことしか考えなかったあんたに……
俺の気持ちがわかるか……?
キャプテンとして やるべきことはやってきた
この10年……
俺は…… 自分のすべてをETUに懸けてきたんだ!!
(1巻 176〜181)

1巻でのこの言葉が端的に表しているように、チームのためチームのためと、その身を犠牲にしてきた村越。東京Vとのプレシーズンマッチでキャプテンを外されたことや、夏の合宿で達海に指摘されたこと、杉江にキャプテンを交代したことなどを経て、その意識は少しずつ変わっていきましたが、当初はここまでガチガチな考えを持っていました。
そして、チームを支える大黒柱という役割は、彼がひとりで個人的に背負っているものではありませんでした。そうだったらよかったのでしょうが、その役割は、サポーターやチームメイトまでが彼に押し付けていたのです。

そうさ…… 俺達が信用できるのはただ一人……
ミスターETU…… 村越さんだけだ
(1巻 p96,97)

手前ぇの言ってることはなぁ……
村越さんのやってきたこと否定してんだよ
(2巻 p31)

サポーターは村越だけを信用できるといい、チームのメンバーは村越のやってきたことと違うことをしようとする人間に対してそれは村越の否定だと短絡的に評価する。現実と対応していない理想や偶像が先行し、それから外れるものを強く拒否する。そのような、ある種の信仰とさえ言えるような状況に村越は祭り上げられていたのです。
そして現役時代の達海も、同様の状況にありました。代表にも選出され、日本サッカー界の新たな顔とされつつあった達海に、多くの人間が大きな期待をかけていました。

ファンは今のサッカー界に変化を求めている…… 新たなるスターの台頭を…!
それを担えるのは達海猛において他にない!
(14巻 p184)

俺達は達海が引っ張ってった面白えサッカーが観たいんだよ!!
カウンターで前に放り込むだけのサッカーなんてつまんねえんだよ!!
特に深作! お前トップ下で入ってるけどよ
お前じゃ達海の代わりは務まらねえんだよ! 上手くもねえのにそんなポジションやってんじゃねえよ!
(15巻 p188)

そもそもETUは達海のワンマンチームみたいなもんなんだよかよ
達海が抜けて勝てるはずがねえんだよ!
(15巻 p212)

「達海さん…… やっぱり足の状態良くねえのかな」
「あ? あいつ この前試合出たじゃねえか」
「だからそれで悪化したのかなって話ッすよ」
「……」
「それだよなぁ」
「夏キャンプは参加すんのかなぁ」
「後半戦どうなっちまうんだろ」
「……」
(気持ちはわかるが… しかしいつまでも達海さんの心配してていいのか?)
(16巻 p43,44)

サポーターも、スタッフも、選手達も、考えの前提に良くも悪くも達海があり、彼は無責任にその重荷を投げられていました。
前述のように、達海自身はどんなに周りが騒ごうとも、傍から見れば飄々とした態度を崩さず、いつも楽しそうにボールを蹴っていましたし、そういう声には「わけわかんねーこと好き勝手言いやがって…… 人のこと何だと思ってやがんだ?」と悪態をついていました。しかし、内心では彼なりにチームのバランスをとり、チームのためを思って行動し、かつて彼をETUへと誘った笠野が言った「垣根を取っ払ったクラブ作り」に協力していました。そんなクラブを愛している達海でしたが、いつしかその献身は、本来一プレーヤーが担える分を越え、自分を殺してまでチームをまとめようとしていたのです。

「笠さん…… 俺は考えが甘かったよ 俺がいい加減にやってたせいで ETUはこんなことになっちまった…
皆で楽しくなんて思ってたけど… それじゃ駄目だ
俺はもっと真剣に… チームのために意識変えてさ……」
「嫌われ者でも演じてチームまとめるか?」
「!!」
(16巻 p34,35)

達海が進もうと思っていた道は、彼がETUをここまでまとめあげていた方向とまるで違うものでした。笠野曰く、「今のETUは 楽しそうにプレーするお前の姿に周りが惹かれていって出来ていったチーム」であり、その中心にいた達海が嫌われ者になるということは、その「楽しさ」を失くすということになってしまうのですから。そしてそれは、今のETUの喪失であると同時に、「達海猛というプレーヤーまでもが大切何かを失っ」てしまうことになるのです。その危険な道を進もうとする達海を笠野は止め、ETUを離れ海外でプレーをしてくるよう勧めました。達海の核ともいえる「楽しさ」を失くしてしまう前に彼を外へ放ち、そしてそのホームであったETUを立て直すために。
ここで村越に立ち戻りましょう。
周りから過剰な期待と重圧と役割を負わされてきた達海は、そんなの面倒くさいと心底嫌がりながらも、それでも最後のところで一人で背負いこもうとしましたが、その直前に荷を放り出せました。それに対して村越は、時期としてはまさに達海の直後になりますが、達海が放った、本来人間一人で背負うべきでないそれを拾いに行きました。直接の描写はないものの、当初は決して楽な道のりではなかったことでしょう。まだ大きな業績もないい新人の村越がチームのためと思って行動しても、それが積極的に評価されたとは考え難いです。しかし、その献身ぶりが周りに評価され、サポーターも選手も村越を信頼するようになりました。二部落ちしたチームを再び一部に引き上げたもの、おおむね村越のおかげと評価されていますし、その信用は強大だといえます。
ですが、その強大な信用も結局のところ、かつての達海同様、彼一人ですべてを背負う、あまりに孤独な荷役にならざるを得ませんでした。なんとも皮肉なことですが、かつて村越が憧れ、そして裏切った(と村越は思っていた)達海の後を、彼は忠実にトレースし、そしてその先まで行ってしまったのです。
日本に帰ってきた達海が村越を見て、いったい何を思ったのでしょう。そこにいたのは、振る舞い方こそ違えど、現役時代の自分が日本にとどまっていたら有り得ていたに違いない、皆から頼られ、けれど誰にも頼れない、孤独な王様の姿だったのですから。
ETUを立て直すために、まず村越の立場をぼろぼろにするところから始めた達海。それは村越にとってひどく屈辱的なことでしたが、まずはそこから始めなくてはいけなかったのでしょう。以前の自分がいた、一本の柱に支えられるだけの家をいったん解体する。大黒柱は必要ですが、荷重は分散させなくてはいけません。横の力縦の力、色々な方向からの色々な種類の力に耐えられるよう、柔軟な構造が求められます。そのために、まずバラす。
達海が監督に就任して以来ETUは、昨年までとは比べ物にならないような快進撃を続けました。それを目の当たりにした、達海が現役時代にもフロントスタッフにいた現会長は、こう言いました。

しかしやはり人には一番振り返りたい時期というものがある
(中略)
そいつぁまさに お前が7番背負ってプレーしていた頃の話だよ 達海
(中略)
俺達にとっての理想はあの頃だ…… ずっとそれを目指してやってきた
(中略)
実際に今季のチームはいい 俺たちはいよいよ……あのシーズンのような光景が見られんじゃねえかって期待してんだよ
皆お前に 夢を見てんだよ 達海
(14巻 p98〜101)

これが達海にとって非常に恐ろしい言葉であったことは、今では想像に難くありません。達海にとってもあの時期は、たしかに輝かしいものであったでしょう。しかしその輝きは、薄氷の上の危ういものでした。薄い氷を一枚踏み割れば、その下には空中分解寸前の不安定なチームがあったのです。それを理想とされるのは恐怖以外の何ものでもありません。しかもそれを、当時のチーム内部にいた人間が言うのですから、その恐怖はいかばかりでしょうか。その考え方が、村越にも自分と同じような重荷を背負わせていたのではないか。そう身震いしていてもおかしくありません。
だから、達海は笠野に会いに行った。「垣根を越えた意見」を聞くために。「垣根を越えた意見」を言うために。つまり、「垣根を越える」ために。監督が、スカウトが、フロントが、キャプテンが、選手が、サポーターが、「各々の垣根を越えて自分の役割以上の仕事をする」ための第一歩として。
39巻で、代表戦から帰ってきた椿がチームメイトから囲まれるのを見て、笠野は不安を覚えましたが、それを打ち消すように会長から話しかけられました。会話のなかで安心する笠野ですが、本当にETUが垣根を越えるチームになれるかはまだわかりません。けれど、その芽がでているところは見られます。かつての自身の轍を踏まぬよういろいろ達海が思案する中で、杉江ら次世代の成長や、村越の自発的なキャプテン交代など、チームの柱はうまく組みあがりだしているようです。
さあこれからの終盤戦、ETUはどのような活躍を見せるのでしょう。「垣根を越える」クラブとして、楽しいサッカーを見せられるのでしょうか。期待MAX。



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『ヴィンランド・サガ』クヌートの愛と強い意志と孤独な道の話

さて、以前予告しておいた『ヴィンランド・サガ』の、クヌートと愛に関するお話。

愛についてはクヌート初登場の3巻以来、何度となく登場しましたが、彼が真に愛について感得したのは、6巻での、僧ヴィリバルドとの問答のなかでした。

「もうこの地上に私を愛してくれるものはいなくなった」
「それは大いなる悟りです だが惜しい
ラグナル殿のあなたへの思いは愛ですか? 彼はあなたのために62人の善良な村人を見殺しにした
殿下 愛とはなんですか?
(中略)
彼は死んでどんな生者よりも美しくなった 愛そのものといっていい
彼はもはや 憎むことも殺すことも奪うこともしない すばらしいと思いませんか?
彼はこのままここに打ち捨てられ その肉を獣や虫に惜しみなく与えるでしょう
風邪にはさらされるまま 雨には打たれるまま それで一言半句の文句も言いません
死は人間を完成させるのです」
「………………愛の本質が… 死だというのか」
「はい」
「……ならば親が子を… 夫婦が互いを ラグナルが私を大切に思う気持ちは 一体なんだ?」
「差別です 王にへつらい奴隷に鞭打つこととたいしてかわりません
ラグナル殿にとって王子殿下は 他の誰よりも大切な人だったのです・・・・・・・・・・・・・・・・ おそらく彼自身の命よりも…
彼はあなたひとりの安全のために 62人の村人を見殺しにした 差別です」
「わかってきた…… まるで 霧が晴れていくようだ……
この雪が… 愛なのだな」
「…………そうです」
「あの空が あの太陽が 吹きゆく風が 木々が 山々が…
……………………………………………………………なのに……………………
なんということだ…… 世界が……… 神の御技がこんなにも美しいというのに…
人間の心には愛がないのか」
(6巻 p29、30、59〜66)

この巻を読んで以来、何か重要なことを言っているはずなのにその具体的なところがいまひとつとらえきれない、そんなモヤモヤをずっと抱えてきていましたが、最新刊を読んで、既刊を読み返して、なんとなく見えてきたものがある気がします。
この愛についての問答で、作中の他の箇所とのリンクになるキーワードは2点。1つは、「死んで」「愛そのもの」となった人間は「憎むことも殺すことも奪うこともしない」ゆえに「すばらしい」ということ。もう1つは、「神の御技がこんなにも美しい」ということ。
前者については、17巻で、ヒルドの狩りの師匠が彼女に「山読み」の秘訣を語る際に口にされました。

獣はいい 食ったり食われたりしとっても 怒りも恨みもない
怒りを捨てろヒルド 山には要らん
(17巻 p133)

復讐を胸に秘めるヒルドに対して、師匠は「怒りを捨てろ」と言います。「怒りは目耳をくもらせ」「山どころか何も見えんようになる」と。怒るヒルドと対照的に、「獣は」「食ったり食われたりしとっても 怒りも恨みもない」のだと、彼らを評価します。
後者は、14巻で、王となったクヌートの前に和平交渉へ単身赴いたトルフィンを評して、クヌートが言った言葉です。

なんの切り札もないのか! 寸鉄も帯びず 散々殴られ 農場接収をやめろと言いに来ただけか! ハハハハハ!
面白い… これほどくだらない和平交渉は初めてだ…
だが……
美しい男だ……
(14巻 p137)

力でもって脅すでなく、知恵でもってやりこめるでなく、何の策も何の裏もなく自分の前に立って要求を告げただけのトルフィンを評して、クヌートは「美しい」と言いました。「あの空が あの太陽が 吹きゆく風が 木々が 山々が」「世界が」「神の御技」が「美しい」といい、それと対比するように「人間の心には愛がない」ことを嘆いたクヌートが、です。
上記の2点は、愛についての問答の中の「愛の本質は死である」という不穏な答えに対して、新たな補助線を引いてくれました。
まず1つめについて。
「死んで愛そのものになった人間」=「すばらしい」(∵「憎むことも殺すことも奪うこともしない」から)
というヴィリバルドによる式と
「獣」=「いい」(∵「食ったり食われたりしとっても怒りも恨みもない」から)
という師匠による式の類似は明白です。死んだ人間と獣がともによいとされているのは、彼らが他者から何をされても、ネガティブな感情または行動を起こさないからです。そこに差別なく応報を発生させないからです。
それは、以前の記事でも触れた「赦し」とは、似て非なるものです。「赦し」は、素直にされたことを受け入れるわけではありません。されたことに憤り、怒り、復讐心に駆られもします。でも、その上でそれらの感情を腹におさめ、「赦す」のです。決して感情が反応しないわけではないのです。
その意味で、「死んだ人間」や「獣」は非常に非人間的な存在であり、現に生きる人間と対置されているものなのでしょう。言い換えれば、人間的な反応こそ「愛」ならざるものなのです。
さて、ここで2つめの点が重要になってきます。
クヌートは問答のなかで、自然物に代表される「神の御技」を美しいと評しました。そして、策なく自分の前に立ったトルフィンも、同様に美しいと評しました。1つめの点で述べたように、神の与えたもうた愛に溢れたものとは、非人間的なものです。しかし当然のことですがトルフィンは人間です。にもかかわらず、クヌートは彼を美しいと、非人間的なものと同様な評価をした。これはどういうことでしょう。
素直に考えれば、このときクヌートはトルフィンを人間的とはみなかった、ということになります。
たしかに、屈強なヴァイキング戦士団に囲まれても死を恐怖するそぶりすら見せず、死んでもおかしくない暴力に身を晒しながらも一切反撃をしないトルフィンは、非人間的であると言えるでしょう。自己保存は、人間が生物である以上不可避の本能であり、それを最後まで抑えつけとおした彼の姿は、人間ならざる者に映ります。それゆえに、クヌートはトルフィンを自然と同質の非人間的な存在とみなしたのかもしれません。
しかし本当にそうでしょうか。
ヴァイキングの王となったクヌートは、かつてこう宣言しました。「この地上に楽土を作る 生き苦しむ者達のための理想郷を」と。そしてその企みは「神への叛逆」であるとも。「罪を犯し迷い続ける人間の姿そのもの」であるヴァイキングの王として、彼らを救うための楽土を作ろうとしているのです。
そう、クヌートは神の叛徒なのです。死んで愛そのものとなり、神の御元で無窮の幸福を得られるようになった死者ではなく、神の与えたもうた愛を失っている生者、現に生きている人間を救おうとする、叛逆者なのです。
そんなクヌートが、感極まった涙で美しいと評した「神の御技」と違い、清々しい笑顔でもって美しいと評した生者であるトルフィン。果たして彼は本当に非人間的な存在なのでしょうか。
むしろ、逆にこうも考えられるでしょう。つまり、生物に必ず備わっているはずの本能すら抑えつけられる意志を持っているのは、人間以外有り得ないだろうと。
「美しい男だ…… ヴァイキングの中からこんな男が生まれ得るのか……」
これが、トルフィンを評したクヌートの正確な言葉です。
クヌートはヴァイキングを、「混乱と破壊の担い手」「恐怖の略奪者」であり、それゆえに「罪を犯し迷い続ける人間の姿そのもの」と言いました。ヴァイキングとは美しさの対極にある存在であり、だからこそ救う価値があるとクヌートは考えていましたが、そんなヴァイキングの中から、美しさを持つ存在が生まれた。
私は、クヌートはここにヴァイキングの、人間の可能性を見出したのだと思います。自分とは違うやり方で、人間を救う可能性をです。
「混乱と破壊」「恐怖」をもたらすヴァイキングは、本能のままに生きていると言えますが、それと対置される、本能に打ち克つ意志をもつ者。それがトルフィンでした。そして重要なことは、クヌート自身も強い意志をもつ者だということです。「神への叛逆」を公言し、蛮勇荒ぶるヴァイキングを統べることなど、意志薄弱な者ではできません。彼は現世に楽園を作ることを企図する「孤独なる羊飼い」なのです。
おそらくその孤独さは、上でも触れた「赦し」のもつ孤独さと無縁ではありません。憤怒や復讐心といった強いネガティブな感情を呑みこむには、それを暴走させない強い意志が必要です。赦すためには強い意志が必要であり、赦した者は孤独にならざるを得ません。言ってみればクヌートは、神を赦したのでしょう。神は人間を作り、しかしそこに愛を与えず、にもかかわらず人間はそれを追い求めずにはいられず。結果人間は、終わりのない苦悩を生きる運命を背負いました。クヌートはその真実に絶望し、その上でそれを呑みこんで、楽園を作ろうと決意したのでした。絶望を受け入れてそれでも前へ進もうとしたクヌートの心。そこに強い意志を見ることは難しくないはずです。そして、他者には受け入れがたいその事実を受け入れてしまったことで、クヌートは孤独にならざるを得ませんでした。
でも、そんな彼と同等の強い意志を持つ男が眼前に現れ、自分とは全く違う選択肢を示した。平和への道を示した。このときのトルフィンの姿は、「神の御技」とは反対側にある、ヴァイキングの対極にあったと言えるかもしれません。「人間の姿そのもの」であるバイキングを中心に、一方の極には「神の御技」が、もう一方の極にはトルフィンが。その美しさは「神の御技」に迫るものでありながらそれと正反対のものだったのではないでしょうか。
トルフィンもまた孤独な道を歩む者です。しかし、クヌートの横にウルフがいるように、トルフィンの横にはエイナルがいます。孤独な人間が生涯孤独であるわけではありません。その孤独の基となった意志を共有できる人間がいれば、その道に刻まれる足跡は二つになるのです。
神が作った愛。人間にはない愛。それゆえに救われない人間。ヴィリバルドにとって、人間にはない愛は思考の終着点でした。「愛の本質は死」という救いのない彼の結論はそれを象徴しています。彼にとってその事実は絶望であり、呑みこんで前に進みには重すぎる事実でした。しかしクヌートは、そこを行動の出発点にしました。神が作った人間には愛がないから救われない、ならば神ならぬ自分が人間を救う楽園を作る、と。
ヴィリバルドとクヌートにとっての愛の違いは、それが終着点か出発点か、ということだと言えるのでしょう。


これで少しすっきりしました。でも本作には「本当の戦士には剣はいらない」という、数多くのキャラクターに感銘を与えてきた、そして私にはいまだに不明瞭の霧をまとわりつかせているトールズの言葉があります。いつか物語が進んだときに、この言葉の意味を把握できたら、また書きたいなと思います。



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描かれたものには歴史がある、意味がある 「『描く!』マンガ展」の話

平成28年2月11日より,群馬は高崎市の高崎美術館にて,「『描く!』マンガ展」が開催されております。
さっそく訪問してきたので,今日はその感想等をば。
『描く!』マンガ展
三階建ての高崎美術館,1階に「1.すべての夢は紙とペンからはじまる」として,赤塚不二夫、石ノ森章太郎、手筭治虫、藤子不二雄A、水野英子ら,現在巨匠と呼ばれる漫画家たちを展示し,彼らが無からポンと生まれたのではなく,それ以前からの作品などから影響を受けて頭角を現してきたという歴史的文脈の説明をしています。
2・3階では,「2.名作の生まれるところ―マイスターたちの画技を読み解く」として,あずまきよひこさいとう・たかを島本和彦竹宮惠子平野耕太PEACH-PIT陸奥A子諸星大二郎ら,8名の漫画家を挙げて,それぞれの技法や描線の特徴を,生原稿を例に出しつつ解説をしています。まさに「『描く!』マンガ展」ですね。
展示物は,生原稿やネーム,原稿が掲載された雑誌,作画資料となった小物等(『ゴルゴ13』のアーマライトのモデルガンや,『よつばと!』のジュラルミンの鳴き声のモデルにしたテディベアとか。それは実際に鳴き声をあげさせられます),そして各漫画家・作品の描画の特徴について説明文です。
自分が興味深かったのは,やはり生原稿の展示ですね。特に平野耕太先生や島本和彦先生といった,気合いの入った絵を大ゴマで見せるタイプの先生の生原稿を間近で見られるのは嬉しいものです。
展示されている原稿を普段読むのは当然コミックスや雑誌の中,つまり漫画のストーリーの中にある絵なわけで,もちろん絵自体を見てはいるものの,絵そのものというよりも,ストーリーを伝えるものとして,私はそれを認識しています。有り体に言えば,大まかには見ているものの,細かいところはけっこう見過ごしているのですね。まあ見過ごすと言っても,服のしわの一本一本であるとか,背景の一つ一つであるとか,そういう些末と言えるレベルの話ではあるのですが。
で,それが生原稿の展示という形だと,物語の前後の文脈から切り離された,純粋な絵として見られるので,その絵の細部までまじまじと観察できるのです。それこそ服のしわの一本一本や背景の一つ一つ,生原稿ですから修正の跡などまで見て取れます。
そういう見方をして初めて思ったのが,人が絵を絵として認識する過程の不思議さです。当たり前と言えば至極当たり前なのですが,線の集合でしかないものが人間やその他何らかの意味を持ったものとして認識される,二次元の存在が想像の中で三次元として立ち上がる,そういうプロセスというか,人間の認識の機序にわけもなく感動してしまったのです。
ああ,これが頭の中で動き回っているキャラクターの元なのか,と目の前の線のかたまりを見るのです。線の構成の精緻さに,あるいは意外に粗雑なところに気づくのです。
現実に存在しているものは,目の前にある絵のとおりのはずなのに,脳内で動き回っているものは,自分の認識によって補完されたり省略されたりしています。途切れている線も繋がっているし,細かい背景はなんんとなくぼやけてしまいます。人間は,現に見ているものでもそれと気づかぬ間に,良くも悪くも,いじくり回しているのです。
それを思って,改めて原稿を見て,たとえば平野先生の絵に,細部まで神経の研ぎ澄まされた流麗な曲線と(良い意味で)いびつな鋭角の組み合わせによる,外連味の溢れた一枚絵の迫力を覚えたり,島本先生の絵に,意外と線に隙間が多くとも,むしろだからこそど派手な熱い迫力が生まれるのだと考えたり,あずま先生の絵に,デフォルメされたキャラクターと強く対比的である,すさまじく正確かつ緻密に作られた背景が生む世界のリアリティに驚嘆したりと,新鮮な驚きを感じていました。
その他,原稿横の解説にも色々と考えさせられるものがありましたので,そちらはそちらで,具体的に作品と絡めつつまとめたいと思います。
会期は4/10まで。会期中に,伊藤剛×田中圭一トークイベントや,黒田いずまによる4コマワークショップなどもあります(要予約)。近隣在住のマンガ好きは,一度足を運んでみて損はないと思います。



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『ヴィンランドサガ』と『恩讐の彼方に』復讐心を駆動するものの話

前回の記事の最後で、「クヌートと愛に関する話はまた次回」と書きましたが、いただいたはてブのコメントで興味深い話を見かけたので、そちらについての話を先に。

そのコメントとはこちらです。

憎い仇は、今は改心して人のために働いている。しかし…という点で、菊池寛「恩讐の彼方に」http://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/496_19866.html と読み比べるのも興味深い。 - gryphon のコメント / はてなブックマーク

青空文庫『恩讐の彼方に/菊池寛』は未読の作品でしたので、青空文庫であることと短編であることをこれ幸いに、ざっと読んでみました。これが確かに、トルフィンとヒルドの関係性に似ているのですね。
まずは物語をざっとまとめてみましょう。面倒くさければ次の段落までジャンプ推奨。三行でまとめました。
主人公である若武者の市九郎は、江戸は浅草田原町の旗本・中川三郎兵衛の食客として暮らしていましたが、主の妾であるお弓と情を通じてしまい、それが三郎兵衛にばれ、本来であれば手討ちに合うところ、反撃し、主殺しの罪を犯してしまいました。そのままお弓とお金を奪い逐電、元来善良な人間であったはずの市九郎も、すれっからしのお弓と行動を共にするうち、悪事で路銀を稼ぐことに慣れ、数年後には信濃と木曾の境にある鳥居峠で、昼は茶屋、夜は追剥をたずきに生きるようになりました。しかしある時、まだ若い夫婦を襲ったことをきっかけに、己とお弓の醜悪さをまざまざと思い知らされ、再び、けれど今度はひとりで夜の闇に消えていきました。懺悔の念に囚われた市九郎は出家し了海を名乗り、厳しい修業を積みながら回向をしましたが、それだけでは自分のなしたことの償いにはならぬと、人助けの旅に出ます。九州豊前は樋田まで来ると、そこに年間で何人もの人が移動中に落下して命を落とすという、断崖絶壁の難所に出くわし、これこそ天命この切り立った岩山を貫いて道を造らば必ずや人の助けとならんと、市九郎こと了海は鑿をふるいだしたのです。その一撃は岩山の巨大さに比べてあまりにも小さく、穿たれる穴も微々たるもので、初めの内は近隣の人々も風狂の僧と嘲笑していましたが、歳月を経て、少しずつ穴は深まり、ひたすら鑿をふるい続ける了海に人々も協力するようになり、いつしか道を通すことも夢ではなくなってきました。しかし、そこに現れたのが、かつて市九郎が殺した三郎兵衛の息子・実之助。父の敵を討つべく漂泊の旅を続けてきた彼は当年27歳、ついに巡り合った敵にいざ復讐の刃を振り下ろそうとするも、粛々とその刃を受けようとする市九郎、そして彼を生き仏として崇め、凶行を止めようとする周囲の人間を前に、ついに果たすことができませんでした。せめて道を通し終わってから、という周囲の人間の言葉を受け、いったん刀を収めた実之助は、ただ座して待つのも無益と、市九郎らとともに鑿をふるうようになります。そして彼が加わってから一年と六カ月、ついに穴は貫通し、市九郎と実之助、敵と復讐者は手を取り合って感激にむせび泣いたのです……
以上の流れをさらに三行でまとめなおすと、
男が主人を殺し逃げ、逃げた先でも悪事を働いたが、後悔したので出家し、罪滅ぼしに人助けの旅に出た。
とある難所の岩山に穴を掘って道を作ろうと決意し、何年もかけて鑿をふるっていたら、殺した男の息子が敵討ちにやってきた。
息子は、せめて道づくりが終わってから殺そうと思い、男と一緒になって鑿をふるっていたが、ついに道ができたときに二人して号泣。
となります。
『ヴィンランドサガ』も『恩讐の彼方に』も、自分の家族を殺した憎い敵についに巡り合うも、その男が人に慕われ、人のためになることをしようとしていた、という点で共通しています。前者は絶賛連載中なので、最後にヒルドがトルフィンへどのような判断を下すかまだわかりませんが、後者は「人のためになること」へ共に取り組んでいた二人が、それが達成された際には、手を取り合って喜んでいます。物語はそこで終わるため、果たしてその後に、実之助が市九郎を殺したのかどうか明らかにはされていません。そのまま殺さなかったと解釈するのが素直ですが、それでもなお、市九郎が実之助の前に命を差し出し、それを実之助が討った、という解釈も有り得そうです。まあそれはともかく。
上記の点は両作品で概ね類似しつつも、いくつか差異があります。その一つが、復讐者が敵を前にしたときの態度です。
ヒルドはトルフィンに対して終始明確な殺意を向けていますが、実之助はいざ市九郎の前に立つと、その気力を一度萎えさせているのです。

実之助の、極度にまで、張り詰めてきた心は、この老僧を一目見た刹那たじたじとなってしまっていた。彼は、心の底から憎悪を感じ得るような悪僧を欲していた。しかるに彼の前には、人間とも死骸ともつかぬ、半死の老僧が蹲っているのである。
(中略)
実之助は、この半死の老僧に接していると、親の敵に対して懐いていた憎しみが、いつの間にか、消え失せているのを覚えた。敵は、父を殺した罪の懺悔に、身心を粉に砕いて、半生を苦しみ抜いている。しかも、自分が一度名乗りかけると、唯々として命を捨てようとしているのである。かかる半死の老僧の命を取ることが、なんの復讐であるかと、実之助は考えたのである。

実之助は敵を討ちたかった。でもその敵は、心の底からの憎悪をぶつけるに値する相手であってほしかった。自らの悪行を悔やんでなどいてほしくなかった。世のため人のために働いていてほしくなかった。老醜を晒してほしくなかった。命を進んで差し出すような真似をしてほしくなかった。
復讐とは、激情のままになされるべきもの。

実之助は、憎悪よりも、むしろ打算の心からこの老僧の命を縮めようかと思った。が、激しい燃ゆるがごとき憎悪を感ぜずして、打算から人間を殺すことは、実之助にとって忍びがたいことであった。

ということなのです。打算をしている時点で、すでにそこには打算をするだけの理性があります。それによって敵を殺したとしても、それはただの利益のための殺人行為であり、恨みを晴らすための復讐とはなりません。恨みという激情を昇華させるには、その激情のままに復讐を果たす必要があるのです。
このように、一度は萎えてしまった実之助の激情ですが、再び燃え上がります。

その時であった。洞窟の中から走り出て来た五、六人の石工は、市九郎の危急を見ると、挺身して彼を庇かばいながら「了海様をなんとするのじゃ」と、実之助を咎めた。彼らの面には、仕儀によっては許すまじき色がありありと見えた。
「子細あって、その老僧を敵と狙い、端なくも今日めぐりおうて、本懐を達するものじゃ。妨げいたすと、余人なりとも容赦はいたさぬぞ」と、実之助は凜然といった。
 が、そのうちに、石工の数は増え、行路の人々が幾人となく立ち止って、彼らは実之助を取り巻きながら、市九郎の身体に指の一本も触れさせまいと、銘々にいきまき始めた。
「敵を討つ討たぬなどは、それはまだ世にあるうちのことじゃ。見らるる通り、了海どのは、染衣薙髪せんいちはつの身である上に、この山国谷七郷の者にとっては、持地菩薩の再来とも仰がれる方じゃ」と、そのうちのある者は、実之助の敵討ちを、叶わぬ非望であるかのようにいい張った。
 が、こう周囲の者から妨げられると、実之助の敵に対する怒りはいつの間にか蘇えっていた。彼は武士の意地として、手をこまねいて立ち去るべきではなかった。

この時、なぜ彼の情に再び火がついてのでしょう。
単純に考えれば、邪魔されたがゆえに、その反抗として燃えたのでしょう。ですが、それ以外の理由もあると思います。
それは、市九郎が周りの人間に慕われていたことです。
実之助の家は、三郎兵衛が殺されたことで取り潰しにあい、実之助は縁者の家で育てられました。13の時に父が殺された家は取り潰しにあったことを知らされ、爾来「無念の憤りに燃え」「即座に復讐の一義を、肝深く銘じ」たのです。多感な時期を剣の修行に費やし、19歳からの8年間を漂泊の旅とした実之助。その半生は、決して温かいものではなかったはずです。にもかかわらず、彼の敵である市九郎は、人々に慕われて生きていた。誰とも知らぬ刀を持った男の前に人々がその身を投げ出せるほどに。
だから彼が激情に再び駆られた。父の敵への憎しみと同等かそれ以上に、自分と相手の落差に怒りを燃やして。
自分はこんな孤独な人生を送っているのに、なぜおまえは人々に囲まれて生きているのだ。慕われているのだ。幸せそうにしているのだ。俺の父を殺しておきながら。
そんな怒りです。その怒りゆえに、復讐の念は再度燃え上がったのではないでしょうか。
翻ってヒルドとトルフィンの対峙を見てみましょう。彼女が出会ったトルフィンは、傷跡こそあるものの壮健に育っていました。自身の罪を認めはしたものの、自らヒルドの矢を受けようとはしませんでした。一緒に旅をする仲間がいました。その仲間は、我が身を晒してトルフィンをかばいました。
復讐を胸に生きてきたヒルドにとってトルフィンは、憎悪を燃やすに足る相手だと言えるでしょう。
それでも彼女が復讐を仮にとはいえ止めたのは、呑まれた激情の奔流から浮かび上がり冷静さを回復させ、その時にエイナルやトルフィンの言葉を聞いて、己の中で引っかかっていたた父や狩りの師匠の言葉を思いだしたからです。
エイナルの言葉の前に彼女が激情を忘れ冷静さを取り戻したのは、皮肉にも、彼女自身が始めた一対一の勝負ゆえです。トルフィンを敵だと認識する前から、クマとの戦いを見ていたヒルドは、トルフィンの運動能力の高さを理解していました。狩る側と狩られる側という圧倒的に不均衡な立場とは言え、トルフィンを狩るには相応の集中力が必要であり、その集中力を出すには激情に駆られたままではいけません。「お前の心には怒りがある 怒りは目耳をくもらせる 山どころか何も見えんようになる」と言ったのは、彼女の師匠でした。狩りをするのに怒っていてはいけません。トルフィンを確実に狩るために、彼女は嫌でも冷静にならなくてはいけなかったのです。
それがいいことだったのかそうでなかったのか、冷静になったがゆえに、彼女はエイナルやトルフィンの言葉を聞く余裕ができてしまいました。激情の流れから浮かび上がった彼女の無意識は、トルフィンを赦す理性を得たのです。
復讐に燃える者が、その滾らせた憎悪や怒りを治めるには理性が必要で、その理性のためには冷静さが必要となります。冷静さを生むものが、敵の姿や振る舞いなのか、敵と対峙したときの状況なのか、はたまた別の何かなのか、それはケースバイケースというしかないでしょう。ただ、「赦し」のためには、それが確かに必要なのです。それがなければ、激情のままに復讐を遂げる。復讐の果てには何もない、とは使い古されたフレーズですが、それは激情に駆られた人間には届きませんし、果たしてそれは本当なのか、復讐を果たさなかったことで常に幸福が生まれるものなのか、それすらも実のところわかりません。復讐を果たしたことでそこからまた復讐の連鎖が生まれてしまうことと、復讐を果たした当人の気持ちはまったくの別物です。
上でも書きましたが、道を作り終った後の市九郎と実之助のその後は明らかにされていません。復讐は果たされたのか否か。そして、ヒルドの復讐は果たされるのか否か。
人の心に正解はないように、物語にも正解はありません。ただ、答えがあるのみです。私たち読み手は、描かれる答えを座して待つことにいたしましょう。



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『ヴィンランドサガ』ヒルドの赦しと「孤独な寛容」の話

トルフィンが自らの犯した罪と向き合わなければいけなかった『ヴィンランドサガ』17巻。

かつてバイキングに家族を皆殺しにされた娘・ヒルドが、両足を撃ち抜かれ身動きの取れなくなったトルフィンの前に立ち、彼に殺された父の復讐を果たすべく、弩の引鉄に指をかけました。しかし、トルフィンの旅の同行者であるエイナルやグズリーズの必死の説得とトルフィン自身の嘆願を振り切るようにして撃った矢は、虚空を射抜いていました。撃った瞬間にあらぬ方向を向いた弩は、ヒルドの心の中に生きる父と狩りの師匠が狙いを逸らした。彼女にはそう感じられました。
ヒルドは彼らに問いかけるようにして、自問します。

「赦せ」とおっしゃるんですか……?
こいつを この最も赦し難い男を……
(17巻 p184)

彼女の見た父と師匠は、彼女が作り出した幻影です。彼らが示したものが彼女の自覚する意図と異っていようとも、その示したものとは彼女の無意識が求めているものに他ならないのです。幻視によって突き付けられた自問の後に、今度はトルフィンに問いかけました。

「………… …………
どうやって償うつもりだ」
「……!
国を……作ります 平和な国を
私が壊した平和よりも平和な国を作り そこで私が殺した人々より多くの人の命を育みます ヴィンランドという…… 未開の新天地に」
「………………バカバカしい 私の家族が生き返るわけじゃない そんなことが私達への償いになるのか?
…………………………………………やってみせろ
この怒りを憎しみを お前の平和の国とやらで打ち消せるというのなら やってみせろ
私は勝った お前の命は私のものだ だがしばらくお前に貸しておいてやる
今日からお前を監視する お前が口先だけの男だと私が判断した時 その頭に矢をブチ込む!! わかったか!!」
(17巻 p185〜189)

トルフィンを生かしておきたくはない。家族の敵を。父を目の前で殺した男を。でも、殺してしまうことに心の奥底で歯止めがかかる。それはいけないと何かが叫ぶ。そのぎりぎりの折衷として彼女は、トルフィンをとりあえず生かし、彼の目指すものが自分らへの償いになるのであれば赦すこととしました。
この、怒りの炎に燃やし尽くされそうになりながらも、トルフィンを仮にとは言え赦したヒルドの姿。ここに何かもやもやとしたものを感じていたのですが、昨日たまたまEテレで見た100分de平和論の再放送の中で発された、「寛容論は孤独な言葉」というセリフを耳にして、色々なことがパズルのピースのようにはまっていきました。
「寛容論は孤独な言葉」とは、ある加害行為に対して被害者やその身内・所属集団が報復を考えることは、社会的には自然なことであるので、被害の当事者である個人が理性でもって報復を止めるというのは、集団や社会の志向と外れることであり、それゆえに報復を止める寛容性とは孤独にならざるを得ないのだ、ということです。
罪に対する罰は、あらゆる先進国で刑法という名前で形式化されています。抑止力として、あるいは応報として、罪に対する罰は社会を適切に維持するのに必要であると、少なくともないよりある方が社会運営が良好に行えると判断されて、報復行為は正当化されているのです。無論その報復は、私人によるものではなく、国家による公的な暴力行為なのですが、行為の主体は違えど、罪に対する罰である以上、それは報復に違いありません。社会は報復を必要なものとして自らの内に取り込んでいます。ゆえに、個人が報復を止めることは、罪に対して寛容を発揮することは、社会の志向に背くことであり、孤独にならざるを得ないものなのだというのです。
番組中では、この言葉に続いて去年起きたパリ連続テロ事件にも触れていました。事件の後、妻を喪った男性がメッセージを発表しました。その中で彼は「決して君たちに憎しみという贈り物はあげない。君たちの望み通りに怒りで応じることは、君たちと同じ無知に屈することになる。」と言い、復讐の連鎖を止めることを堂々と宣言するその声明が世界中で絶賛されたのはご存知の通りです。
しかし私は、当時からこの流れに違和感を覚えていました。男性のメッセージにではありません。メッセージを絶賛し、素晴らしいその通りだと騒ぎ立てる周囲の人たちにです。その違和感の正体が、今までずっとわからないままだったのですが、昨日わかりました。「寛容論は孤独な言葉」であるはずだからなのです。
男性が発したメッセージ、私は憎まない、復讐をしないというメッセージは、彼が妻を不条理に喪った怒りと悲しみに臓腑を捩じ切られそうになりながら、それでも歯を食いしばるようにして絞り出した言葉であるはずです。被害者が、集団が、社会が、凶行に対して報復をしようという激情のうねりが巻き起こる中、自らの内でも同様に燃え上がるそれを必死に理性でねじ伏せた末に、発された言葉なのです。
それを、直截的な被害に遭っていない周囲の人間が、素晴らしいその通りだとさも共感したかのように持て囃すのは、何かおかしいと思うのです。無関係な人間がほめそやしたその騒ぎは、ひどく無責任に感じられました。あなたのその寛容はどこから生まれたのか。瞬間的に感情が燃え上がった後に残った、吹けば飛ぶような灰ではないのか。その寛容に芯は通っているのか。あなたの親が、家族が、妻が、夫が、子供が、友人が殺されてもなお保つことのできる寛容なのか。男性の言葉の重さと、周囲の狂騒の軽さ。その対比はいっそグロテスクでさえありました。
身も心も燃やし尽くされそうな激情を抱えてなお理性で寛容を選びとることは、とてつもなく難しく、とてつもなく崇高なことであるだろうと思います。でもそれは、崇高で、そして孤高なのです。余人が迂闊に共感などできないし、ひょっとしたら共感しようとすること自体畏れ多いことなのかもしれません。
さて話は『ヴィンランドサガ』に戻って。
ヒルドは激情に駆られていました。殺意に駆られていました。それでも彼女は、トルフィンを(仮に)赦すことにしました。このときの彼女の寛容、それは孤独なものです。エイナルにも、グズリーズにも、もちろんトルフィンにも、矛を収めた彼女の内心をうかがい知ることは出来ません。彼女もまた、勝手に忖度されることを許さないでしょう。彼女の寛容は彼女だけのものです。誰かに認められるために、誰かと共有するために赦すわけではありません。その明確な理由はわからなくとも、赦さないわけにはいかないから、赦さざるを得なかったのです。
激情の果ての寛容。共感を求めない孤高の寛容。トルフィンを赦したヒルドは、まさに「寛容論は孤独」を体現していたのです。
さて、そんな彼女の姿とダブったのが、人間には愛がないことを悟ったときのクヌートでした。彼もまた、愛を失った人間に激しい怒りを覚えていたのです。

智を得て かわりに失ったもの
最も大切なもの そしてしれは
生ある限り私達の手には入らぬもの
手には入らぬ それでも
それでも追い求めよというのか! 天の父よ!
(6巻 82〜84)

毒キノコを食べて狂乱状態に陥ったビョルンでさえも怯ませた、クヌート王子の怒り。その怒りを受け容れて、地上に楽園を作ろうとした彼もまた「孤独な寛容」の道を進むものだと思うのです。
で、そんなクヌートと愛に関する話はまた次回ということで。



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