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漫画の話です。

『GIANT KILLING』停滞を生む「慣れ」とそれを打破するものの話

A代表に呼ばれるも、活躍の機会を得られないことに、自分で思ってもいなかったほどに悔しさを覚える椿。そんな彼をベンチに据えて、日本対ウルグアイとの親善試合が始まった38巻。

その去就がいま最も注目される若手の星・アルバロが10番を背負い、ハイプレーヤーらによる怒涛の攻撃と、南米チームの猛攻からゴールを守る堅い守備を誇るウルグアイに苦戦する日本は、序盤から先制点を許します。なんとか巻き返そうと発破をかけあう守備陣ですが、海外組の一人で、イタリアにて堂々とレギュラーを張っている城島が言い放ちます。

笑わせるなよ
軽いんだよ プレーも! 口走ってることも!
(中略)
いいか
俺らがいくら前より良くなった気になってたって 相手のスタープレイヤーがゴールを決めたらホームのスタンドが沸いちまう…
これが今の俺たちの現実だ
ちょっとやそっとの変わったくらいの意識じゃ意味がねえんだ ブランが言ってたように崖っぷちに追い込まれてる……
そう思って後がないくらいの気持ちでやらねえと
俺たちは結局「情けない日本代表」のまんまだぜ?
(38巻 p143,145)

チームを、そして自分自身を追い込むべく発せられたこの言葉、何かを思いださせます。

俺は今 このチームはかなりやばい状況にあると思ってる
俺と同じ考えの奴もいるだろうし そんなことないという意見もあると思う
問題は
その意識のズレだと俺は思ってる
今シーズンの俺達は例年になく勝つことができている 強豪とも互角に渡り合ったりして 実際に随分と成長したとも思う
でも根っこの部分ではどうなんだろうか
勝って乗れてる時は自信に満ちたプレーができても 結果がついてこなくなると昔へ逆戻りだ
俺は…
このチームが本当の意味で成長できているとは思えない 勝って得てきた自信を自分達のものにできてない
これだけ勝ってもまだ ETUは1部に残留してきたことしか自信にできないチームなのか?
(30巻 p205〜207)

達海の引退試合となったミニゲームの直後、痛々しいほどの達海の姿を目にして神妙になったチームメイトへ向けて、杉江が言ったセリフです。
2部への降格ラインでの瀬戸際の戦いを長年にわたって続けてきたETUが、今年に入って連勝して、連敗して。自分たちが強いのか弱いのか、よくわからなくなってしまったチームの戸惑いを、この言葉は辛辣に抉り出しました。
前回のワールドカップで惨敗した日本代表と、残留争いに疲弊しきっていたETU。ブランが監督に就任してから国際試合で好成績をおさめてきた日本代表。達海が監督に就任してから優勝争いに絡めるのではないかというところまで順位をあげたETU。両者の状況はよく似ています。そして、強豪を相手にして苦境に立つと自分達の力を信じきれず、心が竦んでしまうところも。

いくら結果を出し始めているとはいえ… このチームは自信を取り戻しつつあるに過ぎないんだ
要するにマイナスからゼロに戻った状態 ここから本当の意味でチームを強くしていくためには 更に自分達を厳しく追い込まないと
(38巻 p172)

要するにさ 仕切り直すレベルが何処かって話でしょ
連勝したり引き分けたりで ずっとここら辺にあったプライドが
上手くいかなくなった途端ここまで下がる まるで振出しに戻ったみたいに
杉江さんの言ってんのは その立ち返る位置をここら辺まで上げようぜってことでしょ
ETUは元々弱いだの… 勝てたら金星なんて考え方自体甘ったれてる
本当に強いチームは もっと厳しく自分達を追い込んでんじゃねーの?
(30巻p207,208)

ブランの言葉と赤崎の言葉も、見事に符合します。どちらもまだゼロからマイナスに戻ったところであり、「ここから本当の意味でチームを強くしていくためには 更に自分達を厳しく追い込まな」くてなはならないのです。
では、そのためになにが必要があるのか。
それは、変化を恐れないことです。慣れに居着かないことです。

限られた時間の中でチームに戦術を浸透させられる… そのために一番効率がいいのは召集するメンバーを固定することです
しかしこれには落とし穴もある… それが先程言った「慣れ」です
代表に選ばれる自信があるのは大いに結構ですが それが過信になってしまうのは困る
(36巻 p150)

変化が少ないことによる安定。それは組織を運営する上で大事なことではあります。人間の身体や精神がそうであるように、組織内部の急激すぎる変化は母体に大きな負担を強い、時として致命的な損傷を与えることもあるのですから。身体を気圧に慣らさないまま高地へ赴けば高山病に罹りますし、新しい職場や学校で人間関係をうまく構築できず心を病んでしまうこともあります。変化・刺激は、母体が耐えられる程度のものでなくてはまずいのです(もちろん、どの程度まで耐えられるかには個人差がありますが)。
けれど、安定しているだけでは、変化がないのでは、「慣れ」が蔓延してしまうようでは、それもまた組織の成長には有害です。ブランの言うように「落とし穴」なのです。
「慣れ」を嫌うブランのこの姿勢は、既にU-22の試合を観戦する際にも見られます。

ミスターゴウダ 五輪世代の指導は君の管轄だ 僕は口を出すようなことはしないよ
…と言ったそばからひとつだけ言ってもいい?
君たちはA代表とは違う 若者達で作られし日本代表だ
若者は失敗する生き物… そして未知なる可能性を秘めている
ミスターゴウダ… どうか失敗することを恐れずに…
彼らの可能性を引き出す… 魅力的なチームを作って欲しい…!
(28巻 p84,85)

そして、その言葉を思い出して剛田監督が言った言葉が

早いんだよな 20歳そこそこのこいつらが自分達のサッカーなどと型にはまった考え方をするのが
プレッシャーにたじろいでいたのは我々の方かもしれん こんな保守的なやり方では…
オリンピックはおろか… ブランの所へ選手を送り込むこともできんよな
(28巻 p79,80)

「型にはまった」とはすなわち、そのやり方に「慣れ」てしまっているということ。それでは組織の成長に、選手の可能性に、魅力的なチームにプラスとなりません。その結果投入されたのがボランチの椿で、型を打ち破るべくとられた采配の結果は28巻の通りです。
そして、ブランに「友達」と言わしめる達海が指揮するETUの中にも、「慣れ」は忌避するものであるという考えの萌芽は見られていました。

今までこのクラブは勝てなかった分…… ただ勝つことだけに集中すれば良かった
達海さんのやり方に刺激を受け
勝ち続けることで世間の見る目も変わってきたし
椿や赤崎のように評価される選手も出てきた
だがその一方では
この体制にも慣れが生じてきてる頃だろうし なかなか出場機会に恵まれない奴らは面白くないことだってあるだろう
それぞれの考え方の違いが表立ってきても仕方ないのかもな
こうも勝てない状況が続くとよ
(30巻 p40,41)

日本代表にもなった経験のあるベテラン緑川は、チーム内に漂いつつある慣れをいち早く察知し、そこに停滞の兆しを感じ取っていました。
思えば達海がとってきた数々の奇抜な練習、サッカーテニスでレギュラーを決めたり、目隠しサッカーをしたり、合宿の選手部屋のペアをランダムにしたりというのは、それ以外の狙いもあるでしょうけど、慣れを打ち破るという目的もあったのでしょう。それは直接言葉にせずともチーム内に浸透しつつありました。
さて、その組織の成長に邪魔となる「慣れ」。それを打破するためにはどうすればいいのか。

とはいえチームを壊すような真似はできません フィリップに離婚を勧めないのと同じようにね
そうなると大事になってくるのは 危機感を常に持つことです
チームにとってそれは競争 今回初招集したメンバーはその役割を担える選手達です
(36巻 p151)

組織を「慣れ」に居着かせず、適度な刺激=危機感を常に与える。そのために競争を組織内部に起こす。それが、組織に成長をもたらすとブランは考えているのです。
そして彼の「友達」である達海にも、チーム内での競争を明確に奨励しているシーンもあります。

いいか よく聞けよ
ライバルや周りの選手が上手くなることを恐れるな むしろ歓迎しろ
お前達には 人一倍負けず嫌いの精神があることを俺は知ってる
そしてキャンプを経て自信もついたはずだ 各々このチームで戦っていくための武器はわかってきてるだろ?
周りのレベルが上がってきたとしたって 伸び盛りのお前達なら大丈夫だよ
お前達ならおのずと… 自分の武器を磨こうと必死になれる
…… わかるだろ?
仲間が上達して自分の立場が脅かされることと 自分の実力が向上することは直結してんだ
すなわちこれはチャンスなんだよ
(18巻 p54〜56)

ことほど左様にブランと達海の考え方は似通っているのです(なお、ETUのGMの笠野も「チーム力が上がる一番手っ取り早くて決行的な方法はなんだかわかるか? 選手間での競争が激しくなることだよ」(31巻p103)と言っています)。
そのブラント達海、両者に見込まれた椿は、ウルグアイ戦でどんな活躍を見せてくれるのでしょうか。39巻にwktkがとまりません。



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『王様の仕立て屋』人間の弱さと続くことの価値の話

今月新刊の発売された『王様の仕立て屋 サルトリア・ナポレターナ』。

11巻は今までに比べてカジュアルな服装が多く、普段着にスーツは着ないけれどあんまりラフすぎる格好もなあと思っている諸兄への助けとなるものでした。モノトーンに差し色ってかっこいいですよね。
さて、今巻そんな服飾以外で興味深かったのは、何かが続くこと、血筋や伝統が存続することに対する大河原先生のスタンスです。以前もこの記事で「伝統」について書きましたが、それだけにとどまらず、広く人やその営みは、それが自分で終わらず後世まで続くことそのものがまず重要なのではないかという考えが、やはり大河原先生にはあるように思います。
今巻は、大戦中にムッソリーニ率いるファシスト党に苦しめられるも耐え忍び、一族没落を防ぐのみならずイタリア北部の一大財閥として成長させ、半世紀以上の長きにわたり大黒柱として一族を支えてきた、御年90歳にしてなお意気軒昂、ジャンパオロ・パルツァーギ老を中心とした話でした。
ファシスト党のいわゆる黒シャツ隊の面々に苦しめられた過去を持つご老体は、黒い服に対して強いアレルギーを持っており、一族の者がそれを着ることにヒステリックな拒否反応を起こします。けれど、一族の会社を飛び出してフリーのルポライターとして働く、ご老体の曾孫の一人であるチェレスティーノ氏はまさにその黒い服を好んで着るため、仕事上で色々と嫌がらせを受けるのです。主人公の織部悠がチェレスティーノ氏に服を仕立てる中で、パルツァーギ老のアレルギーの根っこが明らかにされるのですが、それは、戦中に黒シャツ隊から苦しめられたのみならず、会社を存続させるため、時流に乗っていた彼らと積極的に交流を図っていた過去もあったからだというのです。
ファシスト党やドイツのナチスの勢いがうなぎのぼりだった時の同時代人たちにとってみれば、国民を統合し、諸外国に対し勇ましく立ち向かうヒーローたちに映ったものですが、戦争が終わった後に歴史を振り返れば、彼らは世紀の極悪人。彼らに憧れていたり、便宜を図ったり、といったことはおいそれと口にできるものではありません。その封じ込めたい記憶のために、パルツァーギ老は黒い服に対して過剰に敵意を燃やしていたのです。
老の口から絞り出すように語られたそれを聞いた後、悠はこう言いました。

人間は半日経てば腹が減り 一分と息を止めていられない生き物です。
天動説を信じなければ異端審問にかけるぞと言われて突っ張り切れる人間は そうそういるもんじゃござんせんよ
何があろうとも ご隠居様が繋いだ瞬間があってこそ 本日 玄孫さんが生まれてきたのです
王様の仕立て屋 サルトリア・ナポリターナ 11巻 p163)

これと同様なことは、実はだいぶ前、無印の『王様の仕立て屋』でも言われていました。

しかし 未知の国で思いもよらない食文化に触れる度 生きるということの切なさを感じずにはいられません
人間の赤ちゃんは生物の中では最も未熟な状態で生まれて来ます
魚は生まれた瞬間から泳ぎ出し 子馬は自ら立ち上がりますが 人間の赤ちゃんは泣くことしかできません
また 人間は朝にどんなに詰め込んでも夕方になれば腹が減る 燃費の悪い生物です
ナポレオンの時代シーザーの時代 記録にはなくとも私と同じ顔をした先祖が確実に存在していて その先祖からほんの一度でも生命の連鎖が切れたなら 今私はここに存在してはいないのです
(中略)
激動の人類史を生き延びる為に 私の先祖が必ずしも清廉であったとは思っていません
どんな善人も腹は減る これが人間の悲しさです
王様の仕立て屋 11巻 p58,59)

生物学者として、世界のあちこちを旅する男性の発言です。祖父の形見だという万年筆のオノトを愛用する彼は、それを示してこんなことも言います。

激動の時代を祖父と共に生き抜いた相棒です
家族に食べさせる一皿のスープの為に ファシスト提灯記事を書かざるを得なかった事もあったとか
(同 p61)

人間は弱い。弱いから、信念を貫いて生きることが誰しもできるわけではないし、生きるためには手を汚すこともありうる。でも、生きなければ、後世にたすきを渡すことができない。
人間の弱さを認めた上で、それでも生きなければいけない、存続しなければいけないという声が聞こえてくるようです。

屈辱でも何でも妥協できるところはして 守るべきところを守り続ける判断は間違っちゃいねえさ
たとえ一個でも種を残せたら森を作る可能性はゼロじゃねえ
王様の仕立て屋 26巻 p46)

とは、作中の服飾評論家ボンピエリ氏のセリフ。

男とは家族の現在のみならず未来をも背負っているからです たとえ戦争で男が全滅しても 女子供さえ無事なら未来は残せるのです
替えの利かない立場にいながら一時の感情でその立場をかなぐり捨てたら 子々孫々の未来をも奪いかねない 男は断腸の思いで未来を選ぶのです
(同 p112)

とは、ペッツオーリ社の幹部フォンタナ氏のセリフ。
伝統とは火の後の灰を崇めることではなく、その火を絶やさぬことである、なんて言葉も、本作ではありませんがどこかで読んだ憶えがあります。
上遠野浩平先生の小説『殺竜事件』では、人類より遥かに強大な存在である竜が、未来ある人間の赤子の命を助けるために、己の命を引き換えにしています。
未来はその不確実性ゆえに、良くなるかもしれないし悪くなるかもしれない。それはわからない。でも、現在においてその流れが絶たれるならば、良いも悪いもそもそも評価ができない。何かを評価をするためには、それを評価をする人とされるもの自体が残っていなければならない。歴史の評価に堪えるためには、歴史の読者が必要なのです。
このような考え方に異論もあるでしょうが、それは作中でも何度か言及されているとおり(ベリーニ伯など)。ですが、異論があるという点こそが、あらゆる考え方に価値を与えます。異論があるからこそ、よりブラッシュアップされる考え方が生まれるのですから。異論反論の存在しない考えは、具体性のない机上の空論です。
長く連載が続くと、色々なことが浮かび上がってきて、そういうのを読み解くのもまた楽しいものですね。



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拍手レス

ハンハンをこんな風に小説のように、深く読み解くことができるなんて思いもしませんでした…
他のジャンプ作品でも解釈等あれば、このような解説お願いします。

ありがとうございます。
ジャンプは雑誌で追っていないので、今読んでいるのというと『暗殺教室』くらいなんですよね。いろいろ書きたい気持ちにさせてくれる作品なので、それについてならまたそのうち書くかもです。

季節の恵みを一杯のスープに 『オリオリスープ』の話

スープの中には季節がある。
デザイン事務所「トロポポーズ」で働く装丁デザイナーの原田織ヱは食べることが大好き。おなかが空いたら,アイデアに詰まったら,美味しそうなものを見つけたら,本能の赴くままに食事へ向かいます。数ある料理の中でも,特にスープが大好き。手軽に作れる。栄養も水分もとれる。体も心も温まる。四季折々の食材を使ったスープを飲んで,今日も織ヱは仕事に燃えるのです・・・・・・

オリオリスープ(1) (モーニング KC)

オリオリスープ(1) (モーニング KC)

ということで,綿貫芳子先生『オリオリスープ』のレビューです。
美人なのにどこか残念臭の漂う装丁デザイナー・原田織ヱが,仕事の合間に,一日の終わりに,お酒を飲む前に,季節の節目に食べる,旬の食材を使った汁物たち。食べることに幸せを強く覚える彼女の仕事ぶりや人間関係が,スープを中心に描かれています。
料理や食事にまつわる作品は最近本当に増えた印象がありますが,その種の作品に必要なのは,なんといっても,いかに食事を美味しそうに,幸せそうに食べているかだと思います。詳しいレシピや料理のうんちくが必要ないとは言いませんが,食事をとることで心も体もほっとする,読んでいる私たちも日常的に感じるその感覚を追想させてくれるような描写こそが,面白さの肝でしょう(それの逆張りをいった,『鬱ご飯』 という怪作もありますが)。
私の好きな食事漫画は、他に『きのう、何食べた?』『高杉さん家のお弁当』『まかない君』 などがありますが、本作がそれらと違う点が、誰かと食べることに主眼が置かれていない点です。挙げた三作品は、誰かと食卓を囲むこと、誰かのために作ることが前面に出ていますが、本作『オリオリスープ』は、あくまで季節感のあるスープを美味しく食べること。誰かと食べもするし、一人でも食べる。どう食べるにしろ、食べることに満足したい、食べることで楽しくなりたい。だって食べることは幸せなことなんだから。そんな気持ちが伝わってきます。
主人公の織ヱいわく,スープとは「汁気の多いもの全般」であり,「人に必要な栄養と水分を一皿で補える」ものである,そしてなにより「ホッとする」もの。「疲れてる時や元気が出ない時 一口飲むだけで心も体もあたたまる」もの。もちろん「簡単に作れる」ことも重要ですが。
この「一口飲むだけで心も体もあたたまる」というのは,本当によくわかります。私も職場にはインスタント味噌汁を常備してありますし,夕食にはお椀ものを一つ作るようにしています。和洋中なんであれ,メインのほかに汁物があると,消化の助けになるし,口の中もリフレッシュできる。また,おなかも膨らむので,食べ過ぎも避けられます。これからの季節は特に,温かい汁物のありがたさが身にしみるものです。手の込んだスープはもちろん,出汁の素と味噌と,ちょっとした野菜や乾物なんかでつくった簡単な味噌汁でも,あるとないじゃ食事の満足感が大違いですからね。
作中では,タイトルのとおり,季節感にこだわったスープ(広く「汁気の多いもの全般」)がよく出てきます。春に始まる第一話の,菜の花とベーコンのミルク煮,新じゃがのポトフ,オクラとミョウガのお吸い物,サバ缶の冷や汁,名残のトマトのラタトゥイユ,蕪のポタージュと,1巻最終話時点で秋になるまで,季節の食材を使ったスープが食べられているのです。スープ以外にも,梅酒や枇杷のコンポート,かき氷など,スープでなくとも季節感のある食べ物が登場します。各話のタイトルに時期が明示されているくらいですから(「第3話 5月上旬 ショウブとヨモギ」のように)、季節感を意識しているのがよくわかります。
季節感のある食べ物を登場させる時,当然必要になるのが季節そのものの描写です。さわやかな風の吹く春。夏の気配が取って代わり出す6月の頭。蒸し暑さにうんざりする梅雨の最中。夏影の色濃くなる初夏。線香の煙漂うお盆。花火に切なさが灯る晩夏。稔りがあふれ出す秋口。少ないながらも要所に描かれる季節感が,食事の風味をいや増してくれています。
特にいいなと思ったのが,夏らしさを感じさせる描写で,私がそれを感じるのは,夏の強い日差しそのものよりも,日差しから生まれる濃い影なんですよね。日差しの明るさではなく,日陰の中の暗さ。明るさのコントラストが,光の強さを際だたせるようです。そんなコマがちょっとあるだけで作中の夏らしさは,読んでいる今が晩秋であろうと,焼けるアスファルトの匂いと一緒に浮かび上がり,食べられているかき氷やミョウガとオクラのお吸い物なんかに喉が鳴るのです。おいしそう。
みんなが仕事でキリキリする中でも,ふと思い立ってスープを作り出す織ヱですから,自由奔放に生きているように見えますし,実際そのとおりなのでしょう。論理や理屈ではなく,フィーリングでものつくりに取り組み,周りをあっと言わせるようなものを生み出す織ヱの姿に,呆れる人もいれば感心する人もいて,妬む人もいて。そして,奔放に見える織ヱにも,やっぱり暗いとげが刺さっていて。慕っていた祖父の死や,家族との折り合い。まだ明かされてはいませんが,とげはそれなりに大きそうです。美味しい料理は,甘い辛い酸っぱいいしょっぱいの単純な味だけでなく,苦みやえぐみ,青臭さなんかの一見マイナスに思えるものも味の奥深さに貢献しているように,癖のある人間関係や人となりが,物語の展開に奥行きを加えています。
季節感を味わいながら読み進めれば、思わずスープが欲しくなってしまいます。
試し読みはこちらから。
オリオリスープ/綿貫芳子 モアイ


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勇介君、いくら恋でもそれはストーカーです 恋愛初心者の危ない恋模様『ゆーあい』の話

高橋勇介君15歳。高校入学式の当日に一目惚れをしました。お相手はクラスメートの相沢あいさん。生まれて初めてのトキメキに、彼女へ話しかけることさえできない勇介君。しかし、あふれる恋心を抑えつけることは出来ず、彼は行動を起こしました。
とりあえず後をつける。
犯罪スレスレの行動っていうかぶっちゃけストーカー事案に、勇介の友人・巻弘樹君も、あいの友人・山里美咲もドンびき。ただ当人のあいだけは、事態を理解しているのかいないのか、勇介の気持ちに気づいているのかいないのか、飄々と振る舞うばかり。あいと目が合えば、まともに話すこともままならずに鼻血を流すだけの勇介君。彼の恋はいったいどうなるの……?

ゆーあい(1) (メテオCOMICS)

ゆーあい(1) (メテオCOMICS)

ということで、とこみち先生の初単行本『ゆーあい』のレビューです。
恋愛初心者の勇介君と、恋愛何考えてんだかわかんないあいちゃん。そんな二人の噛み合うわけのないやりとりに、二人の友人である巻君と美咲ちゃんがいつ果てるとも知れないツッコミをいれまくる。そんなドタバタラブコメディです。……ラブ? ストーキングが?
とまれ、基本的にコミュニケーション能力が高く、人見知りもしないような人間である勇介君が、おそらく生まれて初めてなのであろう、一目惚れ。フォーリンラブ。あいちゃんの顔も見られない、話しかけられない、うかつに向き合えば鼻血を出して卒倒してしまう。ウブを通り越して治療が必要なレベルの反応を見せる彼は、そこからどこをどう拗らせたのか、あいちゃんの後をつける、使用済みのストローをねだる、理科の実験で採取した粘膜細胞をほしがる。別の意味で治療が必要な行為に走る勇介君に、巻君も美咲ちゃんもなんとか彼を止めるべく、声も枯れよとツッコミ続けます。たいへんですね。時には勇介君のやまぬ奇行に疲れ果て、お互いがお互いにつっこむ役割を押し付けたりもしてます。
しかし、そんなわやくちゃに騒ぐ三人をよそに、当のあい本人は勇介君の奇行を基本スルー。後をつけてきても知ってて黙認。どころか、「なんでついてきたの?」とさも不思議そうに直接勇介君を問い詰める(そして勇介君は鼻血を出す)。ストローをねだられれば、「舐めなければいいよ」とあげる。細胞に関しては「ストローよりまぁいいかって思う」と許可(結局手に入れられなかったけど)。その、神秘的ともブラックホールとも形容される大きな目は、何を見てるのか何を考えているのかまるで読ませず、喜怒哀楽すべて同じ表情で済ませる女・相沢あい。ちょっと器が大きすぎやしませんかね。
そんなあいちゃんですが、要所要所で人間らしい、というと語弊がありそうですが、何を考えているかはよくわからないけど何かは考えていそうな表情を浮かべていて、それがただのスラップステイックでは終わらせなそうな予感をさせてくれます。
また、表現面について言うと、本作品は基本的に会話劇なのに、キャラクターがとてもよく動いているし、キャラクターたちがいる世界に奥行、空間を感じられます。それはたぶん、背景のあるコマや、カメラアングルを多方向から、しかも無理を感じさせないように配置しているから。詳しくは別稿に譲りたいところですが、キャラクターたちがいる空間やキャラクター自身が様々な角度から描かれているために、作中での彼らの動きに三次元性を強く感じられるのです。アニメ化(=キャラクターが実際に動いているところ)を想像しやすい、というとそれなりに近い言い方になるかもしれませんね。実際には省略されている、コマとコマの間にあるキャラクターの動作が、容易に想像できるというか、スムーズにコマ同士でつながっているというか。
ギャグ漫画でこういう描き方がされているものは少ないように思えるのですが、テンポの良い会話劇にこの動作のスムーズさがあいまって、ぐいぐい話に引き込まれていくのです。
1巻最終話では、どういう神様のおふざけか、あいちゃんとデートの約束を取り付けることのできた勇介君。さあ、初めてのデートはいったいどうなる?
お薦めのギャグ漫画です。
第一話はこちらからどうぞ。ゆーあい/コミックメテオ


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遺伝子の海で生きる、ヒトとヒトならざるものと『螺旋じかけの海』の話

遺伝子操作が産業化し、複数の遺伝子を掛け合わされた生物・キメラ体が多く生み出された世界。そしてそこは、ヒト種優生保護法により、ヒトとしての人格を持ちながらヒトではないとされ、差別や迫害に苦しむ、あるいは金持ちの玩具として売買されるものが生み出された世界でもある。
音喜多涼彦(おときたすずひこ)はそんな世界で、遺伝子操作を生業とするモグリの生体操作師として生きていた。半分水没した都市に浮かぶ船上で、居候で助手の雪晴と暮らす彼の下には、治療を待つ傷ついた動物や、ヒトならざるヒトが身を寄せる。
ヒトとはなにか。ヒトではないとはどういうことなのか。境界のあわいを生きるヒトたちは何を思うのか……

螺旋じかけの海(1) (アフタヌーンKC)

螺旋じかけの海(1) (アフタヌーンKC)

ということで、永田礼路先生『螺旋じかけの海』のレビューです。
時は近未来。遺伝子操作が発達した世界で、その技術は医療のみならず、嗜好娯楽のためにも利用されていました。すなわち、遺伝子を操作した生物が愛玩用に飼われているのですが、問題なのは「生物」のカテゴリが人間にまで及びかねないことです。
倫理や道徳が技術に追いつかないのは世の常。ヒトとそうでないものをいかに分かつか。社会が庇護するべきヒトとは誰なのか。
その問いに一定の解決を与えるために制定されたのが、ヒト種優生保護法です。異種遺伝子が組み込まれ、ヒト以外の種の組織が15%以上含まれている存在をヒトではないものとし、人間を対象とする法の庇護から外しすことにしたのです。
外観がいかにヒトのようであっても、ひとたび遺伝子と体組織の割合が基準から外れれば、それはもうヒトならざるもの。それを殺したところで、殺人の罪に問われることさえありません。それゆえ、もし秘密裏に人間へ遺伝子操作を施し、遺伝子や体組織の割合を変えてしまったら。胚の段階で調節をして、後天的に非ヒトの部分が発現するようにしたら。
こうして、世には、持つ者のために不法な遺伝子操作を施されてしまった持たざる者、ヒトならざるものが生まれてしまっているのです。
音喜多は、そんな世にモグリの生体操作師として暮らす中年男性。不真面目でちゃらんぽらんな性格で、不安定な社会の中で、時として警察に追われながら、遺伝子の操作による整形術や治療を生業としています。
そして、彼自身もまたヒトならざるもの。普通は、本来の種以外に一つの遺伝子しか掛け合わされないものを、彼には一体いくつの遺伝子が組み込まれているのか、ちょっとしたことがきっかけでさまざまな種の遺伝子が発現し、鱗が形成されたり粘液が染み出たり尻尾が生えたり。当然それら体組織の割合は15%以上。法的に彼は、ヒトではありません。しかし、彼が生体操作師として暮らしていけているのは、まさにその体質のおかげです。自分自身の体質と長く付き合ってきたからこそ、他者の遺伝子操作にも熟達するし、異なる遺伝子の発現に苦しむヒトの気持ちもわかる。彼の周りには、そんなヒトやヒトならざるものが集ってきます。
この、人の道徳や法が少しささくれてしまった世界で、ヒトはどう生きるのか。ヒトであったはずなのにヒトでなくなってしまったものはどう生きるのか。ヒトの意識を持ちながらヒトでない形を選んだものの人生は。
そんな難度の高い問いを、静かに問い続けていくような物語です。たとえば第三話では、中島敦の『山月記』を下敷きにしたと思しき話が描かれています。人里はずれた川べりに住むワニ、ウドーは、かつてヒトだったもの。スラムで食い詰めたところでワニの形質が発現し、研究所の人間に捉えられ、人権の剥奪された被験体として生きていたのですが、別の研究所に移送される途中で事故に遭い、たまたま通りかかった音喜多に連れられて、彼の船へ身を寄せました。ウドーを治そうとした音喜多でしたが、ワニの体組織が余りにも多く発現してしまい、恐竜人間と見まごうばかりになってしまったウドーを人間に戻すことはほぼ不可能で、結局彼に三択を突き付けることしかできませんでした。すなわち、施設に戻るか、死ぬか、あるいはワニとして生きるか。
最終的にウドーが選んだのは、ワニとして生きることでした。ヒトとしての意識を持ちながら、生体としては完全にワニになる。ただ、人工声帯だけはつけることで、人間、といっても音喜多と助手の雪晴くらいしかいないのですが、会話をすることを可能にしました。それと、歌。周りに鳥や魚や植物しかいない孤独な自然の中、ウドーはヒトの意識を保つために、歌を歌っていました。そしてそれは、彼が研究施設で過ごしていた時に身に着けた習慣でもあります。歌を歌っている時だけは、彼は自分が人であると思えたのです。
しかし、ワニの身体と生活は、いつしかヒトの意識を薄れさせます。ウドーの経過を見るため定期的に彼の下を訪れる、恩人にして友人である音喜多や雪晴に対してさえ、次第に見る目が変わっていってしまうのです。
完全にヒトの意識がなくなってしまう前に、ウドーが選ぶ道は。音喜多らが選ぶ道は。
乱雑な社会の中で、さびしいものたちが寄り添うように、傷を舐め合うように生きている。ちょうど今時分の冷たく乾いた空気が漂っているような世界の雰囲気がいい感じです。自身もヒトから外れている音喜多が、この先ヒトと、ヒトならざるものとどうかかわっていくのか。彼はどうなっていくのか。今後の描かれ方が気になる作品です。
第一話の試し読みはこちらから。
螺旋じかけの海/永田礼路-モアイ


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『亜人ちゃんは語りたい』性質と「らしさ」の話

亜人ちゃんは語りたい(2) (ヤンマガKCスペシャル)

亜人ちゃんは語りたい(2) (ヤンマガKCスペシャル)

意外に早く感じた、『亜人ちゃんは語りたい』の第2巻。でも、1巻発売はまだ今年の3月と思うと不思議な感じもする。もっと前の気がするのはなぜ。
それはともかく、2巻で私が心に残ったのは第11話です。双子のバンパイアの姉を持つ小鳥遊あかりが、その姉(を含むデミたち)に興味を持っている主人公の生物教師・高橋鉄男とたまたま下校のタイミングが重なったので、かねてより気になっていた、姉と親しく接している彼は、姉そものではなく姉のデミとしての部分に興味があるだけなのではないか、という疑念を晴らすべく、かまをかけるようにして「姉の『人間性』についてはそれほど興味はありませんか」話を振ってみたのですが、それに対して鉄男はこう答えました。

確かにあいつは『バンパイアの性質』に即した行動はあまりしない
だがそれでバンパイアらしくない・・・・・と言われると
…それは違う
ひかりは人から血を吸いたい気持ちはあるがパックで我慢している
またバンパイアの嗅覚を上回ってなお匂いの強い食べ物が好き
そういった『人間性』があいつのバンパイアらしさ・・・・・・・・であり人間としての個性・・・・・・・・
らしさ・・・は生まれ持った『性質』ではない 『性質』をふまえてどう生きるかだ
(中略)
亜人デミの性質』だけ見ていると個性を見失う
人間性』だけを見ていると悩みの原因にたどり着けない
どっちも大切だ
バランスが大事なんだ
オレはそう考えている
亜人ちゃんは語りたい 2巻 p28〜31)

この彼のセリフを念頭に置いて、改めて1巻から読み返してみると、随所にそのような描写があります。すなわち、亜人の性質とはあくまで体質的なもの、たとえば海苔を消化できるのは日本人だけとか、ヨーロッパ系の人種はお酒に強いとかそういう類のものであり、各々の性格や趣味嗜好、その人らしさとは、性質そのものを指すのではなく、性質を踏まえた上で、そしてその他の体質や環境等も踏まえて発露しているもの、という描き方がされています。
たとえば、第4話でデュラハンである町から、頭部を抱きしめてくれないかとお願いされた鉄男は、彼女のことをこう分析しています。

デュラハンは頭だけでは身動き一つとれない
移動するには自身の身体にしろ人肌に触れる必要がある
つまり孤独を嫌うこと自体がデュラハンの性質であり
言い換えればさみしがりであり
デュラハンちゃんはまだまだ甘えたいのだ
(1巻 p62)

デュラハンは、頭部とそれ以外の身体が分離しているデミです。それゆえ、上で鉄男が思ったような身体的な性質があり、そこから、さみしがりで甘えたがりという「町らしさ」が導かれています。
町自身もその点を自覚していて

デュラハンだから…… こうやって抱えられてるときが一番安心できるっていうか……好きなの
だから その… 好きな 人に… 抱えられてぶらぶらできたらいいなって…
(1巻 p70)

と、希望のデートプランを語っています。甘酸っぺえなあ。
また、気を抜くと他者を催淫してしまうサキュバスの早紀絵先生は、その性質ゆえに、恋愛に対して懐疑的になっています。

世間で言う恋愛関係を構築するのは難しくない… それこそ派手な格好をして外を歩けば―― 異性は好意を持ってやってくる…
ただそれは本当の恋愛ではないと思う
その好意はニセモノだと…
……
でも私が異性を好きになったとき その気持ちは異性が私を想う気持ちと何か異なるのだろうか……
何も違わないとすれば……
私の気持ちもまた――……
(1巻 p89,90)

「性欲の亢進」という性質から、人付き合いに対して臆病になっている早紀絵先生。それもまた彼女らしさです。
このように、町や早紀絵先生は、自身の性質と、そしてそれを踏まえた上での自分の性格に自覚的なのですが、雪女のデミである雪はそうではなく、2巻ではそんな彼女にスポットが当たりました。すでに1巻の時点で、彼女がデミである自分自身に苦しんでいる話は出ていましたが、いわばその解決編です。
高校に入学するときに田舎から上京してきた雪は、急変した新しい環境に不安を覚え、鬱々とした気分で入浴していました。すると気がつけば、湯船の中に氷の小片が。それはすぐに融けたものの、彼女は恐怖に駆られました。ひょっとして自分が発する冷気は、お湯を凍らせるほどのものなのでは、と。

……怖いんです 結局自分がどれくらい・・・・・危険なのかわからない……
それがわかって他人に伝えられれば 胸を張って“私は雪女だ”と言えるのに……
(2巻 p43)

自分が知らぬ間に誰かを傷つけてしまうかもしれない。自分がどういう人間かがわからない。その恐怖、不安が、彼女をひどく傷つきやすいものにしていました。
自分の陰口を偶々聞いてしまった雪は、その誰にも起こりうる事件に大きく心をえぐられます。もちろん、誰にも起こりうるかとら言ってそれが人を傷つけない理由にはなりませんが、傷ついた彼女の様子は、それなりの期間教師生活を続けてきた鉄男から見ても、度を越しているようでした。落ち込む彼女のフォローをしようとする彼の言葉を食うようにして、「私が亜人だからですかね…?」と、苦悶の言葉を絞り出しました。

ひかり 町 そして佐藤先生もそうだろう
今まで出会った亜人たちは その性質を受け入れて生活していた
だが当然 亜人であることに折り合いがつかず苦しむ子もいる 当然だ
(1巻 p109)

この、デミであることと折り合いがつかない雪に、うまく折り合いをつけさせたのが、2巻最大の山場だったのですが、その時の鉄男の説明も、雪が悩む雪女としての性質を具体的に明らかにするものでした。雪はその説明を聞き、自分の性質を踏まえられて初めて、雪女として胸を張って生きられるようになったのです。13話ラストの、自信に満ちた笑顔で「私 雪女ですからっ!」と言った彼女の姿が、その何よりの証左でしょう。


ところで、サキュバスの早紀絵先生や、雪女の雪は、名前と亜人の関連性を見て取れるのですが、ひかりと町はなんなのでしょう。ふと思ったのが、町の場合は、「町」という漢字が、頭部(田)を持っている人(丁)を横から見た象形文字なのではという仮説。2巻の表紙とか、それっぽくないですか?


ところでその2、地味かわいい女子高生に辛い話を音読させながら足湯をさせるって、ちょっとした女子高生リフレですよね。どこでいくら払えば体験できますか?



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